私たちの日々は食べなければはじまらない。
加工したお肉。濃いめの醤油がベースの煮物。タルタルソースに含まれる酢の香り。ランチタイムにもなれば、教室には各家庭の食卓のにおいが満ちる。
「やっぱり笑顔が爽やかでさりげなく優しい王子様かな」
どんなひとがタイプなの? という、よくある恋バナ初級編の問いに対する私の答えがこれである。
口に放った玉子焼きのほどよい甘みに頬が緩むことはあっても、私はまだ恋の甘さというものを知らない。
知らなくても日々の彩りを自分で作り出すことはできる。
例えばこのふわふわな玉子焼き。秘策はよくかき混ぜた卵液を茶漉しでこすこと。料理はほんの少しの手間で劇的に贅沢な味になってくれるからやりがいがあって好きだ。
いまどき王子様を本気で夢見ている女子高生なんていないことは知っている。その自覚は持ち合わせているつもりでも、"恋"という実態が不明な私の憧れからくる嘘偽りのない理想は『王子様』という甘い三文字に凝縮されているのだ。
目の前で、焼きそばパンの袋を豪快にやぶく音がした。
「ねえなまえってば大丈夫?」
「うん幸せ」
「いや玉子焼きじゃなくてさ」
「はいあーん」
「聞け人の話を」
哀れむような、異端児を見るような。もの悲しげな眼差しを向ける友人に玉子焼きをひとつ差し出す。
呆れ顔で肩を落としてみせたあと、ぱくり。友人は玉子焼きを頬張った。
「なまえちゃんはいいお嫁さんになるね」
斜め横でもうひとりの友人が微笑む。長いまつげが印象的な彼女とはさっき唐揚げとクリームコロッケを交換したばかり。
彼女のお母さんが作ったというコロッケは、ホワイトソースに物凄くコクがあって作り方につい探りを入れたくなってしまう。
「確かになまえの作るご飯は旨い。そんじょそこらの主婦よりよっぽど手が込んでるし」
「うん、そんじょそこらの主婦には圧勝できるよね」
「やめてよふたりとも。そんじょそこらの主婦だって頑張ってるんだよきっと」
「というか、そんじょそこらの主婦って言いにくくない?」
「······お前らはとりあえず主婦に謝れ」
頭の上からまったりとした声がして、振り返るとクラスメイトの縁下が渋い顔で私たちを見下ろしていた。
「わ、縁下っ」
「女の話を盗み聞きするなっ」
「別に好きで盗み聞きしたわけじゃないよ」
物静かで穏やかそうに見える縁下とは、この春クラスメイトになったばかりだ。
ゴールデンレトリバーのような優しい瞳を持っている彼。
はじめは接点といえるものがなく、言葉を交わすことも多くはなかったのだけれど、近頃少しずつ会話をするようになって判明したことがある。
それは、意外にも毒舌な突っ込み屋であるということ。
「どしたの? なんか用?」
「あ、うん。みょうじに。田中が呼んでるよ」
「龍が?」
教室後方に首を回すと、龍がいた。
唇が『よお』の形に開閉し、こちらに向かって一度腕を振り上げる。
んん? なんだかいつのも龍じゃないみたいだ。
そうか。普段はおかまいなしに大声で私の名前を呼ぶものだから注目の的になるのだけれど、なぜだか今日は大人しい。落ち着かない素振りを見せては、坊主頭の位置が定まらずにゆらゆらと波打っている。
「ん、ありがと縁下」
縁下にお礼を言い、私は炊き込みご飯のおにぎりを片手に龍のもとへ向かった。
「なまえ」
「どうしたの、そんな大人しい」
「いや縁下が」
「縁下?」
龍が表情を強張らせる。
「お前を呼ぼうとしたら縁下につかまっちまったんだよ。『田中はいつもうるさい』『どうせみょうじだろ? 呼んでくるから大人しくしてくれ』(縁下の真似)だと」
「あははっ、やっぱり縁下ってすごいな」
「まったく、タイミング悪いぜ」
「で? どうしたの?」
「ん、ああ、今日さ、うちの母ちゃん慰労会だとかでいねーんだよ。だからお前んちで飯食わしてくんねぇ? たぶんおばちゃんにはうちから話いってっと思うんだけど」
「そうなの? 冴子ちゃんは?」
「姉ちゃんも和太鼓仲間との飲みで今日は飯いらねぇんだと」
「わかった、部活終わるの遅いよね? 終わったら連絡してよ。そしたら作りはじめるから」
「別にあっためて食うからいいぞ? 遅くなる時はうちでもそうだし」
「まぁまぁ、今日は豚カツの予定なのだ。揚げたてのほう美味しいでしょ?」
「トンカツ!? だぁっしゃらぁっ!!」
「あ、縁下の目が険しい」
「ぅぐぅっ!」
*潔子さんや叶歌ちゃんはいない世界線のお話