幻水1以前の話
坊ちゃん・2主・王子の名前を変換する
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グレミオの忙しい一日
日がのぼる前に起床して簡単な身支度を済ませると、すぐさまキッチンに立つ。それから、栄養が偏ることのないよう、使う食材をよくよく考えながら、朝食の支度へとりかかる。それがグレミオの朝の日課だった。
今朝は空気がだいぶやわらいでいるように感じる。日中はぽかぽかとあたたかな日が射すことが増えてきたものの、ほんの数日前まではまだまだ冷え込みも強く、ことに、火を入れる前のキッチンは、骨の髄まで凍てつきそうなほどに空気が冷たかったものだが。
朝食には、釜で焼くふわふわの白パンと、じっくり煮込んだ羊肉のシチュー、塩と酢とオイルを垂らした色とりどりの生野菜サラダを用意することにした。
屋敷の主がいるときには、さらに肉か魚の料理を一、二品とワインを並べる。けれど、まだ幼い坊ちゃんと二人の朝食は、いつもだいたいこんな感じだった。
しかしこれだけは言っておかねばなるまい。決して、相手が子どもと侮って、手抜きをしているわけではない。そこは断言しよう。
シチューには、これでもかという量の野菜をしっかり煮溶かしてある。肉も質のいいものを選んで、口の中でホロホロとろける柔らかさになるまで煮込んであるのだ。大人のように一度にたくさんの量を食べられない子どもが、たとえ一品でも必要十分な栄養を摂ることができるようにと、試行錯誤した上でのこだわりの献立である。
グレミオの仕事は、坊ちゃんのお世話をすること。つまり、坊ちゃんが健やかに成長できるようにお手伝いをすることこそが、何よりも優先すべきことなのだった。
「グレミオ。おはよう」
いつも通りに朝食が出来上がる頃にひとりで起きてきた坊ちゃんは、既に身なりも自分なりに整えておられた。人の手を借りずにこんなことまでできるなんて、神童とお呼びしても差し支えないだろう。寝癖で前髪が多少はねているものの、このくらいなら許容範囲だ。
(あとで直して差し上げよう)
思いながら、畏れ多くも坊ちゃんと揃って軽めの食事をいただく。
坊ちゃんいわく、「みんなで一緒に食べた方がおいしいんだよ」なのだそうだ。そのようなことをおっしゃって、いつもグレミオを食卓にお誘いくださる。よい子にもほどがあるというものだ。
坊ちゃんはよい子すぎるので、野菜も豆も肉も、毎食残すことなくきれいに召し上がる。
「ごちそうさまでした」
すこぶるよい子なので、坊ちゃんはわざわざ「おいしかったよ」と告げてから、食卓を離れられた。
小さな主人をにこやかに見送ると、グレミオはすぐさま食器の片付けをはじめた。
今日は忙しくなる。
この屋敷の主――坊ちゃんのご尊父であらせられるテオ・マクドール様が、長らくの遠征よりお戻りになるからだ。
テオ様はグレミオの雇い主である。早くに奥方様を亡くされたがために、大切な大切なご嫡男のお世話をグレミオに任せてくださっている。
敷布は清潔に洗い、冬の間にすっかり湿気てしまった布団を天日干しにして、テオ様の部屋を磨き上げ、豪勢な料理と香り高いワインでお迎えしなければならないだろう。
それに、何と言っても。坊ちゃんにとって、たった一人の肉親との再会なのだ。大切な大切な坊ちゃんの、より特別な一日となるように、できるだけのことをしてお仕えせねばなるまい。具体的に言えば、坊ちゃんの嗜好に合わせた食事をたっぷりと、それはもう絶対に食べきれないというほどに準備したいと考えているところだ。
幸い、坊ちゃんはおひとりで遊んでおられる。
今のうちに布団を干してしまって、夕餉の仕込みをはじめることとしよう。
キッチンは既にかなり暖かくなっていた。
たっぷりの湯の中で静かに茹だっているのは、牛すね肉だ。湯気とともに、加熱された肉のにおいが鍋から立ち上っている。当然若干のくさみは感じるものの、このあとシチューの中で煮込まれてトロトロになる様を想像すると、それだけで食欲がそそられるというものだ。
間で一度肉を洗ってから、二度目の下茹でをはじめたところで、そろそろ昼食の支度にもとりかからなければならないことに気付く。
朝のシチューが少し残ってはいるが、栄養面を考えると、昼は別の食材を使いたいところだった。もちろん晩のものとも区別したい。何と言っても、大切な坊ちゃんの体をつくりあげる、大切な食事なのだから。
(そういえば坊ちゃんは何をしておられるのだろう)
いつもなら、グレミオの方から声を掛けて、坊ちゃんと外を散歩して戻ってくるくらいの時間だった。
外に出られなかった分も埋め合わせできるように、坊ちゃんにより満足いただける食事を作り上げなければなるまい。
気合いを入れ直して、釜から下ろした肉と香草を合わせて炒めはじめる。いよいよ美味しそうなにおいが漂ってきて、昼食前の腹が盛大に音を立てた。
「グレミオー」
さながら天の使いかのような愛らしい声が背後から聞こえて、無条件に振り向きかけたところで、グレミオは自分が野菜を炒めている最中だということを思い出した。今は気を抜くわけにはいかない。火力の調節をほんの少しでも誤ると、あっという間に焦げ付いてしまうからだ。
「坊ちゃん、お腹空いたでしょう? ここまで終わったら、昼食の支度をはじめますからね」
「うん。ねぇ、グレミオこれ見て」
「坊ちゃん、ごめんなさい。少しだけ待っててくださいますか。今、どうしても手を離せなくて」
鉄のスキレットに意識を集中させながら、小さな主に声をかける。
失礼は重々承知だが、今晩坊ちゃんとテオ様に美味しいシチューを振る舞うために、これは絶対に抜かせない工程なのだ。
「グレミオー」
ねぇねぇと言いながら、坊ちゃんが腰の辺りをツンツンつついてくる。
小さな指がやたらとくすぐったくて、グレミオは悲鳴を上げた。
「ぼ、坊ちゃん、危ないですよ! 坊ちゃんの大好きなシチューを美味しくするためですので、もう少しだけ……」
「………………」
説明すると、小さな気配が背中から離れていくのがわかった。理解していただけたのだろうか。さすがは坊ちゃんだ。
先に肉を放り込んであった鍋に、たった今炒め上がった野菜を移す。ここからは、じっくりコトコトと煮込みの過程だ。多少手を離してもかまわないだろう。ようやく昼食の支度にとりかかることができる。
「坊ちゃん、お昼はお魚でもいいですか? 何か食べたいものはありませんか? あっ、もしかして、お昼もシチューが良かったりしますか?」
熱くなったスキレットを置いて手を離すと、グレミオはようやっと小さな主のいる方に目を向けた。
坊ちゃんは下を向いていて、まだ寝癖のついた前髪がピョコピョコとはねているのが気になる。
「ああ、坊ちゃん、申し訳ありません。前髪を直した方が良いだろうと思っていたのに、このグレミオときたらすっかり忘れてしまって……」
小さな貴人の前髪に触れようと、手を伸ばしかけたところで。
坊ちゃんは何かを床に投げつけた。
「……坊ちゃん?」
「そんなのどうでもいい。お昼もいらない。シチューなんて嫌い」
小さく言い捨てるようにして、坊ちゃんはキッチンをあとにした。
床に散らばったものに目をやる。野草だろうか。鮮やかな黄色の、小さな花をつけていた。
花を集めて拾い上げる。
もしや、いつの間にかひとりで外に出て、採ってこられたのだろうか。坊ちゃんは、これをグレミオに見せたかったのかもしれない。そうに違いない、心優しい坊ちゃんは花を見せに来てくれ「ぼぼぼぼぼぼぼ坊ちゃーーーーーーん?!」
グレミオは弾かれたように坊ちゃんのあとを追いかけた。
(それなのにこのグレミオは、少しも見ようともしないで! よい子の坊ちゃんがシチューを嫌いだなんて言うわけがない! 優しい心をお痛めになったのだ! このグレミオのせいで!)
小さな主の向かった先、階段をのぼってすぐ左側のお部屋――坊ちゃんの部屋の扉の前で、グレミオは膝をついた。
「坊ちゃん、申し訳ありません、浅慮なグレミオが悪いんです!」
決して何かの比喩ではなく、文字通りにダパダパと涙が溢れ出す。
「グレミオは何よりも坊ちゃんを優先しなければなりませんのに! 家事にかまけて坊ちゃんをそっちのけにしてしまうだなんて! 万死に値する愚行としか言いようがありません! かくなる上はこの腹掻っ捌いて償いを致したく存じますので、坊ちゃんにおかれましては何卒介錯をいただきたく」
懺悔をしていると、しばらくして扉があいた。
「ごめんね。ほんとは、グレミオのシチューは好き」
扉の向こう側には、慈悲深い神がおわした。
神はほんの少しだけバツが悪そうな顔をして、こちらからわずかに目線をずらしている。
「いいえ悪いのはバツではなく、このグレミオなんです!」
「えっ、バツ?」
くりくりした大きな目を一度だけパチクリさせると、坊ちゃんは何かを否定するように頭を振った。
「今日はグレミオが忙しいのは知ってたの。だけどね、道ばたにお花が咲いてたから……」
「お花! グレミオに見せに来てくださったんでしょう?」
大切に握りしめた野草を差し出す。
すると、坊ちゃんは優しく花に触れた。
「グレミオ、言ったでしよ。お花が咲く頃になったら、そこの川でお魚釣りができるって。僕、すごく楽しみだったの。だから、お花が咲くのをずっと待ってたんだよ。いつになったらお魚釣りができるかなって、毎日毎日お花を見て待ってたの」
(O・SA・KA・NA!)
坊ちゃんのおっしゃる通りだ。いつもの散歩道で川を見ながら、「春になれば一緒に魚釣りをしましょう」と言ったのは、間違いなくグレミオだった。
そうだ、今日はやけに暖かいと思ったのだ。いつの間にか春が訪れ、道ばたの野草は小さな黄色い花をほころばせていたのだった。
「坊ちゃんは、釣りをしに行きたかったんですね。わかりました」
グレミオが頷くと、しかし坊ちゃんはうつむいて、今までで一番バツの悪そうな顔をする。
「でもね、あのね。さっきはお昼いらないって言っちゃったんだけど、ほんとはね……」
その言葉を待ちわびていたかのように、坊ちゃんのお腹がきゅうううと可愛らしい音を立てたのだった。
日が傾き始めた頃、グレミオはたくさんの荷物を抱えて家路に着いた。
釣り竿をふたつと、バケツと、昼食のサンドイッチが入っていたバスケット。そして坊ちゃん。
坊ちゃんを背負った背中が温かい。すうすうと小さな寝息が聞こえた。
朝食後にひとりで屋敷を抜け出したり、道ばたの花を探して持ち帰ったり、春風を受けながら川原でサンドイッチを食べたり、魚を探して川べりをたくさん歩いたり。グレミオと連れ立って外に出てからというもの、坊ちゃんは始終笑顔で過ごされていたが、やはり疲れてしまわれたのだろう。
バケツの中では、全長が坊ちゃんの手のひらくらいの小さな魚が、わずかに三匹ばかり、チョロチョロと泳いでいる。春めいてきたとはいえ、小川の魚はまだあまり活発ではなく、思ったほどの釣果は挙げられなかった。
この三匹は、それぞれ坊ちゃんとテオ様とグレミオのものなのだそうだ。グレミオにまで分け与えてくださるだなんて、坊ちゃんは何とお優しいことだろう。
(フリットにすれば、少しは満足感があるだろうか)
そんなことを考えながら、幸せの重みを噛みしめつつマクドール邸への道のりをゆく。
(いや、今晩は牛すね肉のシチューだ。魚は塩漬けにしておいて明日……)
グレミオはピタリと足を止めた。
思い出したのだ。仕込みの段階で放り出して、いまだ一秒たりとも煮込まれていない牛すね肉の存在を。
そういえば、テオ様はいつ頃戻られるのだろう。今から急ぎで調理して、一体何品を食卓に並べることができるだろうか。
父子の久々の再会だ。豪勢な晩餐にしてお祝いをしたかったというのに!
荷物の重さによろつきながらも、グレミオは夕日色の飛沫を上げる噴水目指して駆け出した。マクドール邸まで、あともう少しだ。
「世話をかけたようだな」
息を切らせたグレミオを迎えたのは、この屋敷の主、赤月帝国の将軍であるテオ・マクドール様だった。
彼は居室のソファにゆったりと腰掛け、体を休めておられたようだ。長期遠征と長旅の疲労は計り知れない。
その場にへたり込みたい気持ちを抑えて(なにせたくさんの荷物を持っているため、ここで崩れ落ちるわけにはいかなかったのだ)、グレミオはせめて息を整えようとして大失敗した。
「テ、テテテ、テオ様! い、いたんですか!」
「いたんですかとは何事だ」
本当に何事だろう。
夕餉の支度を終えて、テオ様のお部屋も整えて、坊ちゃんと揃ってお出迎えをするはずが、何ひとつ達成できていないではないか。なんと情けない。
「テオ様。実はまだ晩餐の準備ができていなくて……」
坊ちゃんの笑顔を優先したことを後悔したくなくて、グレミオは正直に告白した。
当然お咎めを受けるだろうと思っていたものの、テオ・マクドール将軍は意外にも「ああ、別にかまわない」と言って、ソファに座り直した。
「どのみち、もう少し寝かせるのだろう? 食事は昼寝が済んでからでいいだろう」
「テ、テオ様!」
寛大なお言葉に、涙がドパァッとこぼれる。
さすがは坊ちゃんのご尊父だ。
お言葉に甘えて、まずは坊ちゃんを部屋に寝かせてきてから、急ぎで料理を再開することとしよう。
釣り竿とバケツ、バスケットをそっと床に下ろす。それから、いまだぐっすりと眠る坊ちゃんを背負って階段をのぼりかけて――
あっ! と上げかけた声を、すんでのところで飲み込む。大声を出して、坊ちゃんの大切な睡眠を邪魔してしまってはいけない。のどがギュッと変な音を立てた。
(テオ様のお布団……!)
朝のうちにバルコニーに干しておいた布団が、そのままになっていることを思い出したのだ。
外はもうすっかり夕暮れ時だ。しっかり日を浴びたというのに、再び湿気てしまったに違いない。洗っておいた敷布と合わせて、早く取り込まなければ。
何ひとつ要領よくこなせていない自分が情けなくなりながら、グレミオは小さな主の部屋へ入った。
坊ちゃんの小さな靴を後ろ手に脱がせると、大事な坊ちゃんを落とすことのないよう、細心の注意を払いながらそうっと寝台に横たえる。
布団をかけたとき、坊ちゃんは「楽しかったねぇ」とむにゃむにゃ言いながら、黄金も比でないほどのきらめく微笑みを浮かべた。起きられたのかと思いきや、またすぐに女神の息吹のような寝息が聞こえ始める。
「――ええ。楽しかったですね」
グレミオは小さく囁くと、急ぎバルコニーに向かった。
まだまだ、今日という忙しい日は終わらない。何と言っても、このあとの晩餐の席で、坊ちゃんの太陽のように輝かしい笑顔をもう一度見なければならないのだから!
忙しい、けれど、決してそれだけじゃない。
たいそう充実したグレミオの一日は、まだまだ続く。