ケース1 中村コウキの場合 〜猫の首を狩った少年〜

 診察予約の当日。
 初田は電車で中村家に向かった。
 チャイムを鳴らすと礼美がすぐに出迎えてくれた。

「いらっしゃいませ、お待ちしてま……」

 扉を開けた姿勢のまま、礼美が言葉をつまらせた。

「青い帽子が嫌いなようだったから黄色い帽子にしたんだけど、お気に召さなかったかな?」
「あ、いえ。そのかぶりもののままクリニックからいらしたんですか?」 
「わあ! うさたんがいるー。うさたーん! と小さな子に囲まれてね。やっぱりみんなウサギが大好きだ」

 一瞬呆気にとられたものの、礼美はすぐに気を取り直して、初田をリビングに通した。
 家の中だというのに、よそ行きの格好をしている。担任教師が家庭訪問に来たときの親そのもの。
 もしかしたら、Tシャツにストレッチパンツというような、ラフな服を持っていないかもしれない。

 掃除が行き届いているが、どうにも息苦しい家だと初田は思った。
 単語一つで表すなら殺風景。
 よく、マンションや一軒家のモデルルームというものがあるが、アレから生活感を一切取り払ったらこうなる、と言えば伝わるだろうか。

 インテリア、観葉植物はおろか、写真や絵の類が一つも飾られていない。
 カーテンは単色のグレー。
 目につく家具は全部黒。
 ビジネスホテルよりいっそ人間味がない部屋に、薄ら寒さすら覚える。
 

「今コウキを呼んできますね。それと、こちら頼まれていたものです」
「ありがとうございます」

 電話予約した日から診察日までのコウキの様子をノートに記してもらっていた。
 四人掛けテーブルセットの椅子に座って、ノートのページをめくる。


【食欲は変わらず、肉を好んで食べます】

【主人の目を盗んで、コウキを散歩に連れ出しました。コウキは嫌とも楽しいとも言いません】
 
【生ゴミの袋に、切断されたネズミが入っていました。コウキに聞いたら自分がやったと言いました。なぜ私は今まで気づかなかったのでしょう。虫殺しどころじゃなくなっていた】
 
【主人は仕事が繁忙期だと言い、スーツケースに大量の着替えを詰めて出ていきました。しばらくは会社そばのビジネスホテルから出社するそうです】


 秀樹が出ていった日付は昨日。
 礼美がネズミを見つけた当日だ。
 ボールペンで書かれた文面はところどころ文字が震え、書き損じを黒塗りで消している。
 礼美が震えるような状況を、おそらく秀樹も目の当たりにした。
 妻にすべての責任と後処理を押し付けて逃げたのだと、すぐにわかった。

 次に殺されるのは自分だと、本気で思ったんだろう。
 やはり中村秀樹という男は、父親としての自覚と責任感が皆無だった。
 
 あまり待たないうちに、コウキが二階から降りてきた。
 ウサギ頭を見ても顔色を変えない。昨日ネズミを殺していたとは思えないような、普通の顔をしている。

「先生。今日は何を話せばいいんだ?」
「今日は絵を描こう。ほら、紙と鉛筆と消しゴムを持ってきたから。実のなる木が見たいな」
「それって治療に関係あるわけ?」
「意味のないことに意味があるのさ」

 コウキが向かいの椅子に座り、初田はテーブルに筆記具を乗せる。
 無地の白い紙。
 2B鉛筆。
 消しゴム。

「このA4サイズの紙に描いてほしい。学力テストじゃないから制限時間はない。思いつく木のある景色を描いてくれればいいから」
「べつに、それくらいかまわないけど」

 初田はコーヒーを運んできた礼美にも声をかける。

「お母さんも、息抜きにお絵かきしましょう。実の成る木を描いてください」
「は、はあ」

 困惑しながらも、礼美はコウキの隣に椅子を引いて席についた。

 コウキは左手で鉛筆を握り、紙を横にして、デコボコな地面を描きはじめた。ガシガシと細かく動かして、地面を黒く塗りつぶしていく。
 そして今にも枯れそうな細木を二本。枝は弱々しい数本しかなく、葉っぱもない。根もない。
 たった一つだけ成っていた実は地面に落ちてしまっている。
 片方の木には蛇が巻き付いている。
 真っ黒な地面からいくらか雑草が生えているだけ。
 その二本の細木が強風にあおられている。

 
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 草木がまともに生えない荒れ地に、なんとか生えている弱い木。寂しい印象を覚える絵だった。
 たっぷり十分かけて描きあげて、コウキは初田に絵を渡した。

「先生は描かないのか?」
「わたしはお仕事中だからね。仕事がないときに描くよ」

 できました。と、コウキと同じタイミングで礼美も描き上げた。

 傾斜のある大地の上に、右に傾いた木が三本、風に吹かれる。
 地面や木の幹は何度か消しゴムで消して描き直している。
 葉が一枚もない木のうろにリスの親子がいて、どんぐりを抱えて身を寄せ合っている。
 石や落ち葉が転がる寂しい風景の中、そこだけがとてもあたたかい。 
 
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 じっと絵を眺め、初田は二人に確認を取る。

「この絵、もらってもいいかな」
「別にいいけど、もらってどうするのさ先生」
「絵を集めるのが趣味なんだ。根津美さんにも描いてもらったんだよ、ほら」

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 紙の真ん中に、堂々と根を張った大木が鎮座している。
 広葉樹とわかるうねうねした葉のかたまりの線が引かれ、いくつもの木の実が枝からぶら下がる。
 左上から注ぐ太陽の光を浴びて、楽しげに笑う小鳥が二羽飛んでいた。
 
 それを見て礼美は感嘆の息を吐く。

「あの子そのものみたいな、明るくて元気を分けてもらえそうな絵ですね」
「ふふふ。お母さんはなかなか才能がありますね」

 礼美がネルと対面したのは、コウキの初診日の一回きり。絵から人柄を想起するのはなかなかのものだ。

「なぜこの絵を見てそう思われたのですか?」
「なぜかしら。わからないわ」
「直感は科学で測れないですからね」

 雑談を交えながら、いったん礼美には離席してもらい、コウキと一対一で話をする。
 

「コウキくん。前回の診察から今日までで、何か変わったことはあるかい。寝付きが悪かったとか、食べ物が喉を通らなかったとか、そういう些細なことでも気づいたことがあれば」
「病院に行くなって言われて勉強していたくらいで、他はとくにないかな」
「何もない?」
「あ、昨日は新聞配達のオジさんとあいさつした」

 礼美の書いてくれたノートと照らし合わせると、父親が逃げ出したことなど、コウキにとって見知らぬ人との挨拶以下の事象なのだ。

 秀樹のことは、父親どころか家族とすら認識していないかもしれない。
 同じ家にいる他人。
 いてもいなくても変わらない存在。

 秀樹との親子関係修復が不可能に近いのは明白だった。
 

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