新学期初日を迎えた朝。
朝練がないため普段よりも遅い電車に乗り込むと、車内は同じ制服を着た生徒や他校の学生で混雑していた。
乗り込んだ車両は普段と同じ。彼女と共に指定席となっていたその場所には、すでに別の乗客達が肩を並べて腰掛けていた。
サラリーマンと、他校の女生徒。
おそらく他人である彼らの間に、大袈裟な遠慮や戸惑いはない。目に見えないアクリル板をお互いのスペースに差し込んで、心の底で距離をとる。その分なにかの拍子で身体が触れてしまっても、別段気にもせずにいられる。
人口密度の薄い時間でもあるが故の、彼女と俺に作られる隔たり。男女の友情の距離感というものは、実に繊細だと思う。
俺はコンクールの本選結果が気になっていた。
今日は午前中で学校を終えてしまうし、学年が違う彼女と偶然顔を合わせられる確率は低い。
なぜこんなことを考えているのかというと、俺はいまだなまえさんの連絡先を知らないからだ。聞くタイミングが無かったと言えばそうだし、彼女と二人きりの時間にあえてそれをする理由が見つからなかったとも言える。
木兎さんに教えてもらおうかとも考えたけど…うん、やはり聞くなら自分で聞きたい。
電車に揺られながら、ポケットからスマホを取り出す。メッセージアプリを開くと昨晩やり取りした『梟谷男子バレー部』のグループのアイコンが
木兎さんが装着タイプの筋肉増強マシーンを購入したらしく、二の腕に巻き付けたそれをわざわざ写真でお披露目してくれたものだから、みんなで誉め称えてあげたという、平和な夜のやり取り。
今日は早速使用後の感想を聞いてやらねば。
そんなことを思いながらスマホアプリの光を落とす。
必ず連絡先を聞こう。
思い立ったが吉日。
時間は自分で作るものだ。
HR終了後、三年一組へと足を運んだ。
後方扉から教室の中を覗いてみたが、なまえさんの姿は見えなかった。代わりにミミズクベッドがずんすんとこちらに近付いてくる。
「ヘイヘイ赤葦どうした!? もしかして俺のお迎え!?」
「いえ、木兎さんに用はありません」
「あかーし! 今の言い方!」
「あの木兎さん、なまえさんどこにいるか御存じですか?」
「なまえ? あいつ来てないよ」
「え、休みですか?」
「休みっつーか、俺もさっき聞いてビックリしたんだけどさ」
「木兎っ」
木兎さんが何か言いかけた時、柑橘系の声色に遮られた。
振り返った木兎さんが、彼女を「蝶野」と呼ぶ。
「なまえのことでしょ? 私が話すよ」
「えー? なんでだよ、今俺が」
「赤葦くんだよね? 私、なまえの友達の蝶野桃波です。ちょっといいかな?」
「いやだから俺が!」
「木兎は邪魔だからあっちいってて」
「じゃあまぁ~!? 赤葦は俺の後輩!」
二人のやり取りはしばらく続き、結果見事に打ちのめされた木兎さんを教室に置いたまま、俺は蝶野さんの背中を追い掛け中庭へと向かった。
「赤葦くん、なまえのコンクール本選見に行ってくれたんだってね」
蝶野さんは、満足そうに笑んでいた。
「最後まで会場にいなかったの?」
「はい、なまえさんが終わったら帰りました」
「じゃあ結果は知らないんだ?」
「以前郵送で届くと聞いたので、今日伺おうかと」
「あ、そっか。本選はね、その場で結果が出るんだよ」
「え?」
俺はとんだ勘違いをしてしまっていた。ということは、あの日最後まで会場に残っていれば、そのまま結果を知れたのだ。
「なまえね、二位に入賞したの」
二位。
入賞。
「…すごい」
自然と感嘆の声が零れた。それがどれ程素晴らしいのか、音楽に疎い俺でも十分に理解できるほど彼女に与えられたものはきっと尊い。
「…なんか、すみません。上手い言葉が見つからなくて……でも、よかったです……なまえさんすごく頑張ってましたから…。自分のことじゃないのに、俺も嬉しいです」
「もしかして赤葦くん、なまえの連絡先知らないの? 交換してない?」
「はい。なかなかタイミングがなくて」
「そっかぁ~…それでなまえ、赤葦くんに連絡できなかったんだ」
蝶野さんの困惑めいた表情に、少しづつ、ただ確実に、大きくなっていくものがある。
すでに、逃げ場はないような。
「どういう…ことですか」
『どうして』
『もしかして』
うっすらと出現し始めた疑問が、確信に、濃く染まっていってしまう。
「なまえ、今年いっぱいで学校辞めて、オーストリアのウィーンに留学するの」
───···ジ──────···
一直線に蝉の声が抜けていく。
陽光の当たる芝生から、夏の香りがゆらゆらと上空に昇っていった。
蝶野さんの言葉だけが、鼓膜に纏いついたまま離れない。
ああ、やっぱり。
留学
オーストリア
ほんの二秒瞳を閉じて、その距離を思う。
世界地図を頭に思い浮かべてみても、平面図では視覚的なイメージを浮かべることしか出来なくて、ただ漠然と、彼女が遠くの世界に行ってしまうのだというほろ苦さだけが口の中に広がった。
予想外は今年いっぱいで学校を辞めるということ。
あと、三ヶ月じゃないか……。
言い放たれた突然のタイムリミットに、汗で湿る掌を握りしめる。
昔から、海外へ行くことがなまえさんの夢だった、と。
中庭で一番大きな木の木陰。微かな木漏れ日を浴びながら蝶野さんはそう話す。
結果を出せず、これまでは彼女のご両親がなかなか首を縦に振ってくれなかったこと。お世話になってるピアノの先生の計らいもあり、今回ばかりはご両親も納得をしたこと。来年になってすぐに開かれるウィーンの国際ピアノコンクールへの出場と、向こうに渡ってから通う学校の関係で、どうしても卒業までは日本にいられないこと。
次々と語られる言葉を俺は黙ったまま聞いていた。頭は理解出来ている。けれど、気持ちがとても追いつかない。
「あと三ヶ月は日本にいるけど、手続きとか引っ越しの準備とか。語学勉強もしないとって言ってた。だから、ほとんど学校には来られないかもって」
その言葉により追い討ちを掛けられる。
もう学校に彼女は来ない。
「なまえね、しばらく悩んでたよ。あの子も急に留学の許しがでるなんて思ってなかったんじゃないかな。留学することは目標のひとつだったし、チャンスだって思う反面、すごく不安もあると思う。全然違う環境に一人で行くんだもん」
海外に、ただ一人。中途半端な気持ちでは絶対にできないことだ。 もしも自分が同じ立場になった時、果たしてGOという決断を下せるかどうかはわからない。
余程の覚悟が必要なのは確かだろう。
「それに」
蝶野さんは少しうつむき、その後言い淀んだ。
「…やっぱしいいや。これは私が言うことじゃないし」
「…?」
「なまえの連絡先教えてあげる」
「え? でも勝手に」
「大丈夫。連絡してあげて? なまえも喜ぶと思う」
ほらほら早く! そう言って、今度は制服からスマホを取り出しこちらにも催促する素振りを見せる蝶野さん。
「だって。このままじゃ本当に、もうなまえには会えなくなるよ」
午後に向かって熱を上げてゆく中庭。自覚したばかりのまっさらな想いと、行き場所を見失ってさ迷う想いに胸を焼かれる。
青春の気まぐれな悪戯であればいいのに。
そんな風に思わずにはいられなかった。
残暑の熱射に、瞳が眩んで。
07
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