幻水2
坊ちゃん・2主・王子の名前を変換する
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ジレンマ
気付かぬうちに額に冷や汗が浮かんでいたらしく、それがツウと流れ落ちて、頬がひんやりした。
この場所は、夜は割と冷え込むようだ。
ジョウイは冷たくてゴツゴツした硬い床の上に、じっと座り込んでいた。かなり長い間そうしていたような気もするし、つい先ほどここに辿り着いたばかりのような気もする。
少なくとも、ここに来たのは日が落ちるよりも前の話だが。
窓がないため直接外の様子はうかがえないものの、粗末な造りの壁は隙間風を通し、遠くの陽気な笑い声がジョウイの耳にまで届いていた。
どこかで誰かが酒盛りを始めたようだ。つまり、今日の勤めを終えた傭兵たちが、徐々に酒場に集い始めるくらいの時間だということだろう。
体感時間がすっかり狂ってしまう程度に、ジョウイはひたすら自問を繰り返していた。
果たして自分はどうするべきなのだろうか、と。
ジョウイが望むのは自らが正しくあることだった。しかし、気付いてしまったのだ。心の奥底にある本当の思いは、それとは異なるのだということに。
そもそも、正しくあるということは、一体どういうことなのだろう。
最も道徳的で、より多くの者が好感を持つような選択肢。それらを、冷静に規範的な思考にもとづいて選びとること。それこそが、おそらく世間一般に言われる『正しい』行動というものだろう。無論、立場や状況によって、正解が異なることは重々に承知している。
それでは。なぜ、人は――いや、ジョウイ自身は『正しい』生き方をしたいと望むのか。
誰かに好かれたいから?
集団から逸脱したくないから?
それとも、のちに良心の呵責に苛まれることを恐れているから?
(いや、違うな。僕は、僕自身が『正しく』あることを好ましく思っているんだ。今までだって、ずっとそういう風にやってきた。別に、誰かに褒められたいわけでもない。他の誰でもない。僕が、『正しい』自分を好きなだけなんだ)
深いため息とともに、胸に若干のむかつきを覚えながら、ジョウイは顔をしかめた。
目を背けたところで、鮮やかな色の[bouten]それ[/bouten]は目の前から消えてなくなるはずもなく、いつまでもジョウイの視界の隅に留まって、余計に気分を沈ませてくれる。
果たして、こうも気分を害してまで、『正しく』あり続ける必要はあるのか。
答えはとっくにわかりきっていた。
否。
今まで自らが『正しい』と思い込んできた行動を、苦しみに抗ってまで――あるいは打ちひしがれながら、選び取るに値するだけの理由を、ジョウイはもうすっかり見出だせなくなってしまっていたのだ。
「ジョウイ? どうしたの……」
もごもごと名前を呼ばれて、ふと我に返る。
人懐っこさを強調するかのようなまん丸な瞳が、こちらをじっと見つめてきていた。
幼馴染みのマキノだ。彼の明るい茶色の瞳は、いつでもキラキラと光を反射していて、苦悩の色を一切感じさせない。
マキノはパサついた固いパンを豪快に頬張りながら、「食べておかないと元気が出ないよ」と、ごく当たり前のことのように言った。
(君はきっと、僕がこんなにも思い悩んでいることを理解できやしないだろう)
決して、マキノが何も考えない馬鹿だと思っているわけではない。
彼の本心と行動との間には、わずかばかりの齟齬もないのだ。少なくとも、ジョウイにはそう見える。
生き方を選ぶことにいちいち思い悩まないでいられるのがマキノの強さであって、ジョウイとの違いなのだった。
「何でもない――」
口癖のように条件反射で答えながら、匙ですくったスープを口へと運ぶ。極端に薄い味の、ぬるい液体。
(――何でもないわけがあるか。いつまで『正しさ』にこだわり続けるつもりなんだ、僕は……)
ジョウイは首を横に振った。
よく言えば、素材の味を生かした素朴なスープ。率直に言うならば、申し訳程度の量の野菜をただ煮込んだだけの、野菜の青臭さ以外の味がしない冷めたスープだ。
調味料が贅沢品だということはわかっているし、アトレイドの屋敷で出されるような食事を望めないこともわかっている。
ただ、質素ながらも満ち足りた食卓を、ジョウイは知っていた。
(ジョアンナさんの手料理は美味しかったな)
思い切って口の中のスープを飲み下すと、フゥと大きく息をつく。
傭兵業がいったいどのくらい金になるのかジョウイは知らないが、ここでは充分な量の食材を調達するにも苦労しているように見受けられる。にも関わらず、敵国の捕虜の分際で、これだけの食餌を配給されていることには感謝すべきだろう。
ごく限られた与えられた状況の中で、自ら進んで苦悩と決別してみせることが、まったく不可能というわけではない。ジョアンナという女性の作り出す幸福にはほど遠くとも。
苦しみながらも品行方正に生き抜く道を行くのか、大いなる苦しみから解き放たれるべく動くのか。
(そうだ。僕が幼少の頃から律儀に守り続けてきた『正しさ』を求める者など、ここには僕の他にいやしないんだ)
今ここで本心を抑え込んでしまう必要がどこにある?
ジョウイの歩む道を咎める者が、一体どこにいるというのか。
ちっぽけなこだわりを手放してしまえば済む、それだけの話だ。
ジョウイはいまだスープの底に沈み続ける[bouten]それ[/bouten]に目を向けた。
同時にこみ上げてくるむかつきをやり過ごすと、意を決して「マキノ」と、幼馴染みの名を呼ぶ。
マキノはスープを飲み干して「なに?」と首を傾げた。
マキノの髪が揺れて、かすかに彼の懐かしいにおいを感じる。それと同時にジョウイの脳裏をよぎったのは、キャロの道場での記憶だった。
(ああそうだ。道場でいただく食事も、僕の心を満たしてくれたんだ)
師が用意してくれることもあれば、皆で買い出しをして当番制で支度することもあった。料理が得意な者などひとりもおらず、美味とは言い難い食事。けれど、皆で囲む食卓は、ジョウイにとって確かに至福の時だったと言える。
(そう、ナナミはほうれん草が苦手で……)
思い至り、ジョウイはほんの少しだけ上目の媚びるような視線をマキノへと向けた。
ナナミ――マキノの姉が、よくやるような仕草。
(きっと、ナナミもマキノも、こうやって解決してきたんだ。何も難しいことはない。己の心のままに、言葉を伝えさえすれば事足りる)
時を忘れるほどに思い悩み、心の奥に湧き出て来た思いの丈。
今こそ、それを告げるときだった。
「マキノ……、ニンジン食べるかい?」
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