「本当に今日は家に来ないの?」
ハンドルを握り締めたまま、助手席に座る私に向かって恭平さんが瞳を向ける。
この質問はこれで三度目。
さっきからお断りをしているものの、彼は納得できないご様子。
確かに、ここしばらくは家への誘いを断ってばかりいるから、恭平さんが眉をひそめたくなるのもわかる。
それでも気持ちは前向きにはならない。
まるで永遠にも思えるやり取りに困り果て、私は再度「ごめんなさい」と口にした。
「まだ色々と片付けたいこともあって」
「俺、なまえが日本に戻ってくるの本当に楽しみにしてたんだ。大変なこともあるだろうけど、俺に出来ることなら手伝うし、もっと頼ってよ」
「…落ち着いたら、連絡するね」
「…それこの間も言ってたよ」
恭平さんの怪訝な視線に耐えきれず、思わず下を向いてしまう。
彼、恭平さんと出会ったのは、二年と少し前のこと。
まだウィーンにいた頃だった。
彼はひとりで旅行に来ていて、私は友人とレストランで食事をしていた。その時に声をかけられた。
『日本人を見つけて嬉しくなってしまって』
恭平さんはそう言っていた。
話をしているうちに自然と連絡先を交換し、彼が日本へ帰る前日、私のリサイタルへと招待した。
恭平さんが帰国してから数日後、日本からパソコンにメールが届いた。恭平さんからだった。
『君のことが忘れられない』
そう、一言。
パソコンの画面に文字が浮かび上がっていた。
それから彼は一年間、何度かウィーンに来てくれた。日本で幾つかの飲食店の経営をしている彼は、時に実益を兼ねた仕事でこちらに来ることもあった。
ある時私が、『日本の梅干しが恋しい』と話したら、段ボール一箱分の梅干しを『お薦めなんだ』と送ってくれた。
それがとても可笑しくて、でも彼のその優しさが嬉しくて、何度か会っているうちに心惹かれていることに気付かされた。
その頃、約一年後に帰国することが決まっていた私は、彼の交際の申し込みを受け入れた。そして一年間はまた彼が何度かウィーンへ足を運んでくれる形の遠距離が続き、ようやく先日、私は彼のいる日本に帰国した。
けれど、私は日本に帰って来てから知ってしまった。
「お互い仕事も忙しいけどさ、だったら尚更会えるときに会いたいんだ。……好きだよ、なまえ」
恭平さんの唇が、私の唇にそっと重なる。
私はそれを受け入れる。
何度か重ねるだけのキスをした後、舌先が唇の隙間から這うように侵入してくるのを、私は拒んだ。
嫌だ、と思った。
「どうしたの? ……嫌?」
「ごめんなさい…。そういう、気分じゃなくて」
そういう気分じゃないというのは、都合が良くて、少しだけずるい言葉だと思う。
明確な理由は要らない。曖昧で、だけども確実に相手を拒めてしまう一言。
言われた相手は大抵、戦意を喪失してしまうのだ。
若い頃には抑えきれない衝動というものがあったとしても、ある程度の年齢を重ねた大人の理性はスッと引き戻されてゆく。
少なくとも、今私の目の前にいる彼はそういう風に出来ている。
「…赤葦くんてさ、」
「え…?」
「なまえの持ってるシルバーのシャープペンシルくれた子だろ?」
恭平さんの口から京治くんの名前が出たことに、胸の内側を後ろめたさのような想いが巡った。
「私、話したことあった…?」
「うん。出会ったばかりの時かな? とても大事なものだって」
信じられなかった。話したことも忘れるくらい、自然に恭平さんに話をしていた。
本当に、京治くんのことは良い思い出だったんだ。
──あの時は。
「……今日は帰るよ」
言いながら、恭平さんは少しだけ寂しそうに微笑んでいた。
それ以上はなにも言えなくなってしまった私を見て、そっと離れる。
また連絡するからという言葉に頷き、私は車体の白が見えなくなるまで去っていく彼を見続けた。
今は、何を信じれば良いのかも、自分の気持ちさえもよくわからない。
恭平さん、どうしてそんな、寂しそうな顔するの?
だって私は知ってるんだよ?
あなたには私の他にも
付き合っている
追憶の音が揺蕩う②
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