ケース2 根津美ネルの場合 〜眠り病の同居人〜

「おやおや。お母さんは行ってしまいましたね」

 遠ざかる車を見て、初田は肩をすくめる。

「ネルさん、保険証は持っているかな」
「え? は、はい。財布の中に」

 ネルがポケットから出した水玉模様の小さなポーチに、家の鍵と保険証が入っていた。
 それを貸してもらい、初田はあることに気づいた。

「……もしかしてお父さんはいないのかな」
「私が生まれて間もないうちに事故で。だからお母さんはパートをかけもちしていて。あの、お母さんのこと、悪く思わないで。今日は、機嫌が悪かっただけなの。わたしがどんくさいから」

 ネルの保険証は友子の扶養に入る形になっていた。
 仕事が忙しい、そんなお金はない、そういうことだったのかと初田は合点がいった。
 遺族年金が入るにしても、無限に沸いて出るわけではない。
 母親の稼ぎだけで育ち盛りの子どもを扶養するのはそうとうな労力だ。
 金にも時間にも余裕がない状態で、「あなたの子どもは病気だ。検査しろ」なんて言われたら怒るのも無理はなかった。

「別に悪くは思っていないさ。心に余裕がなかっただけだろう。十五年育てた親の言葉より、今日会ったばかりの男の方を信じると言われたら誰だって怒る」

 友子に怒鳴られたことなど、初田はたいして気にしていない。
 ネルが母親を嫌っていないことからも、親子関係が悪いわけではないのは察せられた。
 初田は車のエンジンをかけて、ネルを促す。

「さあ、乗ってくれ。病院に連絡を入れておいたから、これから向かおう」
「今から?」
「お金の心配なら要らないよ。さっきも言っただろう。君の検査費用は全額わたしが負担する」

 事もなげに言ってのけた初田に、ネルは困惑した。
 それこそ、今日会ったばかりのネルのためにそこまでしてくれるなんて、理解ができなかった。

「どうして」
「治療が必要な人を見捨てるのは、医者の法度だからさ。それに、まともに授業が受けられないままだと、この先困るだろう?」
「それは、はい。先生にもサボるな、真面目に授業を聞けないなら来るなと言われてしまって……」

 どうして日中突然眠ってしまうのか、ネル本人はわかっていなかったし、怠けていると言われたらどうしようもない。

「本当に、いいの?」
「かまわないから言っているんだ」

 祖父たちが“初田の兄は殺人犯として追われている。この男を信じるな”とこっそり耳打ちしてきたけれど、ネルはどうしても初田のことを悪い人だと思えなかった。

「じゃあ、お願いします。初斗にいさん」
「任されました」

 表情の変化があまりなかった初田が、初めて薄く笑った。



 運転しながら、初田はネルに質問を投げかける。

「日中眠ってしまうようになった時期、厳密には覚えているかい」
「ええと、中学三年生になったばかりの、春だったかな。だから、最初は春だから眠いのかと思っていたの」
「それが今でも続いている、と」

 症状を聞きながら、いくつかの病気の候補を頭の中でピックアップする。
 発達障害、概日リズム睡眠障害、突発性過眠症、ナルコレプシー。

「朝はすぐ起きられる?」
「はい」
「月経の時期も関係なく、眠るのかな?」
「た、たぶん。ほぼ毎日だから」
「最後に生理が来たのは?」
「…………先週、終わったばかり」
「じゃあ妊娠の線もないな」

 さらっと生理や性交渉のことまで聞かれて、ネルは面食らった。病院の駐車場に入ってからネルの反応を見て、ようやく気づいた。

「ああ、すまないね。女性は生理周期や妊娠で眠くなる人もいるから、確認しただけだよ。それらが原因ならなにも問題ないんだ」
「そうなの?」
「そうなんだよ」

 初田がネルを連れてきた総合病院は、県内でも一番規模が大きいと言われているところだ。ネルはぽかんとして病院を見上げる。医者であることを疑っていなかったけれど、ここまで大きい病院だとは想像していなかった。

「さあ、おいで」
「はい」

 初田は迷うことなく院内を歩く。すれ違う看護師が初田に気づいて頭を下げた。

「初田先生、本日はお休みではなかったのですか」
「所用でね。白兎しろうさ先生のところに」
「そうでしたか」

 看護師が会釈して立ち去り、ネルは初田を見上げる。

「しろうさ先生?」
白兎しろうさりん先生。脳神経内科の先生だよ。睡眠系統に支障が出ているなら、おそらくこの科が合っている」
「初斗にいさんは?」
「わたしは精神科。心のお医者さんだ」
「初斗にいさんにぴったりだと思う」

 変人と言われることは数あれど、精神科が似合うなんて言われるのは初めてのことで、初田は笑った。
 脳神経内科の診察室は三室あり、その一番奥、第三診察室に入る。
 デスクの前に白衣を着た女性が座っていた。年の頃は初田より少し上。
 長い黒髪を後ろに流していて、アンダーリムの眼鏡をかけたつり目が初田とネルを見る。

「やっと来たか初田君。……って、喪服で院内を歩くな。縁起でもない」
「これは失礼。葬儀場からすぐ来たものだから」

 喪服の上着を脱いで、初田はネルに座るよう促す。
 初田は預かっていた保険証を白兎に渡して、ネルの隣に座る。

「それで、メールである程度は送ってもらったけど、葬儀中眠っちゃったんだって?」
「す、すみません」

 母親にもそのことを叱られていたため、ネルは背中を丸めてしまう。

「怒っているんじゃないよ。ワタシは症状について知りたいだけ」

 白兎はつとめて穏やかに聞く。初田が車中で聞き出せたことを説明して、それ以外の部分はネルが自ら説明する。

「夜は何時に寝て、朝何時に起きる? ちゃんとご飯を食べているかい」
「よくわからないです。十一時すぎ、くらいに寝て、七時くらいに起きます。ごはんは、お母さんがパンやスーパーのお惣菜を買っておいてくれるから……」

 話している最中、ネルの体がまた揺らいで、とっさに初田が受け止めた。

「葬儀の時、二時間ほど前にも同じ状況でした」

 目の前で症状を直接見て、白兎も顔を険しくした。

「これは確かに検査が必要だな。ほぼ確定だろうが、血液検査とPSGをしよう。初田君、親から入院の同意をもらいたい。連絡を取ってくれ」
「わかりました」

 PSGとは、終夜睡眠ポリグラフ検査の略称だ。最低でも一日入院して専用の機械を取り付け、睡眠状態や心電図、呼吸を調べる。
 数分してネルが目を覚まし、初田が検査内容の説明をした。

「それって痛いですか」
「PSGの方は痛くないよ。こういうものを頭や顔に貼り付けて、ネルさんが寝ている間の脳波を測定するんだ。この検査をすることで、ネルさんの病気の正体を探る。なんの病気かわかれば、適切な薬を処方できる」
「そうすれば、治るんですか」

 初田は治る、と断言できなかった。
 初田の現段階の見立てでは、ネルの病気はナルコレプシー。
 完治させることは不可能だと言われている睡眠障害だ。ナルコレプシーになる明確な原因は最先端の医学でも解明されておらず、対症療法しかなく、根治治療こんじちりょうはできない。

「症状を軽くすることはできる。検査入院とはいえ、家族の許可が必要なんだ」
「……はい」

 神妙な面持ちでネルは深くうなずいた。


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