「…暑」
外に出てから数秒足らずでじわりとひたいに汗が浮かぶ。
空には巨大な積乱雲。街をまるごと飲み込みにやってきた怪物のような雲を背に、俺はなまえさんが出場するピアノコンクールの本選会場へと向かっていた。
今日は、約束の八月十九日。
電車を乗り換え駅から五分ほど歩いた場所に、『△△国際ピアノコンクール本選開場』という看板が掲げられた建物が見えた。
会場へと足を踏み入れる。
建物の中は涼しく、ひたいを濡らす汗があっという間に引いていく。エントランスに漂う冷えた空気が程良い緊張感をもたらしていて、なんとなく、自分の背筋も伸びてしまう。
頭上にある時計の針は、なまえさんの出番がもうすぐであることを知らせる。ホールの扉の前に立ち、俺は重厚なそれをゆっくりと手前に引いた。
後方中心の座席に腰掛けほっと一息。キリよく彼女の番号よりもふたつ前の人が演奏を終えたばかりで、確か、次の次が彼女の出番だったはず…と頭の中で確認をする。
客席を包むピリリとした空気を肌で感じて、俺はこくりと喉を鳴らした。
『十二番、みょうじなまえさん』
いよいよ彼女の名前が呼ばれ、ステージの袖から静やかに現れた横顔が、頭上から降る証明の光を浴びた。
高い位置で纏め上げられた髪。ドレスは鮮やかなターコイズ。決して至近距離ではないこの場所からでも、なまえさんはとても輝いて見えた。
なまえさんの手が鍵盤の上を滑り始める。吸い付くように、滑らかに動く指先は、まるで魔法のようだった。
間近で何度も目にしたことのある彼女の手。それなのに、自分の知る彼女の手とはまったくの別物にも見えて、なぜだろうか。
ほんの少しだけ、胸の辺りが息苦しくなる。
俺はピアノには無縁で生きてきた人間だ。この感動をどうにか表現したくても、本で読んだ受け売りのような称賛しか出てこないのがまたなんとももどかしい。
それでも、これだけは言える。
俺は、この人の弾くピアノがとても好きだと。
鍵盤から指先がゆっくりと離されて、彼女は瞳を静かに閉ざした。
今、なまえさんが何を思っているのかは、彼女にしかわからない。けれど、満ち足りた顔をしている。そんな風に見える。
椅子から立ち上がった彼女の笑顔が会場に向く。演奏が終わったのだ。夢中で聞き入っていたせいか、あっという間に時間は過ぎた。
「あの子、綺麗な子ねぇ」
「本当」
俺の席の前に座る、母親と同年代ほどの女性達が、こっそりとそんなことを話している。南の島を連想させる色のドレスは、彼女の白い肌によく映えて、本当に綺麗だった。
初めて彼女に出会った日の放課後、音楽室で交わした言葉は今でも鮮明に覚えている。
向けられた、ふわりと舞うような笑顔はとても可愛くて。
風に靡く黒髪の隣を歩く時間が心地よかった。
椿色を乗せた頬に、何度触れたいと思っただろう。
あの瞳に見つめられると照れくさくなるけれど、まびたきをするたび覗く茶水晶のような瞳が好きだった。
そんな、触れられそうで決して触れられない黒髪も。
すぐに赤く染まってしまうその頬も。
ピアノを愛でる優しい視線も、指先も。
いつしか特別になっていたこと。
今日までずっと、それに気づかぬフリをしてここに来た。
彼女が舞台から姿を消すと、徐々に拍手の音が細くなる。周囲に合わせて、俺も打ち合わす掌の力を弱めた。本当は、いつまでもずっと拍手を送り続けていたかった。
しばらくすると、次の演奏者が名前を呼ばれて舞台に姿を現したので、俺はその隙に立ち上がり、出入り口の扉を目指した。
開けた扉から光の道が作られて、自分の体が通り抜けられる程度の横幅をすり抜ける。
正面の、高いガラス張りの窓から降り注がれる午後の陽光。薄暗い場所から抜けてきたため光の刺激に耐えきれず、まぶたを細めた。
パタリ。静かに扉の閉まる音が聞こえ、その瞬間に、はっきりと自覚する。
俺は、なまえさんのことが好きなのだ。
「京治くん……っ」
自動開閉扉の手前で名前を呼ばれ振り向くと、そこにはターコイズ色のドレスを纏ったままのなまえさんがいた。
「なまえさん? どうしたんですかそんな格好で」
「よかった、間に合って……京治くん、帰るかなって思ったから」
「はい。なまえさんのピアノが聴けたので、満足です」
自覚したばかりの気持ちに妙にそわそわしてしまう。
素晴らしい演奏だったとか、聞き惚れてしまったとか、いくらでも伝えたいことはあるはずなのに、言葉にならない。
誰が想像出来ただろうか。数分前までステージの上にいた彼女が、まさか突然目の前に現れるなんてこと。
「今日はわざわざありがとう。って、お礼が言いたくて」
切らした息を整えながら笑う彼女は、何だか晴れ晴れとして見える。
「そんな格好のままわざわざ走って来なくても」
「でも走ってこなきゃきっと間に合わなかったよ」
確かにそうかもしれないけれど、学校が始まれば、またいつでも会えるのに。
でも、こういうところが彼女らしい。
「今日ね、すごく気持ち良く弾けたの。自分の中では今までで一番の出来だよ。京治くんのおかげだね」
「いえ、俺は特に何も」
していない。むしろ俺に出来ることなんて何もない。
俺は、なまえさんがこの日のために頑張ってきた姿を知っている。毎日毎日、ひたすらにピアノと向き合っていた彼女の姿を。
「ううん、言ったでしょ? 京治くんがいるとやる気が出る気がするって」
「気がするだけでしょう? どんな理屈ですか、それ」
「んふふ、いいの、そういうものなの」
外気が背中を撫でまわす。もうすぐ夏休みも終わるのに、この灼熱はいったいいつまで続くのだろう。加えてなまえさんがそんなことを言うもののだから、ますます熱にやられてしまいそうになる。
「じゃあ、俺で良ければ、どうぞやる気の糧にしてやってください」
平静を装いながらそう言う俺に、なまえさんはまたとびきりの笑顔を返してくれた。
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