マリオネットは契約結婚で愛を知る。

 静を追い出してから十日経ち、些細な不都合が出てきた。
 まつはゴミが山積みになったキッチンを見て、盛大なため息をつく。
 これまでは惣菜のパックや空き缶を放置していても、勝手にゴミ出しがされていた。みのるが生きていたときは実が、実の死後は静がやっていた。

 洗濯物だって静の役目だった。
 今は洗濯機横のかごから脱ぎ捨てた服が溢れている。
 着るものがなくなってしまったから仕方なく、その中から比較的汚れが少ないものをひっぱり出して再度着ている。

 いなくなって初めて、いかに静が便利な下僕だったのか認識する。

 大嫌いな父親によく似た容姿のクソな娘。
 静を殴り、下僕扱いするのは父親に対する復讐だ。
 松なんていう、時代劇にでも出てきそうなダサくて古臭い名前をつけた父親が憎くてしかたなかった。
 姉の梅もまた、古臭い名前が嫌で反抗した。
 子どもの頃は同級生から名前をからかわれ、相当嫌な思いをした。
「ダサくて古臭い最低の名前だ」と父に直接怒りをぶつけたこともあった。
「古来から日本で愛される樹木だから、松のように気品ある子に育ってほしかった」らしいが、くそくらえと思っていた。

 静の名前は松が決めた。
 生まれた日、父親似の顔を見て思いついたのだ。
 いるかいないかわからないくらい静かに、決して口を開かず逆らわない便利な下僕に育つように。


 これまで下僕しずにやらせてきた家事だが、今はいない。

 長い間任せきりで、自分でやっていないから、何曜日が燃えるゴミでプラゴミなのかわからない。分別表がどこにあるかもわからない。

 今朝食べた分のパックをシンクに投げると、山が崩れて床を汚した。
 ビールの空き缶も惣菜パックも、洗わず積むだけだから、パックにはカスやソースがついたまま。エビチリのソースがスリッパについて、松は舌打ちしながらティッシュに手を伸ばす。

 が、空箱だった。
 乱暴に押しつぶしてゴミ箱に投げる。
 ゴミ箱ももうゴミが入り切らないくらいに溢れていて、潰れたティッシュボックスは床に転がった。
 それが更に松を苛立たせる。

「ああもう、最低。あっちこっちゴミだらけ!! 嫁いでも実家のことをやりなさいよ、気が利かないわねバカ静!」

 ここに他人がいたなら、自分で追い出しておきながらなにを勝手なことを、と笑っただろう。
 絶対に帰ってくるなと嗤って突き放したのは自分たちなのに、松の怒りは静に向けられていた。

「くそ、怒ったらのどが渇いた、って、ないのかよ!」

 冷蔵庫の中はからっぽ。
 ビールを買いにいかないといけない。
 雨が降っているのに、面倒くさいことこの上ない。

「キララちゃん、買いにいかないといけないわ。一緒に行きましょう」

 コタツでスマホをいじっていたキララは画面から目をそらさず、左手だけひらひらさせる。

「ポテチとポップコーンもよろー」

 一人で行けと言外に言っている。こうなったキララはテコでも動かない。
 これまではキララの行動ひとつひとつが可愛く見えていたのに、今は神経を逆撫ででした。

「なに? 今ジョージとメッセージで話してるから手が離せないもん」

 キララの言う資産家の婚約者はこっちに来て同居してくれると聞いていたのに、全然来る気配がない。
 遊べるだけの金を入れてくれると思っていたのにあてが外れた。
 押し問答する時間がもったいなくて、松はバッグを掴んで家を出た。

 ゴミ捨て場の前で、近所の夫人たちが三人で井戸端会議をしていた。
 松に気づくと挨拶してくる。

「あら保坂さん。さいきん静ちゃんを見ないけど、風邪でもひいたの?」
「それ、いい服ねえ。どこで売っているの?」
「あんたらに関係ないでしょ。いちいち人んちのことや服装見てるとか気持ち悪。暇なわけ?」

 苛立ちを隠さず答えると、三人ともなんとも言えない表情をした。
 いい顔をしたところで金にならない。だから静のようにいちいち近所の人間に笑顔で挨拶、なんて真似はしない。

 松とキララの態度が悪いのを、静が毎回謝ってまわっていたなんてこと、松は知らない。
 金にもならないのに笑う馬鹿だと思っていた。

 松が立ち去るとき、「あの様子じゃ、やっぱりチコちゃんが言っていたこと本当なんじゃ」と微かに聞こえた。

 チコとは隣家の娘だ。キララの遊び相手だった。
 そういえばここ数日、近所の人間が松を見る目は刺すようなものを感じる。
 チコがキララの悪口でも広めているのか。
 小さい頃さんざんキララが世話してやったのに、恩を仇で返すような娘だったのだろう。

 
 スーパーに入る前に財布を確認したら、千円札が一枚と小銭が数枚しかなかった。
 これじゃ惣菜ニパック買えればいいところ。お菓子とビールが買えない。
 静の給料が振り込まれるのは明後日。
 年末年始にたくさん使うのがわかっていたから、前回の給料日にあらかたおろしてしまっている。残高は数百円だったはずだ。
 優一がよこした金も、ブランドの服を買ったら二日でなくなった。

 あと数日腹を空かせて給料日を待つなんて、そんなのは嫌だ。

「ああそうだ。優一の家に行って直接取ればいいのよね。普通、子どもは親に仕送りをするもの。ポンと百万円出せるんだから、足りないって言えば十万くらいくれるでしょ」

 松は物心ついたときからずっと、だれかに寄生してきた。
 結婚する前は親に、結婚してからは実に、実の死後は静に。

 自分で働いて稼ぐなんて思考、ひとかけらもなかった。
 これからも命ある限り、静と優一が生活費を貢いでくれて安泰だと信じて疑わない。

「たしか優一の住所は……」

 婚姻届に書かれていた住所、スマホで撮影していた。
 ナビ機能を起動させてルートを確認する。

 手持ちは千円ちょっと。優一のマンションに向かうまでの片道電車賃が無駄になってしまうが、その分も静と優一に請求すればいい。

 子どもは、親に育ててもらった恩を返す義務があるのだから。
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