ケース1 中村コウキの場合 〜猫の首を狩った少年〜
初田と礼美が話をしている同時刻。
コウキが待合室で絵本・不思議の国のアリスを読んでいると、受付の根津美 ネルがカウンターから出てきた。
黒髪を頭の左右上でお団子にまとめている。
膝丈のワンピースにニットのカーディガンという、いたってシンプルな服装。
左胸には根津美と書かれた手書きの名札をつけている。
そこまでは普通なのだが、ネルは左右バラバラの靴下をはいていた。
右は短いピンク色の靴下、左はふくらはぎまである緑のハイソックス。
靴下の間違いに気づいているのかいないのか、茶色のつっかけをペタペタいわせながらティーセットを運んできた。
「ええと、根津美さん。靴下……間違えてるよ?」
指摘すべきか迷った末にコウキが教えると、ネルはお盆を差し出して、眠たげな声で言う。
「今はお茶の時間ですよー。もっと紅茶をたくさんどうぞ」
コウキはちょうど、絵本を読み終えていたので、理解した。
お茶会のセリフそのものだ。
「まだ一口も飲んでいないのだから、もっとたくさん飲めなんて失礼だよ」
「ゼロよりもっと少なく飲むなんてできないでしょう?」
コウキの返しに、ネルも絵本のセリフを続けた。
この会話に意味なんてないのに、コウキはなんだか楽しいと感じた。
誰かと同じ話題を共有できるというのはこういうものなのかと。
「靴下、間違えてるよ」
もう一度教えると、ネルはコウキの横にお盆を置きながら答える。
「靴下を間違えてもクビになりません。だから私は安心して、堂々と靴下を間違えられます」
「どういう理屈」
靴下の左右が違う程度のこと、死ぬほどの失敗じゃないからどうでもいいということらしい。
「紅茶はたくさんあるからもっとたくさん飲んでくださいね。ダージリンさんが嫌いだったときのためにいろんな種類の茶葉で淹 れてあります」
コウキは本に集中していて気づかなかったが、よく見たらカウンターの上には所狭しとティーポットが並んでいる。
全部紅茶だ。
「なんで紅茶しかないんだ」
「あら〜、コウキくんのお好みはホットでなくアイスティーなんですか。気がきかなくてごめんなさい。今冷やしてきますね」
噛 み合っているようで合っていない。全然答えになっていない。
「いや、紅茶しかない理由を聞いているんだ」
「ちゃんと選択肢があるじゃないですか。ダージリンさん、アッサムさん、セイロンさん、ディンブラさん、ニルギリさん、ウバさん」
全部同じ白いティーポットなのに、ネルには見分けがついている。
「おにぎりもちゃんとお米を選んでいるんですよー。今日のお米はキタアカリちゃんです。キタアカリちゃんは甘みがあって美味しいですよね。明日はコシイブキさんです」
「あ、そう」
初田は見るからに変人だが、受付のネルもだいぶ変な人だと、コウキは口には出さず思った。
診察室の扉が開く。
「コウキくん、お母さんとの話は終わったよ。おいで」
初田に手招きされ、コウキは大量のお茶から逃げることができた。
コウキが礼美の隣に座って早々に、初田はティーカップを出してくる。
「書き物机とカラスが似ているのはなぜなのかわかるかい」
「答えのない、意味のないナゾナゾで時間をつぶすのはどうなの」
これもまた絵本に出てきた台詞だ。
コウキの答えに気を良くしたのか、初田はクックッと笑う。
「潰すなんて言ったら時間さんに失礼じゃないか。ーーいつかわかるときが来るよ、コウキくん。意味がないことに意味があるのさ」
初田は卓上カレンダーを手にとってコウキたちに見えるように持つ。
「来週金曜の同じ時間にまたおいでなさい。お母さん、はじめは別の病院に紹介状を! と言っていたけれど、またここでいいですね?」
「……はい」
「長期的な治療になるから、お父さんともしっかり連携してください。コウキくんだけががんばってどうにかなることではないんです。
言うだけでお父さんに伝わらなそうなら、診断書を書きますよ」
「はい、お願いします」
夫の協力も必要不可欠、と言われた礼美の顔色は悪い。礼美は迷い無く診断書を希望した。
だから礼美に対して、ひとつ助言をした。
そのたったひとつの行動が、後に必ず礼美の助けになると言い添えて。
中村母子がクリニックを出るところまで見送り、初田は来週どうなるかと案じる。
「先生。コウキくん、来週ちゃんと来てくれますかねー」
「来ないんじゃないかな、コウキくんが来たいと望んでも」
初田の予想では、コウキは来ない。
コウキと礼美が何の顔色を窺 い、評価を気にしているのか。
それはおそらく秀樹。
中村家の絶対的な支配者、父親の秀樹が通院 を許さないだろうと予測していた。
そして予想通り、予約を入れた金曜の十一時に中村親子は現れなかった。
かわりに、ひどく高圧的な物言いをする男から電話がかかってきた。




コウキが待合室で絵本・不思議の国のアリスを読んでいると、受付の
黒髪を頭の左右上でお団子にまとめている。
膝丈のワンピースにニットのカーディガンという、いたってシンプルな服装。
左胸には根津美と書かれた手書きの名札をつけている。
そこまでは普通なのだが、ネルは左右バラバラの靴下をはいていた。
右は短いピンク色の靴下、左はふくらはぎまである緑のハイソックス。
靴下の間違いに気づいているのかいないのか、茶色のつっかけをペタペタいわせながらティーセットを運んできた。
「ええと、根津美さん。靴下……間違えてるよ?」
指摘すべきか迷った末にコウキが教えると、ネルはお盆を差し出して、眠たげな声で言う。
「今はお茶の時間ですよー。もっと紅茶をたくさんどうぞ」
コウキはちょうど、絵本を読み終えていたので、理解した。
お茶会のセリフそのものだ。
「まだ一口も飲んでいないのだから、もっとたくさん飲めなんて失礼だよ」
「ゼロよりもっと少なく飲むなんてできないでしょう?」
コウキの返しに、ネルも絵本のセリフを続けた。
この会話に意味なんてないのに、コウキはなんだか楽しいと感じた。
誰かと同じ話題を共有できるというのはこういうものなのかと。
「靴下、間違えてるよ」
もう一度教えると、ネルはコウキの横にお盆を置きながら答える。
「靴下を間違えてもクビになりません。だから私は安心して、堂々と靴下を間違えられます」
「どういう理屈」
靴下の左右が違う程度のこと、死ぬほどの失敗じゃないからどうでもいいということらしい。
「紅茶はたくさんあるからもっとたくさん飲んでくださいね。ダージリンさんが嫌いだったときのためにいろんな種類の茶葉で
コウキは本に集中していて気づかなかったが、よく見たらカウンターの上には所狭しとティーポットが並んでいる。
全部紅茶だ。
「なんで紅茶しかないんだ」
「あら〜、コウキくんのお好みはホットでなくアイスティーなんですか。気がきかなくてごめんなさい。今冷やしてきますね」
「いや、紅茶しかない理由を聞いているんだ」
「ちゃんと選択肢があるじゃないですか。ダージリンさん、アッサムさん、セイロンさん、ディンブラさん、ニルギリさん、ウバさん」
全部同じ白いティーポットなのに、ネルには見分けがついている。
「おにぎりもちゃんとお米を選んでいるんですよー。今日のお米はキタアカリちゃんです。キタアカリちゃんは甘みがあって美味しいですよね。明日はコシイブキさんです」
「あ、そう」
初田は見るからに変人だが、受付のネルもだいぶ変な人だと、コウキは口には出さず思った。
診察室の扉が開く。
「コウキくん、お母さんとの話は終わったよ。おいで」
初田に手招きされ、コウキは大量のお茶から逃げることができた。
コウキが礼美の隣に座って早々に、初田はティーカップを出してくる。
「書き物机とカラスが似ているのはなぜなのかわかるかい」
「答えのない、意味のないナゾナゾで時間をつぶすのはどうなの」
これもまた絵本に出てきた台詞だ。
コウキの答えに気を良くしたのか、初田はクックッと笑う。
「潰すなんて言ったら時間さんに失礼じゃないか。ーーいつかわかるときが来るよ、コウキくん。意味がないことに意味があるのさ」
初田は卓上カレンダーを手にとってコウキたちに見えるように持つ。
「来週金曜の同じ時間にまたおいでなさい。お母さん、はじめは別の病院に紹介状を! と言っていたけれど、またここでいいですね?」
「……はい」
「長期的な治療になるから、お父さんともしっかり連携してください。コウキくんだけががんばってどうにかなることではないんです。
言うだけでお父さんに伝わらなそうなら、診断書を書きますよ」
「はい、お願いします」
夫の協力も必要不可欠、と言われた礼美の顔色は悪い。礼美は迷い無く診断書を希望した。
だから礼美に対して、ひとつ助言をした。
そのたったひとつの行動が、後に必ず礼美の助けになると言い添えて。
中村母子がクリニックを出るところまで見送り、初田は来週どうなるかと案じる。
「先生。コウキくん、来週ちゃんと来てくれますかねー」
「来ないんじゃないかな、コウキくんが来たいと望んでも」
初田の予想では、コウキは来ない。
コウキと礼美が何の顔色を
それはおそらく秀樹。
中村家の絶対的な支配者、父親の秀樹が
そして予想通り、予約を入れた金曜の十一時に中村親子は現れなかった。
かわりに、ひどく高圧的な物言いをする男から電話がかかってきた。
