「け~じくん、わたしはひとりでもだいじょうぶですので~」
「そんなフラフラした足取りで大丈夫なわけないでしょう?」
「あかーしさん…! らいじょうぶれす…! 僕がちゃんとなまえさんを送り届けマスノデ! マネージャーれすから…!」
真っ赤な顔で舌も回らない盛川さんはもはや役に立ちそうもなかった。
本人はなまえさんを支えているつもりなのだろうが、どちらかが転べば共倒れになってしまいそうな危うさがある。
仕方なく、俺は盛川さんの反対側からなまえさんを支えた。
ふたりはあの後、少々お酒をたしなんだ。
文字どおり少々……ほんの少しの量のお酒だったにもかかわらず、この状態である。まさか揃ってお酒に弱かったとは。
とりあえず、と捕まえたタクシー。
なまえさんよりかは足取りもしっかりしている盛川さんは運転手に任せ、一人で帰すことにする。
問題はなまえさんだ。
カクテル二杯しか飲んでいなかったはずなのに、弱すぎやしないか…。
「なまえさん、タクシー来ましたよ。ほら乗ってください。俺送りますから」
「だからね、ひとりでだぁい」
「大丈夫じゃないですから」
こうしてようやく俺達はふたりでタクシーに乗り込んだ。
まだ会話のできるうちになまえさんの口から運転手に住所を告げてもらう。しかし俺にはなまえさんの言う住所がうまく聞き取れなかったので、顔色ひとつ変えずに車を発車させたタクシーの運転手には尊敬の念を抱いた。酔っ払いの客の扱いには慣れているのだろう。
「なまえさん、気分はどうですか?」
「ん~きぶん? はいいよ~? だって京治くんにあえたもーん」
「そうですか。良かったです」
……駄目だ、発言が既に酔っぱらいだ。
とりあえず今は話を合わせよう。
「ねーねー、けーじくんは? けーじくんはわたしにあえてうれしかったぁ?」
「……嬉しかったですよ」
「けーじくん、大人になっちゃったねぇ」
「なまえさんは今、子供みたいですけどね」
「なにいってんの、わたしはこどもじゃないよ~」
……なんだこれ。会話がおかしい。
今日のなまえさんは、木兎さん並みに手がかかる。
マンション前に到着し、タクシーを待たせてなまえさんを部屋まで送り届けることにした。とてもじゃないがここで「はい、さようなら」と放り出せる状態ではなかった。
おぶろう。
そう決意し、力ない身体をゆっくりと背中に乗せる。
なかなか手こずらせてくれる彼女にタクシーの運転手も見かねて手助けしてくれた。
オートロックを解除し開いた自動ドアを抜けると、大理石調の床の続く華やかなエントランスが目の前に広がる。
「おかえりなさいませ」
このマンションには二十四時間コンシェルジュが控えているらしい。
かっちりとした黒のスーツに身を包んでいる女性の首もとには艶のあるスカーフが巻かれていて、ホテルのフロント係のようだ。
無言でお辞儀を返すと微笑みが向けられる。
この状況、この人はどう見ているのだろう。
特に怪しまれている様子はないが、念のために事情を説明して許可を得る。
セキュリティ万全のここには多くの音楽家が居住しているらしく、いわば音楽をやる人のためのマンション、といったところだろうか。
エレベーターに乗り込み、彼女の部屋がある階で降りると背中の上から「う~…ん」と小さな声が聞こえた。
「なまえさん、部屋に入らせてもらいますよ?」
「…う~ん? どうぞ~」
肩から耳に流れてくる甘い声と甘い匂い。
背に伝わる柔らかな感触と、彼女を支えている手が熱い。
タクシーを待たせておいて良かったと、心底思った。その事がより理性の崩壊を制御してくれる。
玄関扉を開け一直線。リビングらしき場所へと向かう。
防音設備の施されたタワーマンション。リビングは広々としていて温かみがあり、越してきたばかりなのか真ん中にL字型の白いソファがひとつだけ置かれていた。
ソファへと向かい、なまえさんを下ろして寝かせる。
迷ったが、さすがに寝室へは入れなかった。
「ん…」
小さく漏れた声に引き寄せられて、瞳を綴じたなまえさんの顔に視線が落ちる。化粧をしていないせいか、どこか幼さを残している顔。
高校時代の面影を纏うなまえさんが、俺を七年前に引き戻そうとしてくる。
「……ん~、けーじくん、ここどこ?」
「なまえさんの家ですよ」
「ほんとーにおくってくれたんだ~。けーじくん、やっぱり優しいねぇ。さっきはちょっと、いじわるになったと思ったけど~」
「?」
なんのことだ?
そう思った直後、打ち合わせの席で七年前の花火大会を話題に出したのだったと思い出す。
「別に意地悪というつもりでは……。そういうところも含めて大人になったんじゃないですかね、きっと」
「え、~? 大人になるって、いじわるになることなの~…」
なまえさんは相も変わらずのんびりとした調子で喋り続ける。
甘い香りに視界が眩んだ。なんてことはない言葉や仕草、ソファにぱらりと広がる艶髪にさえ、思考回路がじりじりと乱されていく感覚に襲われる。
「……なら、もっと、意地悪なことしましょうか」
その問いかけに返事はなく、俺は人差し指をなまえさんの頬にそっと這わせた。
「……何でこんなに無防備なんだよ」
誰の前でもこんな風になっちゃうんですか? 今ここにいるのが俺じゃなくても? これ絶対ダメなやつでしょう?
徐々に苛立ちにも似た感情が湧く。なぜこんな気持ちになるんだという想いに明確な答えはでないまま、ソファの背もたれに手を添えながら、俺はゆっくりとなまえさんの顔に自分の顔を近づけた。
心臓が、どくん、と波打つ。
「……知りませんよ、どうなっても」
思い知ればいい、と思った。いくら昔の顔馴染みだからといって、簡単に男を部屋に入れるなんて。
唇と唇が、ほんの数センチの距離にまで近づいた──…そのとき。
スー…、スー…と、無音空間に針を通したような彼女の寝息が鼓膜を突いて我に返った。
至近距離にある長い睫毛に呼吸が止まる。
「───···」
……なに、やってんだ俺……。
「あ、ぶな」
なまえさんから距離を取る。自分が何をしでかそうとしたのかの記憶が曖昧で、無事を確かめるように掌で口元を覆った。
こんなことするつもりなんて、全然なかったのに…。
「……あ、」
そういえばタクシーを待たせていたのだったと気づき、腕時計に視線を向ける。
部屋の鍵はどうしたらいいだろう。いくらセキュリティがしっかりしているといっても、眠ったままのなまえさんを残して部屋を開け放しておくわけにもいかないし。
『鍵はコンシェルジュのかたに預けておきます』
近くにあったメモ用紙とボールペンを手に取り、俺はそう残して彼女の自宅を後にした。
誘惑のミスト
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