ケース1 中村コウキの場合 〜猫の首を狩った少年〜

「根津美さん。ちょっとお使いを頼めるかな」
「はい、何をしましょう?」

 点滅する録音ボタンを見ながら、初田はネルに手招きする。
 秀樹のように突撃してくる者は少なくないため、防犯機能付き電話の録音機能は常にオンになっている。
 初田は電話機からメモリーカードを抜き取り、パソコンにデータを移した。

 CD-ROMに焼き付け、ディスクのメモ欄に電話が来た日時を書いてネルに渡す。

「ちょっとひとっ走り、児相じそうに行ってきて」
「わかりました!」

 ネルはバッグを取って来て、すぐにクリニックを出た。


 保護者は子どもが病気になったとき、適切な治療を受けさせる義務がある。
 診療予約の日に家に閉じ込めて通院を阻むのは、育児放棄ネグレクトに属する。

 四十八時間ルールと言って、児童相談所は虐待死を防ぐため、通報から四十八時間以内に当該児童の様子を確認することを求められている。

 この通話音声で児童相談所が動いて、可能なら今日にでもコウキを保護してくれることが望ましい。

 食事と風呂などの基礎生活部分はキチンと与えられている。肉体的虐待と違って目に見えないため、保護までは行かない可能性もある。

 通報することで病院に行かせない行為は虐待にあたると、秀樹が気づいてくれることを願うばかりだ。


 だが、児相に通報されたことで逆上するケースもあるから、難しいところではある。


 二日後、初田は秀樹が仕事に行っているであろう時間帯を選び、中村家に電話をかけた。
 電話に出たのは礼美で、声音は元気がない。

『初田先生。ご迷惑をおかけしてすみません。もっと早く謝罪の電話をできていればよかったのですが』
「いえ、よくあることですから。コウキくん、その後の様子をうかがいたくてね」

 児相に保護されたならよし、保護されていないのであれば……コウキの将来が心配だ。

『昨日、児童相談所の方が来ました。先生が知らせてくださったのでしょう?』
「はて? わたしはなにもしていませんよ」

 データを届けるよう指示はしたけれど、児相に駆け込んだのはネルだ。
 ネルが紅茶と俵おにぎりを運んできた。
 今日はネル特製のミルクティー。
 ネルのミルクティーは、99%の牛乳と1%の紅茶、少々のはちみつでできている。
 本人いわく黄金比率。紅茶がほぼ入っていないため、見た目はただのホットミルクだ。
 
 ネルが褒めてほしそうな顔をしているので、初田は「美味しいよ」と言ってミルクティーを味わう。

『虐待なんてしていないと主人が言って、要注意されて終わったんですが。昨夜は主人がだいぶ荒れました』
「コウキくんは?」
『外出禁止を命じられて、今は自分の部屋で勉強しています』

 世間体を気にするあまり、秀樹は息子を閉じ込めるという逆効果の対策に出てしまったようだ。

 今後もクリニックにくる機会を一切与えないつもりだろう。
 完全に狂ってしまう前に助けないと、本当に取り返しのつかないことになる。


「今のコウキくんを見て、お母さんはどうお思いですか」
『前よりもうつむきがちで、口を聞いてくれなくなりました。先生の助言をもっと早く行動に移せていたならと、後悔しています』

 初田の助言、それはコウキに無意味なことをする時間を与えること。
 一日中寝て過ごしてもいい。
 ゲームセンターに行くのでもいい。
 マンガ喫茶でのんびりマンガを楽しむのもいい。

 がんじがらめの生活を続けたら心が決壊する。


「ーーお母さん。うちは訪問診療も承っているんですよ。足を怪我していたり車を持っていなかったり、通院の手段が無い人のためのサービスです」
『……無断キャンセルしたうえに、あんな電話をするなんていう、不義理をしてしまったのに』

 あくまでも医者と患者であるため、初田が勝手に訪問するなんていうことはできない。
 だから礼美に言う。


「患者を見捨てるのは初田ハートクリニックの法度はっとだ。一日も早く、コウキくんの心のケアをしなければならない」

 礼美の声に嗚咽がまじる。

『お願い、します。コウキを助けて』
「承りました。それでは、訪問診療の希望日時をお願いします」


 電話がきれたあと、初田は診療予約表に予定を書き込む。

「訪問診療するんですね」
「ああ。お母さんたってのご希望だからね。招かれていないお茶会には参加できないから。招待されたのだから手土産を持って行こうじゃないか。その間、根津美さんはお留守番を任せたよ」
「はいー。居眠りしないように気をつけます」

 ネルは睡眠障害ナルコレプシーを患っているため、しばしば受付の仕事中でも眠ってしまう。
 それを初田が咎めたことはない。
 承知の上で雇っているのだ。

「眠くなったら、寝ていい。そのときは留守番電話にしておきなさい。メッセージが入っていたら、あとでわたしが確認して折り返すから」
「えへへ。ありがとうございます。眠くなったら遠慮なく寝ます」

 左右違う靴下でも怒られないし、仕事中病気の症状が出て寝てしまっても「気をつけてどうにかなるものじゃないからね」と言ってもらえる。

 ネルにとって初田は、雇用主と従業員というだけではなく、父親代わりだ。
 本当の家族が介助できないため、ネルは遠縁の親戚である初田に引き取られ、今こうしてクリニックで働いている。


「初田先生。コウキくんを助けてあげてくださいね」
「もちろんだとも。完全に心が死んでしまう前に助けなければ」

 サイコパス、病名で言うと反社会性パーソナリティ障害。
 秀樹も、コウキと方向性が違うだけでサイコパスの気質がある。


 表面上は口達者
 利己的・自己中心的
 自慢話をする
 自分の非を認めない
 結果至上主義
 共感ができない
 他人を操ろうとする


 先日の会話だけで、サイコパスの人間に多い特徴十のうち七つを備えているのを確認できた。

 毒親に育てられた子どもは毒に侵される。コウキはその典型的な症例だ。

 四十すぎた秀樹が人格の軌道修正をするのはかなりの労力を必要とするだろう。
 秀樹本人に病的な精神状態だという自覚がない上、精神疾患に対する偏見が強い。
 そういう人間に診療を受けさせることはほぼ不可能。
 
 だが、コウキは今ならなんとかなる。
 助けるためにも、コウキと秀樹はともにいてはいけない。

 児童相談所による保護、コウキがひとり暮らしをする等、支配下から逃す方法がいくつかあるが、それは初田が介入できることではない。

 この先どうしたいか、コウキ本人の意思も大事だ。
 
 とにかく、今は可能な限り訪問診療をするしかない。




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