彼が軍服を嫌う理由
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がすん、と、音をたて、流動型のナイフは切れ味鋭く突き刺さった。……壁に掛かった人型の的の、心臓部どころか横1メートル程も離れた所に。
「…………」
敵兵には当たるのに。
訓練場の端、他に客の居ない投擲レーンに居座りながら、フリッピー……金色の瞳は苦虫を噛み潰したような顔をする。
カウンターに残るスローイングナイフを乱雑に掴み取り、その拍子にだらしなく羽織った軍服が滑り落ちた。肩口にあるのは三等軍曹を示す階級章。眉間の皴がますます深くなる。……あいつのナイフは当たるのに。
そして溜息を吐いた正にその瞬間、
「うわ……惚れ惚れするほどヘッタクソ」
「ッ!?」
不意に聴こえてきた呆れ声に、咄嗟に反応して刃を薙いだ。狙いは背後。ごく近い場所から聞こえてきた揶揄いの主はそれで即死するはずだったのだが。
「てッめぇ!死にてぇのか!!」
「はぁ……殺してくれンの?そのナイフでぇ?──何年かけて?」
声の主はその緩慢な口調とは正反対に、上体を微かにずらすとその刃を避けた。舐めきった事に両手はどちらも背に回されており、最小限の動きだけで突貫攻撃を凌いでみせた長身の男は口の端だけで怠そうに笑う。
「ッ、っの!口答えしてんじゃねえ!」
対して頗る機嫌悪く言い捨てながら、第二刃を仕掛けないのはそれが見知った男だったからだ。名は確かスネイキー、スネイキー上等兵。アイツの部下の一人だ。道理で足音も気配もしなかった訳だ。
「……上官に忍び寄るたぁ、良い度胸だな卒兵」
叩きつける様にナイフを手放し戻しながら、腹立ち紛れに低く脅しつける。しかし返す台詞で黙り込んだのは仕掛けた金目の方だった。
「いやぁー?隊長は上官っスけどアンタは別に、俺の上司じゃぁねーもん」
「………………そぉかよ」
軍で、このキャンプ内で。一部の者だけがその正体を知る、『フリッピー』と身体を共有する金眼の存在。フリッピー本人ですら知らない筈のその隠れた人格は、何故かどちらの部下にも知られているのだが特にこの元暗殺者は二人のフリッピーを殊更に分けて、、、扱う。それは恐らく、深緑の瞳への憧憬というか、信奉心故なのだろうが。
「そー、てか、そもそもたいちょーに報告書持って来たんスけどねー……今渡しても意味ねー感じ?」
漸く露わになった左手で、ひら、と振るのは確かに一枚の汚れた用紙だが。
「お前、なんだそれ」
「ほーこくしょー」
「ペラッペラじゃねぇか」
いくら軍事情に疎くとも、上官への報告書がこんなにもお粗末なもので無いことくらいはわかる。
「はぁあ?簡素簡潔は社会人の基本でしょー」
「そりゃ中身があればの話だろうが」
「いーんだっての。隊長はこれでも褒めてくれるしぃ」
眠たげな瞳はそのままに、微笑でも浮かべているつもりなのかニタリと歪んだしたり顔。
付き合ってられるか。
そう背を向けて、……興が削がれた、もう止めにするかと並んだ刃物を片付けに掛かれば、なぁ、と投げられる軽い声。
「たいちょーってさ、アンタの事知らねーんでしょ?」
さっさと出直せば良いものを。
「バラしたら殺すぞ」
「バラさねーよ、俺にメリットねーし」
おざなりに言えば負けじと適当な返答が寄越された。
「なンで言わねーの?」
かと思えばしつこく重ねられる問いに、やや不信感を持って向き直る。いつもならこの辺で飽きて居なくなるのだが。
「……言わなきゃ何だ。テメェに関係ねぇだろうが」
「べっつにー?」
覇気の無い声。無駄に整った横顔は、心の底から興味無さげに伏せられ規律を三つ四つ破り散らした長髪がその頬を滑り落ちていた。視線の先には手持ち無沙汰にくるくると丸められていく藁半紙。おい報告書。
「俺さぁ……あー、たいちょーに褒めてもらうのだけはきらいじゃねーんだよなー……」
マウスだとウゼェけど。
ぼそりと付け足し、鼻頭に皴寄せて。そんな唐突な話題転換に、釣られて手を止めたフリッピーの手元で置き損ねたナイフが一振りカチャリと鳴く。
「何の話だ」
「アンタはそーゆーの、ねぇのかなって」
「だから何の」
「認められたいとか思わねーの?」
折り目こそついていないものの、いい加減いじり倒された薄っぺらい紙の筒をレポーターマイクのように突きつけて、スネイキーは小首を傾げる。
ふざけ半分に興味は深く、放たれたその問いにフリッピーは……金眼は暫し沈黙し、やがて嗤った。
「──戦争だけが原因で俺みてぇなの、、、、、、が出来たと思ってるのか?」
「……ハナシ噛み合ってなくね?」
怯むように鼻白むスネイキーを無視して、思うのは別人格である自分という、馬鹿みたいなものを作り出してくれやがった緑の瞳の三等軍曹。
見た目ほどお気楽な育ちではないアイツがいつもほけほけ笑っていられるのは単に嫌な事を忘れているせいに他ならない。気の持ちようとかそんなもんですらなく。アイツが俺を知らないのは、知りたくないことを……覚えていたくもねえことを持ってんのが俺だからだ。諸々の記憶をもし、再度手に入れてしまった時、アレがどうなるのかなんて予想する気にもならないが、愉快な事にならないのは確かだ。
「思い出さねぇでいい……何度だって忘れていい。要らない記憶だ」
認めるとか認めないとか、そんな問題ですらない。俺の存在ごと、アイツの中には存在しないままで良い。臭いものには蓋をすれば良い。
「だからアイツは無知なままで良い」
そしてそれこそが自分の存在意義なのだから。
言いたいことを好きに喋るなり、フリッピーは鈍い黄金の瞳を伏せた。目の端に映ったのは白けたように顰め面の長駆。「ふぅん」とかなんとか理解しがたげな声をあげていたが、当然だ分かるように話していない。
さっさと立ち去れと馬鹿でも察するだろう無声音を発しながら背を向けた。
「んー……なァんかよくわかんねぇけどさあ」
……筈が、何故か立ち去る気配は一向に無く、
「なんつーか、それは隊長の方の事情じゃん」
「……ぁあ?」
怪訝そうな声につい振り向けば、上等兵がとうとう用紙を後ろに放り出したところだった。
案の定裏も表も白紙に近いそれが、ひらひらと落ちていく様を横目で見たかと思えば次の瞬間その目はこちらに向いていて。
「アンタが認められたがンない云い訳にはなんねー……と思うけどなぁ……」
こんな時ばかり純真に、無垢な調子で心の底から不思議で堪らないというように……わかりきった事を言うかのようにスネイキーは問いかけた。
「だからそーやってナイフ投げてんだろ?」
全然上達しねーのに。
それでも少しでも居ていい理由、、、、、、を増やす為に。
「ッ、る、せぇ!!」
次の瞬間激昂するその様子は、傍から見れば図星を指されたそれでしかなかったのだけれど。
ほんの一息、目を見開いたかと思えばフリッピーは怒鳴り散らしながら乱雑にナイフを掴み取った。先程片したばかりの鉛が乱れて数本、台から落下し地面を抉る。
「舐めんな、こんなモンすぐに!」
と、狙いも何もなくぶん投げた銀一色のナイフは成る程恐ろしい速度で風を切り、刺さった。
「ほぉらなもうダメダメじゃん」
壁に。
今度は的からたっぷり5メートルは離れているか。
「だめって言うなクソっ!知るか!敵に当たりゃ良いんだろうが!」
「敵に当たっても的に当たってねーしぃ」
「ッるせ!」
苛立ちと羞恥で喚き散らす金眼を意にも介さず、スネイキーは態とらしく手で庇を作りながら遠く外れたナイフを眺める。そして数瞬唸ったかと思えば今度は投げ手に向き直り、
「そもそもなー、アンタ固定標的狙う時のセオリー解ってねェんだよ実戦ばっかだからか?」
「は?」
「移動標的と固定標的じゃー仕留め方が全然違ぇーよ、普通動く獲物に当てる方が難しーんだけどな。アンタ殆ど勘で当ててるだろ、生体動物仕留めるだけなら及第、──や、満点以上、けど……それじゃ固定標的には一生あたんねーぜ?」
「……おい急に真面目に喋んな」
昔取った杵柄、腐っても鯛。左遷されても元暗殺部隊の気鋭。
「まーまぁ、……ちっとはコツ教えてやるよ、ほれ、やってみ?」
「はぁ!?頼んでねぇ!!」
「そー言うなってー、レアだぜぇ天才ナイフ使いの俺がー?人にモノ教えんのぉー、感謝しろよー」
そう嘯きながらスネイキーは上背を活かして、仮にも……身体だけなら上官の、両肩を容赦なく掴み、ぐるん、と回転させる。すると目の前には憎っくき黒い人型。ちなみに未だ無傷である。
「てめぇ!」
「訓練するに越した事ねーってー」
精一杯首を捻って。
振り返って見た軍兵の顔は、いつもの気だるい雰囲気を残しつつもどこか無邪気で。
「まぁ上手くなったらそん時は、たいちょーの代わりに俺がフリッピーのこと認めてやるからさぁ」
よくやったー、ってな。
そう言い募る様子はまるで、年相応の友人に笑いかけているような明るさだった。
──がごん、という衝撃と共に目を覚ます。
肩口に軽い痛みを感じ、無意識の受け身で掌を床に叩きつけながらソファから転げ落ちた事を理解する。今どっちだ。俺か?俺か、俺だ。背中を床に、視界を逆さにしたまま顎を上げれば、カーテンが開きっぱなしの窓ガラスは夜の闇で鏡面と化し、金の双眸が自分自身を見返してくる。……フリッピー、アイツまた変なところで転寝したな。
「…………ッ!」
これといって迫る危機もなく、転がったまま前髪を書き上げれば首筋に冷たさを感じて肩が大袈裟に揺れた。動いた所為でドッグタグがずり落ちたらしい。
慌てて体を起こせば、細い筈の鎖が軽い筈の二枚の金属プレートが、余りに冷たく重く首を絞めてくる。それは多分、知っているから。軍事用の身分証明……身元確認用のその金属板に彫り込まれた名は三等軍曹Flippyではない事を。つい先に見た夢の残滓に息が詰まる。沈黙する帰還兵を嘲笑うかのように胸元で揺れる、今はもう何処にも居ない二人の名前。アイツにとっての部下。俺の……、俺にとっては、何だったんだろうか。奴等にとっての、俺は。どういう存在だったのだろうか。訊けばよかった。訊けなくなる前に。もう二度と、答えは手に入らない。
指先でそっと撫でた、その首輪越しに見えるのは相変わらずアイツがしつこく、贖罪か何か様に着続けている迷彩服。色を持たない夜の中で、黒く染まったそれは、まるで。
「はっ………喪服みてぇ」
【end】
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