数ヵ月後、なまえの懐妊が発覚した。
胎動を感じるようになり、実弥も毎日我が子に向かって一言二言呼びかけた。腹の輪郭を実弥が撫でると、呼応するような優しい反応を返してくれる。
スミレも日に日に言葉を覚え、おぼつかない足取りでところかまわず歩み寄っていく愛盛りに一層と目が離せなってゆく。
いよいよ産気付いたなまえのためにお産の準備が施され、産婆を部屋に迎え入れるとなまえの表情にも安堵の色が浮かんで見えた。
スミレのお産にも従事した産婆は【
神のような手捌きで赤子を取り上げ、もののわずかもしないうちに出血のひとつも残さず部屋を整え去ってゆく。それが、琴という産婆である。
男はお産に立ち会うものではないと追い出される家も多くあったが、琴は『お好きになさいな』と実弥を払い除けることはしなかった。
スミレのお産時同様に、実弥はなまえの傍らに付き添い後産の処理と沐浴の介助を任された。
今回のお産は思いのほか時間を要した。難産と呼ぶにも近いものだった。なかなか降りてこない赤子を不安に思いはじめたなまえにも、しかし琴は露ほど狼狽することもなく、『ずいぶんと恥ずかしがりやさんな子なんねえ』と声をかけながら見事赤子を取り上げた。
なまえは疲弊しきっていたものの大事に至らず、赤子は元気に呱呱の声をあげ喜びに包まれた。
健やかな坊やですよと言った琴の声が、赤子の泣き声の狭間に光を灯した。
沐浴を終え赤子を抱いて戻ってきた実弥は、心なしかぼんやりしていた。
床に伏すなまえの傍らにゆっくりと赤子を添わせる。
なまえは愛おしそうに我が子を見つめ、ほろりと一粒の涙を流した。
「……産まれてきてくれて、ありがとう」
柔く微笑むなまえの顔と、産まれたばかりの我が子の姿。実弥は二人を順々にその目で追いかけた。
まだ見えぬ黒目がちな瞳をうっすらと開閉し、小さな口をぽっかりと開け、時折手足をぎこちなく、懸命に動かす我が子に唐突に目頭が熱くなる。
実弥は、思わず指先でまぶたを押さえた。
「実弥、大丈夫…?」
「…ああ、悪ィ」
「そんな、謝ることなんてないわ…。けど実弥、スミレが産まれたときにはすぐに感極まっていたでしょう? 今回は少し様子が違うみたいだったから気丈に振る舞っているのかと思っていたけれど…。気が緩んじゃった…?」
「それもあるが……こいつ、なかなか出てこなかっただろォ…。ガキにもお前にももしものことがあるんじゃねぇかと、正直、居竦んじまった……。鬼ブッた斬ってても怖ェなんざ思うこともなかったのによォ…。不甲斐ねェ」
「実弥…」
「琴の婆さんが一切動じてねェのが救いだった。俺ァ、お前の苦しみなら全部引き受けてやれると思っちゃいたが、こんなときばかりは指咥えて待ってるしかできねェんだよなァ……。つくづく、女ってのは凄ェもんだぜ」
目頭を押さえたまま淡々と胸の内を吐露する実弥。
冷静を保とうとする声音とは裏腹に、吐き出せば出すほど込み上げてくるものを塞き止められず、目尻の端から糸のような細い涙が頬を伝った。
「私も、琴さんには本当に救われたわ。同じくらい、実弥の存在も心強かった。実弥がずっとそばについて手を握っていてくれたから励まされたの。汗を拭ったり脚を揉んだりしてくれたのも覚えてる。いてくれてありがとう実弥」
なまえがおもむろに寝床から腕を差し出す。
実弥は、両掌でなまえの手を包み込み、祈るようにひたいに近づけ目を閉じた。
「お前は立派だなまえ。どれだけ讃えても讃えきれねぇし、感謝してもしきれねぇ」
実弥を見つめ、なまえは静かに首を振る。
「しばらくはゆっくり休め。スミレのことは俺に任せてくれりゃいい」
「ふふ。こんなに素敵な旦那様がいてくれて、私は本当に幸せ者だわ」
「……なに、言ってやがる」
はたと目を見開かせ、耳殻に熱が帯びたのを誤魔化すように、実弥はフイとなまえから視線を逸らした。
そのとき、ほわあ、と二人の間をたよりない声が滑り抜けた。
「ええ、ええ、そうね。あなたも懸命に外へ出てきてくれたのよね」
「あァ、おめぇもよく頑張ったなァ」
赤子の頭にそっと手を持ってゆく。
産まれたての赤子にしては毛量の多い黒髪だった。
優しく撫でると、赤子の目が実弥に向いた。ような気がした。まだ確かな認識もできぬ目玉はすぐにきょろきょろと定まらない動きをしだす。
「あ、そうだわ。産着は実弥の浴衣をほどいて作ろうと思っているの。いい?」
「ああ、好きに使え。柄は麻の葉のモンでいいのか?」
「そうねえ。スミレのときもそうしたし、縁起がいいから……少し勿体ないけれどそうさせてもらいましょう。実弥の浴衣はまた新調するわね」
「なら準備しておく」
「それにしても、やっぱりこの子は実弥に似てるわ」
「産まれたてじゃあ、まだわかんねェよ」
「そうかしら。目鼻立ちなんてそっくりよ」
実弥は眉尻を下げ微笑んだ。
赤子をこの手に抱いた瞬間、涙がでなかったのは気丈に振る舞っていたからばかりではない。玄弥が産まれたときのそれにあまりに似ていて、驚いたのだ。もちろん、赤子の玄弥の姿は幼い頃の朧気な記憶でしかない。我が子も成長してゆくにつれ、顔つきは変化するだろう。
なまえに似るのか、自分に似るのか、はたまた同じ血筋の誰かに似るのか。それはしばし時の経過を待たなければわからない。
「名前、早く決めてあげなくちゃね」
「先に決めておけばいいものを……顔を見てから決めてェなんざ頭が休まらねぇだろう」
「大丈夫よ。幾つか候補として絞っていたし、それにね、お顔を見た瞬間ピンときた名前があるの。あとは実弥に了承を得るだけ」
実弥はふぅんと鼻で頷き、なまえに頼まれ万年筆を手渡した。
「実弥、手を出してもらえる?」
「まさか俺の手に書き記すっつぅんじゃァねぇだろうなァ?」
「ふふ、当たり。都合のいい洋紙が見つからないし、私も身体を起こせそうにないから……ね?」
万年筆のかぶせを外し、お願い、と甘えてみせるように言うなまえ。一刻も早く実弥の反応を知りたいのか、まだ疲労の色を残した顔に差すほのかな朱から
仕方ねぇなァと、実弥は内心で声色を柔くした。
指先を天井に向け、相撲業の突きだしのような仕振りでなまえの前に掌を差し出す。
「すぐに消えちまうと思うぜェ?」
「それでも大丈夫。まずは実弥に確認だけでもしてもらいたいの」
正式に名前が決まれば、のちに林道が命名書に書き記してくれることになっている。
筆先にくすぐられるこそばゆさを我慢することひととき。なまえが満足気に書き終えたのを確認し、実弥は掌をくるりと回した。
刹那、実弥の目に飛び込んできた文字がゆらりと浮かび上がったような気がした。
「……どう、かな?」
しばし黙然と掌を見つめていたことろへなまえの声が滑り込む。ハッとして視線を上げれば、目尻の端の景色が滲んだ。
もう一度目線を落とし、今度は横たわる小さな拳に人差し指を持ってゆく。儚い力で大人の指先を掴みとってみせる我が子のそれは、赤子の反射行動だとわかっていても生命のまばゆさを感じずにはいられなかった。
時折、眼前に広がるこの光景はすべて幻なのではないかという思いに駆られることがある。
木漏れ日の中で微睡むような、穏やかな日々。人並みの、ありふれた幸福。心満たされる夢を見ているのだと。
己に与えられた生を咀嚼し、尊さを噛み締めながらここに立っていることには違いない。しかし同時に、己が当人である事実をすぐさま実感し得ない感覚に陥る。
なにが夢で、なにが現実か、時の間
長年鬼狩りとして生きてきた過去がいまだ無意識の場所に深く根付いて、真夜中に布団から飛び起きてしまう現象にもそれは顕著に表れていた。
そんな日々を過ごしているせいもあるのか、ふと遅れて押し寄せる多幸感は制御することが困難で、実弥の心髄をいたく締めつけるのだった。
玄弥を、想わない日はない。生きてくれていたらどんなにかよかっただろうと思う。
誰に話すでもないが、無惨という怒りの矛先が消え失せた今、玄弥を守りたい一心で貫き通してきた覚悟がすべて正しかったかといえば嘘になる。
数知れずほどのものを失った。多くの仲間の命と引き換えに成り立つ
匡近の最期の言葉も、玄弥の願いも心に刻んで生きてゆくことを決めた日。
なまえとて同じだろう。なまえもまた時に眠れぬ夜を過ごしていることを知っている。
そんな日は、縁側に腰掛け二人して夜空を眺めた。互いに言葉を紡ぐことはなかった。ただ、繋ぐ手に生まれるあたたかさを心に注ぎ閉じ込めた。とはいえ、自分たちばかりが喪失感を抱え生きているとも思っていない。それはきっと鬼殺隊に限ったことではないはずだから。
形は違えど、誰もがなにかしらを抱えて生きているのだと思う。皆、表には見えぬ苦悩や憂いを抱えているのだろうと思う。
それでも、生きてゆくのだと。
なにひとつ失わず、幸福に満たされるばかりの人生ではそれが幸福だと気づくことさえできやしない。
そう、己の心を掬い上げて。
「……『玄優』か」
実弥は微笑んだ。
我が子たちは、この先、どんな風に成長しどのような道を歩むのか。親として、最大限できることはしてやりたい。さりとて笑顔でいられるばかりの人生を送ることは困難だろう。
時に苦い思いを味わい、涙にくれる日も訪れるに違いない。
そんなときは伝えよう。手を握り、力いっぱい抱きしめよう。
父ちゃんと母ちゃんは、どんなことがあってもお前たちの味方だと。
(なんて、気が早ぇかなァ)
我が子たちの未来の姿を思い描き、実弥は先走る思いに苦笑を浮かべ鼻の下を軽く擦った。
「いい名だ」
涙は、零れ落ちるすんでのところでどうにか堪えた。