ケース2 根津美ネルの場合 〜眠り病の同居人〜
ネルを引き取ってから三か月。
十一月の半ばだから夜はかなり冷え込む。夕食の豆乳鍋を食べたあと、二人のお茶会が始まる。
初田は人体実験と称し、いろいろとネルに飲食させていた。
「就寝一時間前にホットミルクを飲むと睡眠の質がよくなるそうです。なので今日はホットミルクを作りました」
「あんまり好きじゃない」
「じゃあハチミツを入れてみましょうか」
ホットミルクを飲みながら、初田は『よりよい睡眠のための研究書』なるものを開く。
「質のよい睡眠には、睡眠ホルモンのメラトニンが必要。メラトニンはセロトニンから作られます。牛乳に含まれる成分がこのセロトニンの原料なんです」
「ハチミツを倍にしたらもっと増える気がする」
「では、今夜のホットミルクは牛乳二〇〇mlにハチミツ小さじ一杯で試して、明日は大さじ一杯にしてみましょう。その次はミルクココアを試しましょう」
ネルはアレルギーがないので、初田の【良質な睡眠のための研究】がはかどる。
ネルはネルで、ぐっすり眠れると朝起きたときに気分が良いから、“人体実験”に乗り気だった。
まさに被検体 。
大さじ一杯のハチミツを入れたホットミルクを飲んだ翌朝は、本人曰くすっきり目が覚めたとのこと。初田自身も飲んでみて、体感の記録を取る。寝付きと寝覚めがいいと仕事にも身が入る。
牛乳の温度も変えてあれこれ試した結果を、不眠や過眠で悩む患者に勧める。
結果、患者たちの睡眠の質も改善しているので人体実験は確かに役に立っていた。
昼休憩時間、ネルが作ってくれたおにぎりを食べつつ次の患者の確認をしていると、先輩医師の鳩羽 が聞いてきた。やたらと惚気たがるので、初田はこの先輩が苦手だった。
平也のことを知った上で仲良くしてくれるのはありがたい。しつこい嫁自慢がなければ良い先輩なのだ。
「女子高生と同棲できているおいしいシチュエーションなのに、研究にしか興味ないって、お前本当に男か」
「女になった覚えはないですね」
「そうじゃない、そういうことじゃない。普通なら若い女の子と同居したらときめきの一つくらいするもんだろ! ああもう! 白兎先生もなんか言ってやってくれよ。初田先生とは大学時代から仲が良いんだろう」
鳩羽の矛先が近くに座っていた白兎に飛んだ。
ブラックコーヒーとサンドイッチを堪能していた白兎は、腕時計で時間を確認して剣呑な目を鳩羽に向ける。
「ウサギでうさばらしするのはやめておくれよ、うざったい。初田君は学生時代からそういうやつだから絡むだけ無駄だぞ」
「へえ。学生時代からこうなのか」
「そうとも。同じ学科や看護学科の女子たちがよく初田君にアタックしていたが全員玉砕していたぞ」
白兎に学生時代のことを言われても、初田はピンときていなかった。
「アタックされたことなんてないですよ」
「おいしいコーヒーを淹 れる店を見つけたので一緒に行きたいです、と言っていた女子がいなかったか」
「うーん。そういえば何人かいたような。でもわたし、コーヒーが嫌いですからお断りしました」
「付き合ってくださいと言っていた子は」
「忙しいので一人でどこへなりと行ってくださいとお返事しました」
鳩羽が『駄目だコイツ』という顔になった。白兎は初田を親指で指しながら鳩羽に言う。
「だいたい、仲良しじゃない。初田君はコーヒー嫌いだから私とは気が合わなかったんだよ」
「白兎先輩は隙あらばコーヒーを飲ませようとしてくるから嫌いです」
「コーヒーの良さが分からないなんて残念だ」
白兎はシニカルな笑みを浮かべながら、三杯目のコーヒーを飲んでいる。
コーヒーのお供にはバタークッキーを。初田は紅茶のお供におにぎりを食べている。
「それで、なんのはなしでしたっけ。大学時代のコーヒーのお誘いがなんとか」
「あれはデートのお誘いだよ初田君。振られた子が泣いていたぞ」
「そうでしたか。でも名前も知らない人でしたし、紅茶の店でも断っていたと思います」
食事を終えて弁当箱を片付ける。弁当の巾着にメモ用紙が入っていて、開いてみると『にいさん、おしごとがんばって』と書かれていた。
へたっぴなネズミと帽子の絵も描かれていて、初田の口元が緩む。
そんな初田を眺めて、白兎は目を細める。
「鳩羽じゃないが、初田君はどんな人と結婚するんだろうな」
「さあ。一生独身じゃないですかね。平也のことがあるし、母にすら変わり者すぎると言われますし、わたしに付き合っていられる人なんていないと思いますが」
「一人だけいるじゃないか」
白兎はネルの診察をするとき、一度聞いてみたのだ。
「親戚とはいえ、初田君は変人だから相手をするのは疲れるんじゃないか? 実験台にされるのは嫌にならないか」と。
そうしたらネルは笑って答えた。
「私はのんびり屋すぎてついていけない、もっとまわりに合わせろと友だちによく言われるけれど、にいさんは同じくらいゆっくりだし、一緒にいて楽しいです。昨日のホットココアもおいしかった」
とうの本人たちは毎晩のお茶会を心底楽しんでいるようだ。
アリスの物語と同じように、末永くお茶会を繰り広げてくれそうだと白兎は思っていた。
その夜のお茶会で、初田は日課となったホットミルクを作った。
ミルクに口をつけながら、隣に座るネルをチラリと見る。
初音が持ってきた大きなはんてん から手だけ出していて、むささびみたいになっている。
鳩羽に「男は女の子と同居したら、ドキドキするものだ」と言われたことを思い出すが、やはり理解はできなかった。
生まれたときからこうして肩を並べて暮らしていたような気すらするほど、落ち着くのだ。
特別気を遣わなくていいし、ネルもとくに気負う様子がない。
母親といるときのような空気感というのか。
ネルもちょうど、ミルクを飲み終えて初田を見上げた。
「うん、やはり」
「やはりって、なにがです」
「クラスの子に言われた。男の人と二人暮らしなら、乙女としてときめきくらいするものじゃないのって」
どうやらネルも学校で揶揄われているようだ。世間一般的に、妙齢の男女が同居するとそういう目でみられてしまうのは避けようがない。みんな下世話なネタが大好きなのだ。
「クラスの子が言うのはよくわからないけど、にいさんがいるのは、落ち着く。そう、陽だまりとか、猫ちゃんみたいな」
「猫」
「猫ちゃん相手にはときめかないでしょう」
「そうですね。ネルさんも猫みたいですよ」
「私、ネズミじゃなかったっけ」
陽だまりや猫に例えられる日が来るなんて誰が想像しただろう。
でも、初田は納得した。
初田にとってもネルは陽だまりみたいなものなのだ。暖かくて落ち着く場所。
翌日、鳩羽に「ネルさんは猫みたいなものです」と言ってみたが、「そうじゃない」とツッコまれてしまうのだった。


閑話2 初田さんちのマッドティーパーティー 終



十一月の半ばだから夜はかなり冷え込む。夕食の豆乳鍋を食べたあと、二人のお茶会が始まる。
初田は人体実験と称し、いろいろとネルに飲食させていた。
「就寝一時間前にホットミルクを飲むと睡眠の質がよくなるそうです。なので今日はホットミルクを作りました」
「あんまり好きじゃない」
「じゃあハチミツを入れてみましょうか」
ホットミルクを飲みながら、初田は『よりよい睡眠のための研究書』なるものを開く。
「質のよい睡眠には、睡眠ホルモンのメラトニンが必要。メラトニンはセロトニンから作られます。牛乳に含まれる成分がこのセロトニンの原料なんです」
「ハチミツを倍にしたらもっと増える気がする」
「では、今夜のホットミルクは牛乳二〇〇mlにハチミツ小さじ一杯で試して、明日は大さじ一杯にしてみましょう。その次はミルクココアを試しましょう」
ネルはアレルギーがないので、初田の【良質な睡眠のための研究】がはかどる。
ネルはネルで、ぐっすり眠れると朝起きたときに気分が良いから、“人体実験”に乗り気だった。
まさに
大さじ一杯のハチミツを入れたホットミルクを飲んだ翌朝は、本人曰くすっきり目が覚めたとのこと。初田自身も飲んでみて、体感の記録を取る。寝付きと寝覚めがいいと仕事にも身が入る。
牛乳の温度も変えてあれこれ試した結果を、不眠や過眠で悩む患者に勧める。
結果、患者たちの睡眠の質も改善しているので人体実験は確かに役に立っていた。
昼休憩時間、ネルが作ってくれたおにぎりを食べつつ次の患者の確認をしていると、先輩医師の
平也のことを知った上で仲良くしてくれるのはありがたい。しつこい嫁自慢がなければ良い先輩なのだ。
「女子高生と同棲できているおいしいシチュエーションなのに、研究にしか興味ないって、お前本当に男か」
「女になった覚えはないですね」
「そうじゃない、そういうことじゃない。普通なら若い女の子と同居したらときめきの一つくらいするもんだろ! ああもう! 白兎先生もなんか言ってやってくれよ。初田先生とは大学時代から仲が良いんだろう」
鳩羽の矛先が近くに座っていた白兎に飛んだ。
ブラックコーヒーとサンドイッチを堪能していた白兎は、腕時計で時間を確認して剣呑な目を鳩羽に向ける。
「ウサギでうさばらしするのはやめておくれよ、うざったい。初田君は学生時代からそういうやつだから絡むだけ無駄だぞ」
「へえ。学生時代からこうなのか」
「そうとも。同じ学科や看護学科の女子たちがよく初田君にアタックしていたが全員玉砕していたぞ」
白兎に学生時代のことを言われても、初田はピンときていなかった。
「アタックされたことなんてないですよ」
「おいしいコーヒーを
「うーん。そういえば何人かいたような。でもわたし、コーヒーが嫌いですからお断りしました」
「付き合ってくださいと言っていた子は」
「忙しいので一人でどこへなりと行ってくださいとお返事しました」
鳩羽が『駄目だコイツ』という顔になった。白兎は初田を親指で指しながら鳩羽に言う。
「だいたい、仲良しじゃない。初田君はコーヒー嫌いだから私とは気が合わなかったんだよ」
「白兎先輩は隙あらばコーヒーを飲ませようとしてくるから嫌いです」
「コーヒーの良さが分からないなんて残念だ」
白兎はシニカルな笑みを浮かべながら、三杯目のコーヒーを飲んでいる。
コーヒーのお供にはバタークッキーを。初田は紅茶のお供におにぎりを食べている。
「それで、なんのはなしでしたっけ。大学時代のコーヒーのお誘いがなんとか」
「あれはデートのお誘いだよ初田君。振られた子が泣いていたぞ」
「そうでしたか。でも名前も知らない人でしたし、紅茶の店でも断っていたと思います」
食事を終えて弁当箱を片付ける。弁当の巾着にメモ用紙が入っていて、開いてみると『にいさん、おしごとがんばって』と書かれていた。
へたっぴなネズミと帽子の絵も描かれていて、初田の口元が緩む。
そんな初田を眺めて、白兎は目を細める。
「鳩羽じゃないが、初田君はどんな人と結婚するんだろうな」
「さあ。一生独身じゃないですかね。平也のことがあるし、母にすら変わり者すぎると言われますし、わたしに付き合っていられる人なんていないと思いますが」
「一人だけいるじゃないか」
白兎はネルの診察をするとき、一度聞いてみたのだ。
「親戚とはいえ、初田君は変人だから相手をするのは疲れるんじゃないか? 実験台にされるのは嫌にならないか」と。
そうしたらネルは笑って答えた。
「私はのんびり屋すぎてついていけない、もっとまわりに合わせろと友だちによく言われるけれど、にいさんは同じくらいゆっくりだし、一緒にいて楽しいです。昨日のホットココアもおいしかった」
とうの本人たちは毎晩のお茶会を心底楽しんでいるようだ。
アリスの物語と同じように、末永くお茶会を繰り広げてくれそうだと白兎は思っていた。
その夜のお茶会で、初田は日課となったホットミルクを作った。
ミルクに口をつけながら、隣に座るネルをチラリと見る。
初音が持ってきた大きな
鳩羽に「男は女の子と同居したら、ドキドキするものだ」と言われたことを思い出すが、やはり理解はできなかった。
生まれたときからこうして肩を並べて暮らしていたような気すらするほど、落ち着くのだ。
特別気を遣わなくていいし、ネルもとくに気負う様子がない。
母親といるときのような空気感というのか。
ネルもちょうど、ミルクを飲み終えて初田を見上げた。
「うん、やはり」
「やはりって、なにがです」
「クラスの子に言われた。男の人と二人暮らしなら、乙女としてときめきくらいするものじゃないのって」
どうやらネルも学校で揶揄われているようだ。世間一般的に、妙齢の男女が同居するとそういう目でみられてしまうのは避けようがない。みんな下世話なネタが大好きなのだ。
「クラスの子が言うのはよくわからないけど、にいさんがいるのは、落ち着く。そう、陽だまりとか、猫ちゃんみたいな」
「猫」
「猫ちゃん相手にはときめかないでしょう」
「そうですね。ネルさんも猫みたいですよ」
「私、ネズミじゃなかったっけ」
陽だまりや猫に例えられる日が来るなんて誰が想像しただろう。
でも、初田は納得した。
初田にとってもネルは陽だまりみたいなものなのだ。暖かくて落ち着く場所。
翌日、鳩羽に「ネルさんは猫みたいなものです」と言ってみたが、「そうじゃない」とツッコまれてしまうのだった。


閑話2 初田さんちのマッドティーパーティー 終