ケース1 中村コウキの場合 〜猫の首を狩った少年〜

 物心ついた頃からずっと、コウキは独りだった。
 学校帰りは塾に直行。ランドセルを放り出して公園を走るクラスメートの輪にまじったことがなかった。
 物心ついた頃からずっと、コウキは疑問だった。
 ただ父親に命令されるまま勉強する日々に、意味はあるのか。

 だって、塾に行かなくてもコウキと同じくらいの成績を取れる子はいたし、その子たちはいつも楽しそうだった。

 コウキはジャングルジムに上ったことがない。
 シーソーをこいだこともない。
 輪になってはしゃぐクラスメートたちを横目に、ただ毎日のルーチン、塾に向かっていた。

 自室で日記を書きながら、コウキは子どもの頃のことを思い出して、それも日記帳に記載していく。
 この頃の気持ちに、なんと名前をつけるのか。コウキは知らない。
 初田なら教えてくれると思い、記していく。

 軽いノックの音がして、礼美が顔をのぞかせた。

「コウキ。今日は一緒にタルトを作ってみない?」
「タルト?」
「ええ。今日のチラシにタルト型が載っていたの。お散歩のついでに買いに行って作りましょう。クリームや果物を乗せて好きなタルトを作れるのよ」

 礼美の声は踊っている。
 どんなタルトが好きか、なんて考えたことがない。
 クラスメートたちが「誕生日にいちごのケーキを食べるんだ」と話しあっているのが聞こえてくることはあった。
 ケーキを食べるのなんて、たぶん幼稚園以来だ。
 礼美がコウキの誕生日にと買ってきたケーキは、一口しか食べていないのに秀樹が怒って捨ててしまった。

「好きなタルトがわからない」
「なら買い物しながら一緒に考えましょう」

 ここ最近秀樹は家に帰ってこないから、秀樹の目がないなら大丈夫だと考えてのことだ。
 断る理由がとくにないから、コウキは買い物につきあうことにした。

 お目当てのタルト型は直径五センチくらいで、具なしタルトが九つ入っている。これを二セット、持っているかごに入れる。
 それからいちごにオレンジなどのいろんなカットフルーツが入ったお得パックと、カスタードクリームミックス。
 コウキはアリスの絵本にタルトが出てきたことを思い出し、ジャムの棚を見て礼美に聞いてみる。

「あれは乗せて大丈夫なもの?」
「ええ。大丈夫よ。ジャムのタルトも作ってみる? あまったらヨーグルトを食べるときに使えばいいし」

 ブルーベリージャムといちごジャムを買うことにした。
 左胸が熱くなる。これは楽しいこと。

「そうだ。コウキ。これからもお料理をするならコウキのエプロンも買いましょう」
「……わかった」

 無地で紺色の前掛けエプロンを買ってもらい、帰ってから、さっそくクリームのパッケージ裏を読んでカスタードクリームを作った。
 牛乳の分量をきちんと守って作ったからおいしいクリームができた。
 パイナップルとカスタード、いちごジャムにいちご乗せ、いろんな組み合わせで作ってみる。

「お昼ごはんのあとのお楽しみにしましょうね。すぐお昼を作るわ」

 このタイミングで、いきなり玄関が騒がしくなった。
 秀樹がガタガタとトランクを引きずって帰ってきたのだ。
 トランクを洗濯機がある脱衣所に放り込み、キッチンにいる礼美に言い放つ。

「洗濯とアイロンがけをしておけ」
「わ、わかったわ」

 ただいますら言わず、要件だけ告げると自室にひっこみ、ゴルフに行くときの服に着替えてダイニングキッチンに戻ってきた。

「夕方オレが接待から帰るまでに終わらせるように」

 そしてふと、ダイニングテーブルに並ぶタルトに目をとめた。

「なんだこれ・・は」

 秀樹はまるでゴキブリでも見るかのような目をして舌打ちする。

「お昼ご飯の後に食べようと思って、コウキと作ったんです」
「男が厨房に立つな。恥だ」

 皿ごとゴミ箱にたたき込み、秀樹は玄関先においてあったゴルフバッグを掴んで出て行ってしまった。

 コウキには一切目もくれず。自分の言いたいことだけ言って。

 頭がくらくらして、胸のあたりが冷たくなって、黒いモヤがぐるぐると渦巻く。
 わかり合えない人種はいるものだと、初田が言った。
 そのとおりだった。
 コウキはどんなに考えを巡らせても、タルトを捨てる理由がわからなかった。
 この気持ちにはどんな名前をつけるべきなんだろう。
 わかるのは、“楽しい”“嬉しい”じゃないということだけ。

「ごめんね、コウキがせっかく作ってくれたのに。先に食べておけばよかった……」

 礼美が泣きながらゴミ箱を見下ろす。
 うまくできたのに、ゴミと混ざり合ってぐちゃぐちゃだ。
 礼美が捨てたわけではないのに、謝るのはおかしいとコウキは思った。

 夕方、ゴルフが終わったら帰ってくる。
 帰ってきてしまう。

 また秀樹は礼美を悲しませるようなことをするんだろう。
 秀樹がいない間は楽しいがいっぱいあったのに、全部消し飛ばされてしまった。

(あいつはいらない。あいつがいると母さんは泣く。二度と帰ってこなければいいのに)


 コウキの気持ちが暗い深淵に落ちていく。
 初田が危惧した事態が起ころうとしていた。




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