幻水5
坊ちゃん・2主・王子の名前を変換する
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露天風呂常連のカイルの話
露天風呂にもうもうと立ちのぼる、真っ白な湯けむりに取り巻かれながら。それでもカイルのブルーの虹彩にくっきりと映り込んでいるのは、芸術的と言えるほどに美しくなめらかなうなじだった。銀にきらめく豊かな髪は、高い位置でひとつにまとめられている。呼吸のたびに肺に取り込まれる湯気までもが、この上なくいい匂いをしっとりと漂わせている、ような気がした。
カイルは一瞬、そこにアルシュタート陛下がいるのかと思った。けれど、それはありえない話だ。彼女がこのセラス湖の城にいるはずがない。
で、あれば――
(もしかして、ジーンさん……?)
無意識にノドの奥がゴクッと鳴る。
ジョセフィーヌちゃんではないだろう。シュラ・ヴァルヤ将軍の群青色の直毛を見るに、彼女の華やかな銀の巻き毛はおそらく地毛ではない。染めているのであれば、どこかしら地色が目に付くはずだから、あれは鬘ではないか、というのがカイルの見立てだった。鬘を付けて風呂に入る人間はいまい。それに、彼女の体格はもっと可愛らしく、華奢なのだ。
(じゃなかったら、斎主様?)
一瞬であれこれと思考を巡らせつつも、結局のところ、今からカイルのとるべき行動は既に決まっていた。
出会ったからには挨拶をする。単純明快なことだ。同じ場所に居合わせながら挨拶もしないだなんて、騎士として許されざる非礼だろう。女王騎士の恥と言ってもいい。
あの銀髪美女に、声をかけて挨拶をしなくてはならない。
使命感に燃え上がりながら、カイルはだだっ広い湯船の中をジャブジャブと進み、美女へと近付いていく。
あと数歩だけ近付いたら、声をかけよう。やや離れてはいるが、あまり近付きすぎても相手を警戒させてしまうかもしれない。
それに、この角度からいけば、相手が振り返った瞬間に、運が良ければポロリも……。ではなくて、逆に離れすぎていたら、それはそれでこちらの声が届かないかもしれない。そんなの失礼だ。
あと三歩、あと二歩、あと一歩――……
「はぁい、そこまでですよぉ」
間延びした声とまったく同時に。カイルが首筋に感じたのは、突き付けられた冷たい刃物の感覚だった。
ピタリと足を止め、カイルはゆっくりと両手を頭の横に挙げる。あと一ミリでも動いていれば、あやうく湯船が血の海になるところだったと悟る。
「ミアキス殿、これはなんの冗談ですかー?」
微動だにせずに目線だけを動かして、刃をかまえる人物――ミアキスを見やる。
ここまで一切、殺気も気配さえも感じさせないとは。さすがは若くして女王騎士となっただけのことはある、とカイルは思った。カイルが平常心でなかったために気付けなかったとか、そんなことあろうはずがない。血流が脳よりも下半身に若干偏りかけていただなんて、そんなことは絶対にないない。
ミアキスはなぜだか女王騎士の正装姿だった。混浴の露天風呂内にも関わらずだ。なんと嘆かわしいことだろう。
「冗談なんかじゃありませんよぉ。王子の護衛ですぅ」
「王子、の……?」
カイルは眉をひそめてオウム返しにした。ほんの少しでも首をかしげたら、今にも小太刀が頸動脈を切り裂きそうなので、動かすのは表情筋のみに留めておく。
その時、湯けむりの向こう側で銀色の髪がゆらりと揺れ動くのが見てとれた。
彼女もこちらのやりとりに気付いたのだろう。艶めかしい首筋の美女が、ついにこちらを振り向く――かと、思いきや。
「ん? カイルじゃない。奇遇だね」
振り返ったのは、カイルのよく知る人物だった。
ミアキスが護衛をしていると言った、その人。ゾンターク王子殿下だ。
ガックリと膝をつけば首が跳ね跳んでしまいそうなので、カイルは涙を流しながら「王子! こんばんはー! 奇遇ですね!」と空元気あふれる挨拶を返したのだった。
このゾンターク王子殿下、腕っぷしはかなりのものだが、カイルが知りうる限り史上最強クラスの美女の血を引くだけあって、一見すると美少女ないし美女と見紛うほどの美貌を持ち合わせておられる。まさかここまで綺麗なうなじをお持ちだとは知らなかったが。
「ああ、それで護衛」
カイルが納得してポンと手を打つと、ゾンタークはこともあろうに「いくら丸腰とはいえ、大げさじゃない?」と苦笑した。
確かにここは王子の居城だが、侵入者がゼロであると断定はできない。幽世の門が侮っていい相手でないことは、身をもってわかっていた。それに、軍には色々な人間が存在している。それもこれも、王子があっちこっちで見境なく勧誘しまくっているためだ。みんながみんな美女であれば良いのだが、そうもいかない。一定数は男も存在するし、その全員がカイルのように理性的とは限らないだろう。
「王子は男の子ですけど、王族ですから。護衛を付けるのは当然でしょう」
なんといっても、相手は艶めかしい後ろ姿の、美貌の王子。
カイルに同意するように、ミアキスもウンウンと頷いてみせる。
「不届き者はサクッと切り落としてやらないといけませんからねぇ」
のんびりおっとりと告げられた言葉に、カイルとゾンタークは揃って顔を青くしながら、こっそりとミアキスに背中を向けた。
「私がちゃあんと護衛できるように、王子にはいつも混浴に入ってもらってるんです」
「なんだー、そんなことなら、俺も一緒に護衛しますよ!」
カイルは顔色を変えて、食い気味に護衛役に立候補した。ただし、ミアキスに体の前面は向けないままで。
勤務地は混浴の露天風呂。こんな好条件の仕事が他にあろうか。いや、条件うんぬんでなく……、王子の護衛は女王騎士として当然の務めだろう。今はリオンが身動きできないため、そこは先輩騎士としてカバーすべきところだ。
「それは助かりますねぇ。護衛のお仕事のためにガレオン殿を混浴に付き合わせるのも、そろそろ申し訳ないなと思っていたところなんですぅ」
「モチロンモチロン! ガレオン殿とミアキス殿に働かせて、俺が休んでるわけにいかないでしょ!」
ガレオンまで混浴での護衛の任に当たっていたらしい。なんと羨ま……、いや、知らぬうちに先輩を働かせていただなんて、非常に申し訳ないことをした。
ということは、彼もこの露天風呂内に潜んでいるのだろうか。護衛交代の挨拶をしなければなるまい。
思って、カイルが目を凝らすと、女王騎士の正装がプカーと湯に揺られていることに気付く。
「もー、ガレオン殿、いくら護衛中だからって、服を着たまま湯船に入ったら――」
言いかけて、カイルは自分の頭からサアッと血の気が引いていくのを感じた。
湯船につかったガレオンの衣が湯に揺らされているのだと思っていたのに。湯船に浮かんでいるのは女王騎士正装の衣ではなく、正装姿のままのガレオン本体だった。それも仰向けではなく、うつ伏せの状態の。
「ガ、ガレオン殿ー!?」
悲鳴に近い声を上げて、カイルはガレオンを湯船から引っ張り上げた。これでもかと水を含んだ衣がズッシリ重たいが、今はそんなことを気にしている場合ではない。とにかく力任せだ。グッタリしているガレオンを地べたに横たえ、呼吸を確認しようとして――いや、呼吸の有無に関わらずガレオン相手の人工呼吸は無理めなので、カイルは単純に心臓を拳でブッ叩くことにした。
「さっき、お風呂に入りにきたシルヴァ先生と鉢合わせしちゃってぇ。先生ったら、ガレオン殿にものすごい勢いで手桶を投げつけちゃったんですよねぇ」
「先生、恥じらっちゃって可愛らしいー! でもこの状態のガレオン殿放ったらかさないで!」
「女王騎士を一撃で昏倒させるだなんて、さすが人体を知り尽くしてるだけのことはあるよね」
「王子も関心してないで! 心肺蘇生ぇー!」
せわしなくツッコミを入れながら、先輩騎士の胸骨を殴ること数回。
そのうちに、ガレオンは噴水のように、口からピューと水を吐き出した。
先輩騎士がゲホゴホと咳込みだすのを見届けてから、カイルは大きく息をついた。
なんにせよ、明日からは王子の護衛という大義名分のもと、混浴に滞在できるのだ。もとよりこの露天風呂に入浴すること自体に問題があるわけでもないので(先輩騎士は乙女の制裁を受けたようだが)、王子の護衛と自分の入浴とで、一日に二度も混浴に立ち入ることになるわけだ。そんなに頻繁に出入りしていれば、お風呂でバッタリ☆ラッキースケベ待ったなし……いや、あくまで意図せず偶然に、真なる美女と邂逅することもあり得るというものだ。
緩む表情筋を引き締めながら、カイルはかつてないほどのおおらかな心で、先輩騎士の背中をさすってやった。
立ち込める湯けむり。湯船からのぼる真っ白な湯気のにおいに、どうしてもむせ込みそうになる。
隣の女王騎士はきっちり正装を着込んで、まとわりつくような湿気に汗を垂らしながらも、表情をキッと引き締めている。
一方カイルはというと、ラフな私服姿で長い髪はまとめ上げているものの、暑さとかにおいとか気分とかテンションとか、そういったもののおかげで今にも倒れそうだった。
湯船には、カイルが護衛を務めるゾンターク王子と、あとはむさ苦しい男どもが数人。湯気に含まれる男たちのにおいが、カイルのめまいを誘う。せめて露天風呂なら、湯気だってこもりもしないだろうに。
「王子ー、なんでまた男湯に?」
泣きそうになりながらカイルが声を上げると、美貌のゾンターク王子殿下はキョトンとした表情を浮かべて、ほっそりした真っ白な首を傾げた。
「なんでって……ミアキスやリオンが護衛につかないのなら、混浴に行く必要もないよね?」
「さようでございますな」
カイルの隣で、共に護衛の任に当たるガレオンが深々と頷く。先輩騎士の額では、昨日シルヴァ先生にやられたタンコブがしっかりとその存在を主張していた。
この度、カイルが護衛として名乗りを上げたがために、ミアキスが任を外れ、カイルとガレオンが王子入浴中の護衛にあたることとなったのだった。
男三人で混浴に行かなくてはならない特段の理由もないが、だからといって男湯にこもる必要もないだろうに。
ゾンタークは男の子にも関わらず、カイルの心をまったく理解しようともしない。
「なんで? なんで? 合法的に混浴に入れるのに? 俺は悲しい……悲しいですよ、王子!」
カイルは苦言を呈しながら、滝のような汗と涙をだばだばとこぼしたのだった。