先生の口が『留学』という言葉を放ったのは、新学期になる一週間前のことだった。
お客様用のカップで一口、テーブルと同じ飴色の紅茶を口に含んだ先生の喉が、こくりと波打つ。
自分のことなのに、どこか他人事のように思えた。夢だったひとつが現実になろうとしている中、当の私はただそこに座っているだけ。難しい大人の話も多すぎて、それに至っての理解力はすでに力尽きている。
ずっと、留学することをひとつの目標として掲げてきた。あのウィーンの音楽学校に通えるんだなんて······夢みたい。
それなのに、思っていた以上に気持ちが追い付いていかない。突然変化しようとしている環境に、戸惑いもある。けれど、それだけじゃない。留学を目の前にした今、手放しで喜べない私がここにいる。
以前の私なら、もっと心をときめかせていた。あんなにも望んでいた留学だ。パパとママのことだって何度説得してきたかわからない。
……もしかしたら、私は自分が思っていた以上に、ずっと先の未来へ思い描いていたのかもしれない。
『留学』という現実を。
「······ちゃん、なまえちゃん!」
名前を呼ばれてハッとした。いけない、ついぼんやりしていた。
「大丈夫? まだコンクールの疲れ残ってるかな?」
「…大丈夫です。すみません」
「それでね? 来年の一月に開催される国際コンクールに出場しましょう? それまでにある程度の語学を習得して、クリスマス頃にオーストリアへ行くのはどうかしら。もちろん最初は私も付いていくから」
「え…? 学校は…? 卒業できないの?」
思わず零れ出た声は酷く弱々しいものになってしまった。三人の視線が一斉に自分に向けられて沈黙する。この子はいったい何を言っているのだろうか…とでも言わんばかりの表情に捕らわれて、私は心の中で「すみません」と言い肩をすぼめた。
「今の学校は中退ということになるけれど、向こうで新しく音楽学校に入学するの。なにも心配しないで」
私が留学を希望していたことは先生も知っている。そのために今日もこうしてわざわざ家を訪ねてくれた。それなりの覚悟を持っていると認識されていて当然だ。私だって、もっとそれは備わっているものだと思っていた。
今更怖じ気づくなんて、情けないにも程があるよ。
告げられた旅立ちはクリスマス。残された時間は約三ヶ月だった。
ピアノの練習。ドイツ語の習得。引っ越しの準備やその他諸々の手続き。受験の勉強。次々と揃えられる課題に目が回りそうだ。
「もうすぐ新学期だけど、学校にはあまり行けなくなるかもしれないから…。それは覚えておいてね」
怖いと思う。
孤独感が、恐怖というより深い不安に変化する。
私、本当に留学するの?
できるの?
やっていけるの?
「も、もう学校に、行けないんですか…?」
声が震える。
「あ…うん、でも、行っちゃいけないわけじゃないよ? お別れ言いたいお友達もいるだろうし」
今、自分がどんな顔をしているのか、容易く想像できてしまう。きっと、とても見苦しい顔をしている。
こんな中途半端な覚悟で私は留学を望んでいたのだろうか。その程度の淡白な夢だったのだろうか。
──···違うはずだ。
どれだけ臆病風に吹かれても、これだけはわかる。この選択に背を向けて逃げ出せば、いつか必ず後悔する時がやって来る。
悔やむのは、嫌だと思った。留学したからといって、誰しもがピアニストになれるわけじゃないことも知っている。それでも私は、幼い頃のあの光景に今でも恋をしているのだ。
見据える未来に重なって、ふと彼の姿が頭をよぎった。
新学期になれば、夏休み前と変わらない日常が訪れると思っていた。
学校までのあの道のりを、また二人で歩ける日を待ちわびていた。けれどもう、それが叶うことはない。
京治くんに会いたい。せめて最後にもう一度だけ。
コンクールのお礼もきちんと出来ていないから。
大丈夫。まだ生まれたての気持ちだもの。
ありがとうとさよならを伝えられたら、きっと綺麗に消えてなくなる。
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