幻水2
坊ちゃん・2主・王子の名前を変換する
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眠れない軍主と眠らない軍師の話
――マキノ様はずっとお休みになられていないようです。
軍主の護衛を担う兵のひとりが、そう報告していった。
シュウは重たい頭を抱えながら、紙にペンを走らせ続けた。
皇都に攻め入るときが近付きつつある。最善の、いや、間違いなくうまくいく、勝利に導くための策が必要だった。
「兄さん、そろそろ休まれては? 眠れないのなら、ホウアン先生にお薬を処方してもらってきましょうか?」
「俺は眠れないんじゃない。寝ていないだけだ」
負け惜しみに聞こえやしないだろうか。思いながらも、シュウは妹に言い切った。
実際、眠れないわけではないのだ。眠ろうと思えば寝ることはできる。ただ、今はそうすべきではないというだけで。
ロックアックスから引き上げてきてから三日。軍主の様子がいつもと異なることは、周知の事実だった。それはそうだろう。彼は唯一の家族を亡くしたのだ。
いつも通りに彼に接することのできる者はいない。腫れ物のような扱いを受け続けて、心身ともに休めることもできないまま、マキノはただ、軍主として『存在』している。
目の奥がズーンと重たく感じて、シュウは目頭をつまんだ。
「そんなこと言って、兄さんが倒れでもしたら、皆が困るんですからね!」
妹の大声が、頭の中でグワングワンと反響する。酔いを醒ますように頭を振ると、フゥ、と息を吐き出した。
小言を言うだけの暇があるなら、濃い茶でも淹れてきてくれないか。そう言おうとして、シュウは思い留まった。別に、妹を激昂させてしまうかもしれないと思ったからではない。
夜更け。
机の上を占拠する書類の束――の上に座り込もうとする猫をどけていると(前足で叩かれて噛みつかれたが、なんとか寝台の方へ移動させることに成功した)、シュウの部屋の扉が静かにノックされた。
「どうぞ」
返事をする。
開かれた扉の向こうにマキノの姿を認めて、シュウはこめかみの辺りがピクリとわずかに引きつるのを感じた。
マキノには表情がなく、ぼんやりとこちらに目を向けている。焦点が合っているのかどうかもよくわからない。
彼の後ろには、護衛が困った様子でくっついてきていた。
シュウはコッソリと嘆息すると、極力平静を装って主に目を向けた。
「何用ですかな」
何でもないことのように。いつも通りに彼に尋ねる。
するとマキノは、何でもないことのように「ナナミを知らない?」と言った。
彼は、姉が亡くなったことを知っている。わかっていないはずはない。寝惚けている風には見えないが、起きてはいないのかもしれない。あるいは、現実と夢の区別がつかなくなっているのかもしれない。ろくに休みもせずにロックアックスに攻め入り、戻ってきてからも不眠不休を貫いているのだ。無理もない話である。
(しかし、それは俺の仕事だろう)
舌打ちしたくなる衝動を抑えつつ、シュウは「いいえ、存じません」と簡潔に返事をしてやった。
「そう……」
マキノは目を伏せて、のそりと背を向けた。どこかへ行こうとしている。姉を見つけるまで、ずっと尋ねて回るつもりか。
「マキノ殿」
果たして彼に声は届くのだろうか。懸念を抱きながらも呼び止めると、意外なことにマキノはすぐに立ち止まった。そして再び、感情のない視線を向けてくる。
「ちょうど茶を淹れようと思っていたところです。こちらでゆっくりとナナミを待たれては?」
そんな、あるはずのない言葉でさえすんなり受け入れて、マキノはシュウの提案に頷いた。
マキノはティーテーブルに突っ伏して、規則的な寝息を立てていた。
(ここまで即効性があるものなのか?)
シュウは小瓶を手に取った。中で少量の水薬がチャプンと揺れる。用量は間違えてない。小瓶には指示量分の目盛りが手書きで書き込まれており、ちょうどひと目盛り分だけが減っていた。
マキノの茶に混ぜ込んだ分だ。
軍主ともあろう者が、こうも簡単に薬を盛られるとは嘆かわしい。それがいくら軍医の処方による薬とはいえ。いつもであれば説教のひとつでもしてやりたいところだが、今はとてもそんな気分にはなれなかった。
今のマキノは、判断力もほとんどないに等しい状態だろう。睡眠薬がこんなにも絶大な効果を示したのも、この数日間、眠ることは愚か、休むことさえしていなかったからに違いない。
ともあれ、主君をこんな場所で寝かしたままにしておくわけにはいかない。シュウは深い眠りにつくマキノを抱え上げようとして――
(重い……!)
想像以上の重量に、全身の筋肉が強張るのを感じた。
一度持ち上げた以上、とり落とすわけにはいかない。けれども、とてもではないが、階段を登って主の寝所まで運べる気はしなかった。
マキノは歳の割には小柄で、一見娘のように華奢な風にも見える。しかし、そんなのは見かけだけだった。武術家なだけあって、細い体躯に筋肉がぎっしり詰まっているかのような、ずっしりとした重みが腕にかかる。
そもそも考えてみたら、シュウは女ですら抱え上げたことがない。女を抱えて寝台まで運ぶなどといった、いわゆるロマンチックな情事には、あいにくと縁がないのだ。肉欲を満たすことを目的としているのならば、そういったまどろっこしい手順を踏む必要などないだろう。促しさえすれば、女は寝台に横たわって股を開く。
なんにしても、今までに体感したことのない重量に耐えながら、シュウは一歩一歩踏みしめて自室内を進んだ。下手をすればマキノを落としかねないし、一歩でも間違えれば即座にシュウの腰が崩壊してしまいそうだった。
シュウの近付く気配を感じたのか、ふと猫が目を覚ました。大きく伸びをしてからヒョイと寝台から飛び降りる。いつもと違う様子の飼い主を不審に思っているのか、こちらをジッと見ながら口の周りをピチャピチャ舐めていた(よだれが垂れていたようだ)。
猫が退いたあとの寝台に、どうにかこうにか主君を下ろして、シュウは大きく息を吐いた。ここはシュウの部屋なのだが、マキノの寝所まで運びようがないのだから、どうしようもない。
靴をそっと脱がせると、主に毛布を掛けて部屋の灯りを落とした。一瞬、彼の目尻に何かが光ったような気がしたが、なにせ暗闇の中だ。シュウの勘違いに違いない。
シュウは部屋の外に立たせていた護衛に声を掛けて、マキノが眠ってしまったため今夜はここでお守りするようにと指示を出した。
猫は足元をすり抜けてどこかへ行ってしまった。心配するまでもない。適当な場所で勝手に寝てくれるだろう。
夜間、城の出入り口には守衛が立つことになっている。声を掛けて外に出ても良いが、わざわざ彼らの手を煩わせずとも、酒場の中を抜れば宿に辿り着くことは可能だった。
酒場は深夜遅い時間までやっているようだ。入口からは灯りが煌々と漏れている。時間帯のせいもあって、騒がしいというほどではないが、確かに複数の話し声が聞こえてくる。
シュウが入口をくぐると、いくつかの視線がこちらに向けられた。
「おやおや、めずらしいじゃないか」
酒場の女将が声を掛けてくる。
「いや。宿の方に行くだけだ」
「宿だぁ?」
カウンターで酒を飲んでいた熊みたいな男が、ジョッキを置いた。まん丸な目がギョロリとこちらに向けられる。
「なんでまた?」
「マキノが俺の部屋で眠り込んでしまった。あいにく、俺の部屋にはひとつしか寝台を置いていないものでな」
言ってから、シュウは馬鹿正直に答えてしまったことを後悔した。お前には関係ない、と適当にあしらっておけば良かったのだ。
「眠らせたのか」
値踏みするかのような視線が不快で、シュウは隠しもせずに舌打ちをした。
「休養が必要だと判断した」
熊男に「詮索するな」としっかり釘を刺してから、その隣の椅子に腰掛ける。女将には強めの酒を注文した。
話を切り上げるには、ここから立ち去るのが最善なのは明らかだ。わかっていてシュウが酒場に留まったのは、単に酒が飲みたい気分になったからだ。
すべてを見透かしたかのような、この元傭兵の男と一緒というのは、少々気が進まないのだが。
ひとりで抱えるには荷が重い。けれども、他者と共有するつもりは一切ない。つまりは、そういった鬱積した思いをやり過ごすために、酒が欲しくなったのだった。
寝て起きれば、マキノは嫌でも現実と直面することになるだろう。今まで朦朧とした意識の中で受け入れずにいられたことも、明瞭な現実として有無を言わせず襲いかかってくる。
どちらが幸せかなんて、論ずるつもりはない。どちらにしても不幸だからだ。戦火の中に幸福などあろうはずもない。マキノの軍師として、必要な選択をしただけだ。
ほどなくしてカウンターに置かれた酒を煽る。睡眠が不足しているためだろうか、アルコールが急速に体内を巡って、脳を揺らした。
多少酔ったところで、問題はないだろう。どうせ今夜はもう宿で眠るだけだ。仕事はマキノと一緒に部屋に置いてきた。
「キャロまでは――」
考えていたことが、ふいに口を衝いて言葉になった。
熊男が「あ?」と聞き返してくる。ただの独り言だ。聞いてもらいたいわけではないのだが、シュウは改めて言い直した。
「キャロまでは、何日かかる?」
「マキノに里帰りでもさせるつもりか?」
「いや。そんなはすがないだろう」
こちらが即座に否定するのを見て、熊男はカウンターの向こう側の女将と目を見合わせた。
「だが……そうだな、いずれは……」
「なんだ? もう酔ったのか」
「お疲れなんだよ」
「俺は酔ってなどいない」
言ったところで、負け惜しみにしか聞こえなかっただろう。
熊男が肩をすくめるのを横目に、シュウはグラスに口をつけた。
里帰りなどさせるつもりはない。けれども、いずれは。マキノを
熊男にも、女将にも、意味のわからない話だろう。彼らは事情を知らないのだから。おかげで酔っ払いと勘違いされてしまった。
張本人はそろそろキャロに帰り着く頃だろうか。いや、先を急ぐ旅でもない。まだ道中かもしれない。
(まったく、厄介な仕事を残してくれる)
ため息をひとつこぼすと、シュウはグラスを空にした。
アルコールが血管内をひたひたに満たしている。今夜はほんのわずか、少なくとも酔いが覚めるまでの間は、眠ることができそうな気がした。