ケース2 根津美ネルの場合 〜眠り病の同居人〜
朝、初田は七時前に目が覚めた。
隣のネルは起きていたものの、ふとんの上に座ったまま部屋の隅をじっと見つめている。そこには何もない。
「ネルさん、おはようございます」
どこから声をかけられているのかわかっていないのだろうか。
初田が目の前で手を振っても反応しない。肩を叩くと、何度も瞬きしてようやく視線を合わせた。
「朝ですよ、ネルさん。どうしたんですか、ぼんやりして」
「いま、猫ちゃんがいなかった?」
「わたしとネルさん以外には誰も住んでいませんよ」
葬儀場でもそうだった。友子に揺り起こされたとき、「おばあちゃんならさっき絵本を読んでくれていたよね」と、不思議なことを言っていたのだ。
ナルコレプシー患者は、眠りにつくときと目覚めるとき、しばしば幻覚を見ると聞いていた。本人は幻覚だと思っていないため、会話することで初めてそれが幻覚だとわかる。
学校で寝入ってしまった場合にもこの症状がでていたなら、授業に身が入らない不真面目な生徒だと勘違いされてしまうだろう。
「朝ご飯を食べましょう。白兎先生が処方してくれた薬を飲み忘れないようにしましょう」
「ん」
普段は買い置きの惣菜や菓子パンが朝食だったと言ってたので、食生活の改善も白兎の指導にあった。
高校生で女の子ならタンパク質を多めにとったほうがいいか、と頭の中で食材の栄養価を思い起こしながら朝食の支度をする。
着替えを済ませたネルが、初田の袖を引っ張る。
「なにかしたい」
「ネルさんは料理ができますか?」
「カップ麺なら」
「それは料理じゃありません」
料理をしたことがない人間に教えたことがないため、初田は考えを巡らせる。
「では、おにぎりを作ってくれるかな。そこの棚に海苔が入っているから」
「はい」
普段は茶碗に盛るだけなのだが、ネルが何かやりたそうなのでお願いしてみる。
初田がとうふの味噌汁と肉野菜炒めを作っている間、ネルはいびつなおにぎりを四つ作っていた。
テーブルに並べて食べ始めると、向かいから視線を感じる。
「お味のほどは」
「おいしいよ。おにぎりを作るの上手だね」
「よかった」
ネルは初田の答えを聞いて、安心したように自分のおにぎりも食べ始めた。
子育て経験などない初田だが、なんとなく親心というものがわかった気がした。
見栄えや味が悪かろうと、子どもが自分のために作ってくれるのは嬉しいし、おいしいのだ。
「にいさんが作ってくれたおかずも、おいしい」
「それは何よりです」
食後は処方された薬を服用する。
モダフィニールと呼ばれる中枢神経刺激薬。朝から昼にかけて服用すると、効果が十~十四時間ほど続く。この薬が体に合うなら、学校に行っている時間帯の睡眠発作を抑えることができる。
発作が軽くなれば、あとは少しだけ学校側で補佐してもらえばいい。
仕事中はネルの体調をみることができないため、初田は机の中から予備のスケジュール帳を出してネルに渡す。
「頭痛や吐き気、喉が渇く……ほかにも副作用かもしれないと思う症状が出たら、その日のところに書いてください。次に白兎先生のところに行ったときに見せたら、薬の量を調整してくれる。それと、お昼には一時間ほど昼寝をしてください」
「わかった」
ネルは素直に手帳を受け取って、手帳の表に名前を書く。
「あと、ネルさんは携帯電話を持っていなかったね」
「お母さんが、まだはやいって言ってたから」
高校一年生で携帯電話を持たせるかどうか、母親なら迷うはずだ。
携帯電話が無いとクラスのコミュニティになじめないんじゃないかとか、あったらあったでネットいじめに遭うんじゃないかとか。
どの道メリットとデメリットがある。
「じゃあ電話機能だけのを買おう。ネルさんの具合が悪くなったとき、すぐ電話できた方がいい」
「でもお金かかる」
「大丈夫。必要経費だ。わたしが面倒を見ると言ったのだから。ご飯は冷蔵庫の中のものを好きに食べていい。今日はこのあたりを散策してみなさい。ネルさんの通っている学校はここから三駅だから、通学にも不便しないはずだ」
出勤の準備をしている間に、ネルがまたおにぎりを作ってくれていた。
「おべんとう」
「ありがとう。休憩の時にいただくよ」
「ん。いってらっしゃい」
アルミホイルでくるまれたおにぎりはお世辞にもきれいな形ではないが、ネルが自分なりに役に立てることを探した結果だ。
手作り弁当なんて高校生のとき以来だな、なんて考えながら病院に向かう。
今日初めて来院した男性は、初田と同じ年齢で、仕事に支障が出て悩んでいた。
「上司はその日の気分で言うことがかわって、つらいんです。割り振られた仕事だけをこなしていると、“言われたことしかできない無能”と言われます。だからできることを探してやろうとすると“指示にないことを勝手にするな”と怒鳴られる。他の人は同じことをしていて褒められる。最近は凡ミスばかりで残業することになってさらに怒られて……僕、もう仕事をしていける自信がありません」
男性の視線はずっと膝の上で握った手に注がれていて、声に覇気がない。心がかなり弱っているのが見て取れた。
「それはお辛かったですね。問診票には長いこと眠れていないとありますが」
「はい。ここ三か月、夜中に何度も目覚めてしまって……」
精神的にかなりのストレスを抱え、不眠の症状も伴っている。見た目にもクマがひどく、顔色が優れない。
適応障害だ。まともに眠れなくなった原因が職場、それも今の上司にあるなら、そこに居続けると悪化の一途をたどる。
「あなたは今、適応障害と呼ばれる状態になっています。心が“もう頑張れない”と悲鳴を上げて、体に不調が出てしまっているんです。職場の上の人間と相談して、可能なら負担の少ない部署に転向、もしくは休職することをおすすめします」
「でもギリギリでまわっているので、僕が休んだらほかの社員に迷惑が」
「責任感が強いのは立派なことですが、睡眠不足で判断力が鈍り、失敗が増える。失敗が増えるから焦り、残業が増えて睡眠不足になる。悪循環です。あなたに必要なのは、心と体の療養。診断書を出しますから、上司に文句を言われたら“主治医の命令に逆らえません”と言っておやりなさい」
ネルのように過眠症で困る人間もいれば、この男性のように不眠になる人間もいる。
睡眠一つとってもちょうどいいバランスをとるのが難しい。人間とは不思議な生き物だと、初田は思う。
仕事終わり、ネルの転居手続きや備品の買い物などをしてから帰宅する。
「おかえり、初斗にいさん」
「ただいまネルさん。はい、おみやげです」
子育て世代の看護師に聞いて購入した、幼児向けお箸トレーニング玩具だ。
ひよこの形をした豆を箸でつまんでお椀に入れることで、正しい持ち方と力加減を学べる。
「かわいい」
大変お気に召したようで、早速開封して楽しげに練習し始めた。
夕食時にはある程度箸使いが修正されていて、学習能力が高いことが判明した。
翌日、件の看護師にトレーニング玩具を紹介してくれた礼を伝えると、奇怪な生き物を見るような目をされた。
「まさか初田先生。小さい子でなく、ネルちゃんに使わせるために探していたんですか? あれ、幼児向けの玩具ですよ!?」
「なにか問題が?」
乙女心の何たるかを学んでくださいと口を酸っぱくして言われて、理解できない初田だった。





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「ネルさん、おはようございます」
どこから声をかけられているのかわかっていないのだろうか。
初田が目の前で手を振っても反応しない。肩を叩くと、何度も瞬きしてようやく視線を合わせた。
「朝ですよ、ネルさん。どうしたんですか、ぼんやりして」
「いま、猫ちゃんがいなかった?」
「わたしとネルさん以外には誰も住んでいませんよ」
葬儀場でもそうだった。友子に揺り起こされたとき、「おばあちゃんならさっき絵本を読んでくれていたよね」と、不思議なことを言っていたのだ。
ナルコレプシー患者は、眠りにつくときと目覚めるとき、しばしば幻覚を見ると聞いていた。本人は幻覚だと思っていないため、会話することで初めてそれが幻覚だとわかる。
学校で寝入ってしまった場合にもこの症状がでていたなら、授業に身が入らない不真面目な生徒だと勘違いされてしまうだろう。
「朝ご飯を食べましょう。白兎先生が処方してくれた薬を飲み忘れないようにしましょう」
「ん」
普段は買い置きの惣菜や菓子パンが朝食だったと言ってたので、食生活の改善も白兎の指導にあった。
高校生で女の子ならタンパク質を多めにとったほうがいいか、と頭の中で食材の栄養価を思い起こしながら朝食の支度をする。
着替えを済ませたネルが、初田の袖を引っ張る。
「なにかしたい」
「ネルさんは料理ができますか?」
「カップ麺なら」
「それは料理じゃありません」
料理をしたことがない人間に教えたことがないため、初田は考えを巡らせる。
「では、おにぎりを作ってくれるかな。そこの棚に海苔が入っているから」
「はい」
普段は茶碗に盛るだけなのだが、ネルが何かやりたそうなのでお願いしてみる。
初田がとうふの味噌汁と肉野菜炒めを作っている間、ネルはいびつなおにぎりを四つ作っていた。
テーブルに並べて食べ始めると、向かいから視線を感じる。
「お味のほどは」
「おいしいよ。おにぎりを作るの上手だね」
「よかった」
ネルは初田の答えを聞いて、安心したように自分のおにぎりも食べ始めた。
子育て経験などない初田だが、なんとなく親心というものがわかった気がした。
見栄えや味が悪かろうと、子どもが自分のために作ってくれるのは嬉しいし、おいしいのだ。
「にいさんが作ってくれたおかずも、おいしい」
「それは何よりです」
食後は処方された薬を服用する。
モダフィニールと呼ばれる中枢神経刺激薬。朝から昼にかけて服用すると、効果が十~十四時間ほど続く。この薬が体に合うなら、学校に行っている時間帯の睡眠発作を抑えることができる。
発作が軽くなれば、あとは少しだけ学校側で補佐してもらえばいい。
仕事中はネルの体調をみることができないため、初田は机の中から予備のスケジュール帳を出してネルに渡す。
「頭痛や吐き気、喉が渇く……ほかにも副作用かもしれないと思う症状が出たら、その日のところに書いてください。次に白兎先生のところに行ったときに見せたら、薬の量を調整してくれる。それと、お昼には一時間ほど昼寝をしてください」
「わかった」
ネルは素直に手帳を受け取って、手帳の表に名前を書く。
「あと、ネルさんは携帯電話を持っていなかったね」
「お母さんが、まだはやいって言ってたから」
高校一年生で携帯電話を持たせるかどうか、母親なら迷うはずだ。
携帯電話が無いとクラスのコミュニティになじめないんじゃないかとか、あったらあったでネットいじめに遭うんじゃないかとか。
どの道メリットとデメリットがある。
「じゃあ電話機能だけのを買おう。ネルさんの具合が悪くなったとき、すぐ電話できた方がいい」
「でもお金かかる」
「大丈夫。必要経費だ。わたしが面倒を見ると言ったのだから。ご飯は冷蔵庫の中のものを好きに食べていい。今日はこのあたりを散策してみなさい。ネルさんの通っている学校はここから三駅だから、通学にも不便しないはずだ」
出勤の準備をしている間に、ネルがまたおにぎりを作ってくれていた。
「おべんとう」
「ありがとう。休憩の時にいただくよ」
「ん。いってらっしゃい」
アルミホイルでくるまれたおにぎりはお世辞にもきれいな形ではないが、ネルが自分なりに役に立てることを探した結果だ。
手作り弁当なんて高校生のとき以来だな、なんて考えながら病院に向かう。
今日初めて来院した男性は、初田と同じ年齢で、仕事に支障が出て悩んでいた。
「上司はその日の気分で言うことがかわって、つらいんです。割り振られた仕事だけをこなしていると、“言われたことしかできない無能”と言われます。だからできることを探してやろうとすると“指示にないことを勝手にするな”と怒鳴られる。他の人は同じことをしていて褒められる。最近は凡ミスばかりで残業することになってさらに怒られて……僕、もう仕事をしていける自信がありません」
男性の視線はずっと膝の上で握った手に注がれていて、声に覇気がない。心がかなり弱っているのが見て取れた。
「それはお辛かったですね。問診票には長いこと眠れていないとありますが」
「はい。ここ三か月、夜中に何度も目覚めてしまって……」
精神的にかなりのストレスを抱え、不眠の症状も伴っている。見た目にもクマがひどく、顔色が優れない。
適応障害だ。まともに眠れなくなった原因が職場、それも今の上司にあるなら、そこに居続けると悪化の一途をたどる。
「あなたは今、適応障害と呼ばれる状態になっています。心が“もう頑張れない”と悲鳴を上げて、体に不調が出てしまっているんです。職場の上の人間と相談して、可能なら負担の少ない部署に転向、もしくは休職することをおすすめします」
「でもギリギリでまわっているので、僕が休んだらほかの社員に迷惑が」
「責任感が強いのは立派なことですが、睡眠不足で判断力が鈍り、失敗が増える。失敗が増えるから焦り、残業が増えて睡眠不足になる。悪循環です。あなたに必要なのは、心と体の療養。診断書を出しますから、上司に文句を言われたら“主治医の命令に逆らえません”と言っておやりなさい」
ネルのように過眠症で困る人間もいれば、この男性のように不眠になる人間もいる。
睡眠一つとってもちょうどいいバランスをとるのが難しい。人間とは不思議な生き物だと、初田は思う。
仕事終わり、ネルの転居手続きや備品の買い物などをしてから帰宅する。
「おかえり、初斗にいさん」
「ただいまネルさん。はい、おみやげです」
子育て世代の看護師に聞いて購入した、幼児向けお箸トレーニング玩具だ。
ひよこの形をした豆を箸でつまんでお椀に入れることで、正しい持ち方と力加減を学べる。
「かわいい」
大変お気に召したようで、早速開封して楽しげに練習し始めた。
夕食時にはある程度箸使いが修正されていて、学習能力が高いことが判明した。
翌日、件の看護師にトレーニング玩具を紹介してくれた礼を伝えると、奇怪な生き物を見るような目をされた。
「まさか初田先生。小さい子でなく、ネルちゃんに使わせるために探していたんですか? あれ、幼児向けの玩具ですよ!?」
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