ケース1 中村コウキの場合 〜猫の首を狩った少年〜

「コウキくん。今日から日記をつけてみよう。ほら、日記帳をあげるから」

 初田はまず、弁証法的行動療法べんしょうほうてきこうどうりょうほうの個人療法を行うと決めた。
 もともとは境界性パーソナリティ障害の治療に向いている治療法だが、今のコウキになら効果があるはずだ。
 心の治療と体の治療、二つを同時に行う。

 コウキはあまり表情を変えず、抑揚のない声で聞いてくる。

「これに、なんの意味が」
「それが治療になるからだよ。コウキくんは自分が何に怒って、何を悲しいと思っているのか、何が嬉しいのか、何に絶望するのか知っていく必要がある。そうして、心から楽しいと思えることを見つけていこう」

 この先も小動物を殺して遊ぶ性質が残ってしまったら、社会生活を送ることが難しくなる。
 攻撃衝動を抑え込み、感情をコントロールできるようにならないといけない。

「何を書いても怒らないから、好きなように書いてほしい。腹が立ったとか、嫌だったとか、ご飯が美味しかったとか、些細なことも全部」
「ほんとうに、何を書いてもいい?」
「いいとも」

 初田の答えに、コウキの顔色が明るくなった。
 それから礼美にも戻ってきてもらい、コウキと礼美に治療法の説明をする。
 まず今必要なことを書き出す。

 睡眠時間の見直し。
 気持ちを整理する方法を身につけること。
 楽しいことを見つける。
 感情のままに行動しない。
 リラクゼーションの導入。
 要求を表に出すこと。
 嫌なことは嫌だと言うこと。
 相手の意見を聞くこと。

 そんなの当たり前だと言われそうなことがほとんどだが、これこそが大切なことなのだ。

「コウキくんは家での勉強と塾以外の時間を取っていないでしょう? だから、勉強の時間を少なくして、その分何もしない時間や運動の時間を作ろう」

 これまで一日何をして過ごしていたか真白な円グラフに書き込んでもらったら、食事風呂睡眠以外の時間は十数時間すべて勉強だった。
 これではあまりにも精神に悪すぎる。

 初田は緑のマーカーで夕方の時間帯の勉強を消し、そこに自由時間、と書きこむ。

「自由ってなにすればいいんだ。いきなり自由にしていいって言われても……」

 勉強しろと言われて育ってきたコウキには、『自由にしていい』が一番難しいことだった。

「お母さんも、できたら一緒に散歩を続けてください。あなたも家事以下運動のようなことはしていないでしょう? 気晴らしになります」
「わかりました。リラクゼーションというのは何をすれば」
「ご家庭ではじめやすいのは、ストレッチや足湯ですね。足元から温まると心も温まります。逆に、五つの首が冷えると心も弱りやすくなります」

 首、手首、足首ね。と初田は自分の手首を指す。

「コウキくん、たぶん若いのにかなり肩がこっているでしょう。ストレッチして血流を良くしてね。週に一回朝の九時頃テレビ番組をやっているから、あれを見て実践するのもいい」
「はい。あとで新聞を確認してみます」

 一つ一つをノートにメモしていく礼美。文字も整っていて、とても生真面目な性格がうかがえる。

「また来週、どこかコウキくんとお母さんの都合がいい時間に予約を入れよう。そのときに日記を見せてほしい。日記を読み返しながら、そのときに思ったことや対処法なんかを話し合おう」

 コウキは素直にうなずく。

「ある程度この方法が馴染んできたら、同じように心が苦しい人と対話ーー集団トレーニングをする。悩みや困難に当たったとき、どんなふうに解決できたかの情報を共有したら、助け合えるだろう?」
「俺だけじゃない?」
「育つ環境がみんな違うから、全く同じ状態ではないけれど。それでも、分かち合う人がいるのは大切なことだよ」

 コウキと礼美に木の絵を描いてもらって判明したのは、二人とも孤独を抱えているということ。

 家族三人で暮らしていながら、コウキと礼美は理解者がいない、孤独だと感じていた。
 だから同じように心の治療をする仲間がいるというのはとても大きな支えになるはず。

「お母さん。中村さんと連絡が取れたら中村さんにもこの療法のことを説明してください。家族の理解と協力なくして、心の治療は成り立たない。話し合いにならなそうならわたしに電話なさい」
「……はい」

 礼美の顔は暗い。

 秀樹の理解と協力が得られそうにないのはわかっていても、それでも伝えなければならない。
 知らぬところで勝手に話を進めたら、腹の虫が収まらないのは目に見えていた。


「それではまた来週。コウキくん。自由にすることが思いつかなかったら、うちのクリニックの近くにある植物園にいってごらん。小さい秋を見つけるのは楽しいよ」
「秋? 季節なんて目に見えないんじゃ」
「季節は消えたチェシャ猫と同じでね、見ようと思わなければ見えないのさ」

 予約表に次回の診療予約を書き込んで、初田は中村家をあとにする。

 状況が快方に向かうかどうかは、初田の補佐、コウキ本人の意志と家族の協力にかかっている。
   

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