後日談 Ⅰ
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もしもの時はうちに帰ってきなさい、と。
あの言葉がオレは本当に、胸が詰まる程に嬉しかったのだけど。
でもそれは零の記憶と同じに、やっぱり消えてしまったのだろうか。
いつものように、隣家に上がりこんで、
「……それでその顔は何ですか」
全部思い出したというオレの話を聞き終えて、モールさんの一言目はそれだった。
最早何で見えていないのに云々とは思わない。
「ちょっと、ぶつけた」
額のガーゼに触れる。
その顔、とは十中八九これのことだろう。
フレイキーを引き連れて街を巡っていたものの、少々気が高ぶっていたらしい。余所見をしていて電柱にぶち当たった名残である。周りが見えていないことこの上ない、はしゃぎ過ぎである。白状すればちょっとどころではなく、フレイキーを巻き込まなかったのは不幸中の幸いだが、代わりに顔から突っ込んだ。そしてそれを見たフレイキーに有無を言わさず病院まで連れて行かれて、……まあランピーにも会えたからそれはそれで良かったんだけど。
「記憶」
ソファの上で膝を抱えて寛いでいれば、いつの間にか傍に来ていたモールさんが斜向かいに腰掛けていた。
「戻ったのなら、もう貴方をイチとは呼ばないようにしますか?」
「あ、えっと」
飽くまで、普段と変わらず静かな声で言うモールさんに、何故か焦って答えてしまう。
「……オレの名前はイチのままだよ」
言うと、当の名付け親は聞いておいて然程興味なさげに視線を逸らす。
「そうですか」
「うん。あの、元々名前ってオレには無くて、だからイチっていうのが初めてもらった呼び名で……うまく説明できないけど」
思い出したところで特に自分の境遇に変化は無くて、というか、本当は『記憶が戻った』というのは大いに語弊のある表現なのだが、それをこの街の人たちに伝える訳にはいかない。
「結局、これから行くところも無いみたい、で。なんていうか、複雑で」
どうしようもなく言葉尻を濁せば、我が保護者は何だか不思議な表情になる。
その綺麗な顔を眺めていたら、意識もしないままするりと言葉が零れ出た。
「すごく図々しいかも知れないけど……」
……オレの帰る場所は、ここだと思ってた。
自分の住処はと聞かれたら、それは隣に建っている小さな家だし、もうモールさんの家に居候している訳でもない。
それでも例えば、自分にとってのルーツはと尋ねられたら。
それはオレにとって、この家で、この家のソファで、そしてオレの事を初めに呼んでくれたこの人なのだと、そんな気がしていたのだ。
しかし言いかけた台詞は不意に途切れる。
だってもし、否定されたらと思うと怖かった。
今だって十分過ぎるくらいモールさんに甘えてるのに、これ以上、寄りかかっていいのかと自制した。そろそろ、いい加減自立するべきじゃないのかと。
何か今日、モールさんはあんまり機嫌がよろしくない気もするし。
「……どうかしましたか」
「……なんでもなかった」
ますます小さく縮こまりながら言えば、わざとらしい溜息が降ってくる。どうやら立ち上がったらしい気配がするので顔を上げてみれば、目に入ったのは見慣れた背中。
「どこかのヤブ医者はよく勘違いをしているようですが」
モールさんは明るい色の髪をうなじで揺らしながら、何かを探るように本棚に手を伸ばしていた。
「私は貴方の親ではありません」
「……うん」
「……有って無いようなものですがね」
「え?」
沈んだ声にならないように努力しつつ頷けば、モールさんにしては珍しくどこか自嘲したような呟きを返される。いや、もしかしたら独り言のつもりだったのかもしれない。
何の話か分からずに、戸惑った声をあげると、振り返ったモールさんが「失礼します」と小さく囁いてオレの右手を軽く引いた。
くい、っと引っ張られた腕は伸びて、手の平が晒される。
「イチ、私は貴方の親ではないし、そもそも私が人の親になれるとも思いませんが──」
上を向いて開いた右手に、綺麗な指がぽつんと小さな何かを置いていく。
微かに鉄の匂いのするそれは、小さくて頼りないくせにじんわりと重い──鍵だった。
この家の、鍵だった。
「──記憶が蘇ってそれでも貴方に戻るべき場所がないのなら、今まで通りここへ帰ってくればいい」
モールさんの手が、ガーゼを避けてオレの頬を撫でた。
その掌に伝わるように、目一杯口角を上げてみる。
「……うんっ」
ひんやりとした金属の冷たさが心地良い。
オレを喜ばせた言葉は消えてはいなかった。
──この手の中に、形を持って帰ってきた。
(ええぇっ、合鍵貰ったの?モールに!?すごい僕持ってないよぅ!いーなー!!)
(……あげないよ、これはオレのだから)
【end】
イチに実家が出来た話。
モールさんは目が見えないから、イチが笑うのを頬っぺたが持ち上がるのを触るまで実感できないんじゃないの、っていう。
保護者コンビは何だかんだイチに過保護だと私は嬉しい。
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