突如木兎さんに呼び止められたのは、昼休みの時間も終わりに近づいていた頃だった。五限目の授業は生物学の移動教室で、目的の視聴覚室が三年生のクラスと同じ四階であったことを俺はすっかり忘れていた。
ゴールデンウィークを終えたばかりの五月初旬。開け放たれた窓からふわりとそよぐ新緑の風が、襟足をくすぐる。
「なんですか? 木兎さん」
「今日さ、部活終わりにスポーツショップ付き合ってくんねえ?」
「いいですけど、また急な話ですね。何か必要なものでも?」
「実は昨日の夜ウチのバレーボールが爆発しちゃったんだよ」
は? と思う。
発せられた『バクハツ』というあまりにもわんぱくな四文字に、自分の眉間に露骨な深いしわが刻まれたのがわかった。
「ボールが爆発って……」
いったい何したんですか……と問い返してしまったことを、言い終えてからハッとして、後悔した。いや、時間に余裕があるのならば気がすむまで耳を貸してやりたいところではある。しかし五限目の開始時刻がすぐそこまで迫ってきている状況の今、爆発の経緯に悠長に耳を傾けている暇はなかった。
「あの、やっぱりすみません木兎さん」
「いやあそれがさあ!」
案の定こちらの都合などお構い無しに喋りはじめてしまった木兎さんの口はちょっとやそっとじゃ止まる気配のない勢いで動く。
仕方がないのでいっそこのまま静かに立ち去ってしまおうかなとも考えた、その時のこと。
「あ、木兎ー? 今日までに提出しなきゃいけないプリント、あと出してないの木兎だけだよ? 持ってる?」
一枚の白い紙が木兎さんの肩越しにヒラヒラとなびいたのが見えた。クラスメイトらしき女の人がプリント用紙をちらつかせながらこちらに向かって歩いてくる姿も。
「は! があぁあそうだったあぁあ! いやでも今日はちゃんと持ってきてっから! 待ってくれ今出す!」
途端、沸騰した湯のように叫びだし慌てて自分の席まで戻っていく木兎さん。そんな我がバレー部エースの背中を目で追いかけてる彼女の顔は、見るからに呆れている。
「赤葦悪い! 放課後にまたな!!」
こちらに向かってぶんぶんと両手を振り回す木兎さんとは対照的に、俺は胸の前に控えめに右手をかざすだけにとどめた。
木兎さんのクラスメイトが一斉にこちらに注目してもさほど気にならなくなったのは、木兎さんの隣にいると何かと目立つことが多いため視線を集める状況に慣れてしまったからだろう。
木兎さんは、一言で言えば『騒々しい人』だ。だというのに、彼がこの場所から姿を消すとやけに吹き抜ける風が強くなる。そんな気がしてしまうのだ。
そう、まるで、急激にhPaの数値が下降するかのように。
「あの、赤葦くんだったよね。お話の途中に割り込んじゃってごめんね。木兎っていつも
プリントを持った彼女が申し訳なさそうにこちらを眺める。残された俺を見て不憫に思ったか、もしくは、無意識に零れてしまったため息を聞かれたのかもしれない。
木兎さんがらみのため息は癖のようなもので、決して彼女に対してのものではないのだけれど。
「いえ、大丈夫ですよ。もう話は済んでいたので」
誤解を与えないようなるべくやんわり返事をすると、そう? とこちらを見上げて揺れた睫毛と黒目がちの瞳が笑んだ。
……あれ。
意表をつかれた。なぜか、そんな気になった。
hPaが急上昇していくように、漂う空気が緩やかになる。
風がやわらぎ、刻が、止むような。
「…それじゃあ、失礼します」
俺は彼女の口もと辺りに視線を向けてそう告げた。瞳を見ることには戸惑いを覚えた。こんなことは初めてだった。
予鈴の音が鳴り響く。
進級したばかりの春であっても、すでに何度か木兎さんの教室には訪れていた。けれど、木兎さんのクラスメイトに、あんな人、いたんだな。
去り際にもう一度教室の中を流し見る。
彼女の真っ直ぐに伸びた姿勢と艶やかな黒髪が、陽光に照り眩しく映った。
* * *
「赤葦くん、ちょっといいかしら」
放課後部室へ向かおうとしていた俺を呼び止めたのは、全学年の音楽の授業を受け持っている斎藤先生だった。
斎藤先生は目尻に薄いしわを刻んで微笑みながらこちらを見ている。
嫌な予感がした。とはいえ立ち止まった手前教師をスルーするわけにもいかず、俺はやむなく職員室へ手招く先生の背中を追いかける羽目になったのだった。
「これを第二音楽準備室へ運んでほしいの。準備室にあるテーブルの上に置いといてくれればいいから」
目の前に置かれたダンボール。開いた蓋からちらりと覗いた教材らしきテキスト。予感的中……重そうだ。
じゃあよろしくね、先生今から会議があって。
若干申し訳なさそうにそう言い残し、先生は忙しない足取りで職員室から出ていった。
抱えたダンボールを片膝に乗せ、危うい姿勢のまま音楽準備室の引き扉に手をかける。
普段はなかなか脚を踏み入れない準備室には、四方八方の壁際に楽譜や楽器がところ狭しと敷き詰められていた。
通路とおぼしき道は人がなんとかすれ違うことのできるぐらいの幅しかなく、なるべく楽器にぶつからぬよう中心にある大きな円形テーブルを目指して歩く。
「よし」
ようやくテーブルへと運び終え、制服を軽くはたいて入ってきたばかりの扉へ向かう。そんな俺の耳に、キン…と金属音のようなものが突いたことに、脚が止まった。
「……?」
音は隣の音楽室からだった。
誰かいるのか? と思った次の瞬間、俺は、これまでに感じたことないほどの音の波に拐われていた。
音色自体は、聞き覚えのある、馴染みのある楽器の音。のはずなのに、授業で聞くそれとはまるで違う生命を宿しているようななめらかさがある。
けれどそれは、所謂ポップな流行の音楽ではなく、クラシックの類いの曲調だ。曲名はわからない。
「……ピアノ?」
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