湯浴みを済ませ寝間へ戻ると、実弥は片ひじをついてスミレの傍らに寝そべっていた。
「あ、スミレ寝ちゃった···?」
「つい先刻なァ。今日はずいぶんと早かった」
物音をたてぬよう気遣いながら、「寝かしつけてくれてありがとう」 礼を言い障子を閉める。
「宇髄さんたちがいらしてくれたおかげですごく楽しそうにはしゃいでいたものね。お昼寝の時間も少なかったし、このまま朝までぐっすり眠ってくれるといいんだけどな」
「昨晩はちと愚図ったからなァ」
赤子用の布団の上で穏やかな呼吸を繰り返す我が子の腹には、実弥の掌が添えられていた。きっと、スミレが寝付くまで"トントン"してくれていたのだろう。
おもむろに身体を起こした実弥の隣に、なまえもそっと腰をおろした。
「可愛い寝顔」
「どんだけ眺めてても飽きねェな」
「本当、どうしてこんなに可愛いのかしら」
「どいつもこいつもすっかり親馬鹿になっちまいやがって」
「ご多分に漏れず実弥もね?」
「まァ、大差はねェなァ」
「どこのお家も似たようなものだと思うわ」
ふふふと、なまえは肩を揺らしてわらう。
スミレが眠りについた後、こうして愛娘の寝顔を眺め語り合うのが二人の日課となっていた。
「目鼻立ちは日に日になまえに似てきやがる」
「父様や婆様もそう言うの。スミレは赤子の頃の私にそっくりだって」
「······さぞかしべっぴんになっちまうんだろうなァ」
「···それって、実弥の目には私もべっぴんさんに見えているってこと?」
不意にぽつりと呟くように言った実弥の言葉を、なまえは聞き逃さなかった。
傍らからひょいと実弥を覗き込む。すると、実弥が即「まずった」というような表情をした。
実弥はこれまで、面と向かってなまえの容姿を褒め立てた試しがない。以前、浴衣を着て出向いた縁日で『綺麗』だと言ったものしのぶが水を向けてのことだし、祝言を挙げたときでさえ、身仕舞いを終えたなまえを前に『···いいんじゃねェか?』と言ったきり。
みょうじの親族が、『なまえちゃんとっても綺麗だわあ! ねえ、実弥さん!』と促したところでようやく『はい』と肯定してみせた程度である。
実弥は不器用で照れ屋な面もあるけれど、家族をとても大切にしてくれている。営みはスミレが生まれてからも変わらずあるし、時折愛おしむような言葉を紡いでくれることもある。それでも、ふとしたときでいい。例えば髪飾りを変えてみた日や、普段よりも念入りに化粧を施してみた日など、気づいてもらえるだけでもいい。頻繁でなくても構わない。
「んなもん、別にかしこまって言うことでもねェだろうがァ」
小恥ずかしさを隠しきれない様子でそっぽを向いてしまう実弥。こういうことになると相変わらずである。
「かしこまってもかしこまらなくても、好きなひとから綺麗や可愛いと褒められるのは女性にとっては嬉しいものなのよ。どんな小さなことでも」
「···そういうもんなのかねェ」
実弥からは今ひとつぴんとこないような返事が返り、なまえは少々しょんぼりしながら寸刻唇をへの字に結んだ。
(薄々思ってはいたけれど、実弥は私の見目形にさほど興味がないのかしら···)
もちろん、人は決して見た目ではない。だとしても、愛するひとからまるで興味を持たれないのもまた寂しいものである。
どんなに拙い褒め言葉でも、実弥から紡がれるそれは何にも変えられない喜びの源だ。
そんなことを言ったら、実弥はますます顔をしかめてしまうのかもしれないけれど。
「オイ······んな大福みてェな膨れっ面してむくれてんじゃねェ」
「んぅ」
実弥の指に頬を挟まれ、なまえの唇からぷすりと間の抜けた音がした。刹那、なまえは顔を熱くした。頬を膨らませていたことにはまるで無自覚だったからだ。加えて実弥の顔が目と鼻の先にやってきたものだから、至近距離から子供じみた音を聞かれた恥じらいが倍増する。
実弥が煽て下手なのは今にはじまったことじゃない。別段肩を落とすほどのことでもないのに。
「······大福は、言いすぎじゃないかしら」
眉尻を下げ、なまえは唇を尖らせた。
膨れっ面になっていたことは認めざるを得ないけれど、いくらむくれていたといっても大福と言われるほどの大袈裟な膨れっ面はしていなかったはずだもの。
口から抜けた空気の音だって、
小さかったし───···
ぽつぽつと内心で御託を並べているうちに、ふとあることに気づいたなまえは唐突に目の前が開けたような心地になった。
"それ"が意外にも腑に落ちて、一転。
「───···ふふっ」
頬が綻ぶ。
「なんなんだよ···。へそ曲げちまったかと思えば笑い上戸になりやがって」
「ごめんなさい。なんだかおかしくなってきちゃって······私、きっとスミレに"やきもち"を焼いてるんだわ」
「やきもちだァア?」
「ちょっぴりね、羨ましいなって思ったの。スミレのことが」
「···何言ってんだァ」
「だって、スミレは四六時中無条件で実弥に可愛がってもらえるんだもの」
こてん、と肩にもたれかかると、穏やかに息をついた実弥の腕がなまえの肩に回された。
「あーあァ、困ったもんだぜぇ。なんでうちの嫁ァ、こうしてたまぁに甘えたになってみせるかねェ」
「ふふ、だめ?」
「どうした疲れちまったかァ? 朝から張り切って豪勢なもん作ってくれてたもんなァ」
ポンポン。頭頂に響いた優しい音に身を委ね、まぶたを閉ざす。
肩の感触。ほのかなぬくもり。息遣い。
実弥から醸し出されるすべてがなまえには心地よく、次第にそれは『スミレの母である』という固い結び目を今宵もすっと緩めてくれる。
「どうだった? 今日のお料理」
「どれも旨かったぜェ? 宇髄たちも褒めそやしてくれたろう」
「私はほとんど婆様のお手伝いをしただけなの。けど、スミレもあっという間に成長して色々なものを食べられるようになっていくし、もっと頑張らなくっちゃって思って」
「お前は十分よくやってる。あんま気張り過ぎんなよォ?」
「ううん、それは大丈夫。実弥がまめにスミレの面倒を見てくれるから、毎日こうして湯浴みだってゆっくりできるし······いつも本当に感謝しているわ。ありがとう、実弥」
流れるように交わし合った口づけは、とても優しいものだった。
(ああ···やっぱり今日は少し張り切り過ぎちゃったのかな)
実弥の胸により深く顔を埋め思う。こうして実弥と抱き合うと、離れるのが惜しくてたまらなくなるときがある。時間の許す限り、いつまででも実弥と触れ合っていたくなる。
だから、昼夜場所を問わずに実弥に愛でてもらえるスミレのことを、素直に羨ましいと感じてしまったのかもしれない。
そんな自分が滑稽で、なまえは胸の内で苦笑した。
「なまえ」
「なあに?」
「···俺ァ······お前を綺麗だと思わない日は無ェ」
実弥の胸もとが緩やかに上下する。
なまえは一瞬、実弥がなにを言ったのかわからず呆けた。というよりも、実弥の言葉が正確な形を成してなまえの鼓膜に収まるまでの寸刻、声音がゆらゆらと脳内で反響し、ぴたりと一致しないような感覚に陥っていた。
「っ、」
持ち上げかけた視線の先が、すぐにまた胸もとに埋まる。否、少々強引に押し戻された、と言ったほうが正しいだろうか。
後頭部を抑え込んだ掌に、『見んじゃねえ』という圧が加わったのがわかった。
「早朝の、空眺めてる姿とかよ······庭先や門まわりに水撒いてるときの佇まいなんかにはつい目が向いて、見惚れちまうくれェだ」
「や、やだ、そんな風に見ていてくれたなんて、全然知らなかった」
「たりめェだ。逐一報告なんざしねェ」
「気を遣って褒めてくれてない···?」
「ハァ? んなことにわざわざ気ィまわしたりすると思うかァ? 俺がァ」
赤面しながら遠慮がちに首を振る。
実弥は裏表のないひとだ。そのうえ他人に良く見られようという欲もないから、上面だけの言葉を口にすることもない。故に、ぶっきらぼうだがまっさらで濁りがなく、芯のある実弥の言葉に嘘偽りはないという確かな実感が徐々になまえを満たしていった。
「そりゃあ、スミレは愛らしくてたまんねェぜ? お前と俺の子だからなァ。だが、お前は俺が、······唯一惚れた女だろうがよォ」
面映ゆさがひしひしと伝播する。それでも懸命に言葉にしてくれる実弥が、とても愛しい。
「···ありがとう実弥。すごく嬉しい」
なまえは、猫が家主に甘えるように実弥の首筋に頬擦りをした。
──好き。好きよ。大好きよ。
湧き上がる想いを胸の内で囁きながら、果たして自分はどれほどの言葉を持ち合わせているのだろうかという歯痒さのような思いが巡った。
夫婦になっても、家族が増えても、色褪せることのない気持ち。
膨らむばかりの恋慕は時に言葉では追いつかなくて、募るもどかしさは今宵も熱になってゆくばかり。
口づけを頬に乗せれば、実弥の身体がぴくりと揺れる。
この唇は、愛の言葉を知らなすぎるのだとなまえは思う。
「───···愛してる」
微笑みかけると、実弥もまた慈しむようなほのかな微笑みをなまえに返した。
「······先、超されちまったか」
他人の耳に触れたら少しだけ恥ずかしい、とりとめのない会話だ。それでも実弥と交わす睦言は、まるで花言葉の意味をはじめて理解したときのような喜びに似ていると思った。その一方で、愛おしさを証明する言葉にはどうにも限界があるのだということを、なまえは事あるごと思い知らされるのだ。
「あのね······実弥のココ······触っても、いい?」