ケース2 根津美ネルの場合 〜眠り病の同居人〜

 ネルは退院したら初田のところに住む、ということに決まった。
 検査の結果がなんであれ、なんらかの睡眠障害であるのは疑いようのない事実だ。
 友子はいったん自宅へと帰った。ネルが入院している間セーラー服を着たままというわけにはいかない。

 PSG検査は個室でないと行えないため、急ピッチで病室の準備が進められていく。ネルは休憩スペースの椅子に座ってぼんやりしていた。

「ネルさん、アレルギーはあるかい」
「ない」
「そう。なら退院して帰ったらお茶会をしようか。紅茶はなにが好きかな」
「私たち、お茶会するの?」
「帽子屋と眠りネズミはお茶会をするって相場が決まっているだろう?」
「たのしそう。あとは三月ウサギがいたらかんぺき」

 不思議の国のアリスでは、帽子屋と眠りネズミ、三月ウサギが終わらないお茶会を繰り広げているひとまくがある。

「悪いけど、三月ウサギマーチヘイヤはいないんだ。今日のところはこれで我慢してくれ」

 初田が自販機で買ってきたホットの紅茶をネルの手に持たせる。
 真夏にホットなのか、と他の人なら突っ込んだのだろうが、ネルは細かいことを気にしないタイプだった。息を吹きかけながら飲む。

「おいしい」
「それはなにより。ネルさん、今夜一晩PSG検査をするんだけど、わたしも今日は病院に泊まり込むから、何かあったら呼んでくれていいからね」
「ありがとう」
「なにかさっき聞きそびれた疑問や不安なことはある?」
「なにも」

 ネルはゆったりした口調のまま、首を左右に振って答える。
 あまり焦ったり不安がったりという様子を見せない。病気かもしれないと言われたのが唐突すぎて、実感が追いついていないのかもしれない。

 病室の準備が整い、ネルが病室に入ったらPSGの器具が装着される。
 

 初田は自分の担当科に顔を出し、事の次第を報告した。
 ネルを連れてくる前に大まかなことはメールで伝えてあったのだが、精神科のほかの医師に話を終える頃には夜九時をまわっていた。

 白兎がネルの主治医となるので、いったん白兎のもとに戻る。
 白兎と初田は医大の先輩後輩の間柄で、白兎の方が二年先輩だ。そのため学生の頃と変わらず、初田は白兎に頭が上がらない。
 白ウサギは休憩室でパイプ椅子に深く腰掛け、濃いめのブラックコーヒーをすする。

「ネルさんの症状、睡眠発作に加えて情動脱力発作じょうどうだつりょくどほっさもあるんだろう。それさえなければ突発性過眠症だったんだが」
「ええ。カルテにも書きましたが、お母さんと話しているときに突然畳の上に倒れてしまって、自力で上体を保てなくなっていました。数分で回復しましたが、ろれつもまわらなくなっていたので間違いないでしょう」

 情動脱力発作というのはナルコレプシー患者にのみ現れる症状だ。
 喜怒哀楽、感情が大きく変動したときに、筋肉に力が入らなくなってしまう。
 通常は数秒から数分で回復する。

 ネルは睡眠発作が起きたときにいびきがなく呼吸が落ち着いているため、睡眠時無呼吸症候群はその時点で除外している。

 眠れる森の美女症候群とも呼ばれる睡眠障害、クライネレビン症候群は最短七日から最長三ヶ月睡眠障害の症状が現れる。そして症状がない期間と症状が起こる期間を繰り返すのが特徴だ。
 ネルの場合、一年以上継続している症状であるため、クライネレビンも除外。

「ナルコレプシーだった場合、睡眠発作が軽くなるまで少なく見積もっても十年はみなければならない。本当にずっと面倒を見るつもりか? 犬猫を引き取るんじゃないんだぞ」
「わかっていますよ。あのお母さんを見ていると母を思い出すので……つい口を挟んでしまいました」

 初田も人を一人養うのが口で言うほど楽なことではないのは理解している。

 ナルコレプシーという謎多き疾病への探究心ももちろんあるが、ネルを放っておけないと思ったのだ。

「初田君といることで苦労することもあると思うぞ。君が兄と自分は別の人間だと言ったところで、殺人犯の弟だというだけでいろいろ言われてきただろう。ネルさんまでもがそれを言われる側になる」

 初田初斗のはとこ・・・であるということは、嘉神平也のはとこ・・・でもあるのだ。
 殺人犯とつながりがあるのではないか? とおもしろおかしく邪推する人はいくらでもいるだろう。

「ならわたしは、一日でも早く独立して自分のクリニックを持ちましょう。この顔をさらしさえしなければ、誰にもわたしと平也のつながりはわからない。着ぐるみの頭でもかぶって診療しましょうか」

 もともと初田は、この総合病院で必要な経験を積んだあとは個人病院を持とうと考えていた。ここにいる間は顔を隠すことができないが、自分の病院なら自分がルールだ。
 仮面をするなり何なりして顔を隠しても、誰にも文句を言われなくてすむ。

 初田は自分が何を言われてもなんとも思わない人間だが、家族が貶されるのは受け入れられない。


「精神科医の独立は、少なくとも五年の専門医従事経験が必要だな」
「たったの五年で自分の城が持てるなら万々歳ですよ。開業したらお茶会を開くので、一番に先輩を招待しますね」

 初田はこうと決めたら譲らないタイプなのだ。

 世の中広いのだから、かぶり物をした個人開業医がいたってかまわないだろう。

「そのときはバターまみれの時計をプレゼントしてやるよ」

 白兎は声を立てて笑い、初田の背中を叩いた。



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