人もまばらな早朝のオフィスは、昼間の忙しなさが嘘のように静謐なひとときを味わえる。
ちらほらとすれ違うカジュアルな服装の社員はクリエイティブ部門の関係者だろう。彼らは泊まり込みで仕事をこなすことも少なくない。
疲労を覗かせる顔にお疲れ様ですと声をかけ、俺はまだ自分のデスクに腰を落ち着ける気になれず、休息場所に赴いた。
窓に面した長テーブルに手帳を広げ、バーにあるような脚の長い丸椅子に腰掛け、コーヒーでひと息つく。
「よぉ赤葦、久しぶりだな」
「黒尾さん」
そこへやってきたのは、かつて赤いジャージを着ていた"猫"だった。
なんの縁があってか俺は黒尾さんと同じ会社に就職した。
高校時代、同じ梟谷グループだった音駒とは合宿などでよく顔を合わせてはいたものの、一年先に卒業した黒尾さんと俺はそれぞれ別の大学に進学。
特別親しい間柄でもなかった黒尾さんがどこへ就職したのかは不明のまま、インターンシップでここを訪れた際彼がここの社員だと知った。
「うーわ、赤葦のスケジュール帳すげぇな~。びっしり書き込んであるじゃねぇか」
隣の椅子に腰掛けた黒尾さんが、スーツの内ポケットから煙草とライターを取り出した。
よくライターをどこかへ置き忘れてしまうという彼のそれはコンビニなどでも気軽に購入できる使い捨ての物。
昨日見かけたものとはまた違う白いライターに指をかけた黒尾さんは、口にくわえた煙草の先を着火口に当てがった。
まさかここで吸う気ですか?
「黒尾さん、ちゃんと喫煙ルーム行ってください」
促すと、黒尾さんの動きがピタリと止まる。
「ですよね~、すみませんでしたー」
少々億劫そうに立ち上がり、唇に煙草を咥えたままそばにある喫煙ルームへ歩き出す黒尾さん。
いくら朝早い時間で人がいないからって、禁煙場所で煙草を吹かそうなんて横着はいけません。
「あ、そーだ赤葦」
名前を呼ばれてスケジュール帳から顔を上げると、黒尾さんは咥えていた煙草を一旦指に戻して続けた。
「今度青春堂から出る化粧品のプロジェクトなんだけど、営業はお前の名前が挙がってたぞー。もし決まれば一緒のチームで仕事出来るかもネ」
「…それ本当ですか?」
「疑いの目で見るな。嘘ついてどうする。俺はもうクライアントから指名うけてるからプロジェクトには参加することになっててさ、なんならお前のこと、推しといてやるよ」
愉快そうにニヤリと笑い、黒尾さんは喫煙ルームの自動扉の奥へと吸い込まれていった。
メディア部に所属している黒尾さんは、業界関係者にも顔が広い。クライアントからもいくつか指名を受けるほどの有能な人だ。
かつて面倒くさい曲者と言われていた【食えないタイプの策略家】は、仕事でも数々の業績を残している。
社内のバレーチームに誘ってきたのは黒尾さんで、経験者は有無を言わさずチームに放り込まれるというシステムになっているらしかった。この会社は割りと体育会系のノリが定着していて、上下関係もはっきりしている。
黒尾さんのいるチームのプロジェクトということはかなり大きな案件である可能性が高い。もしも本当に黒尾さんの言うプロジェクトに参加できるのならとても光栄なことだと思う。
「赤葦」
午前のプレゼンが終了した後のこと。
新入社員として
『本田さん』は俺の大学の先輩でもある。
入社一年目は彼のサポートについて学ぶことが多かったため、いつしか仕事終わりによく飲みにも行く間柄になった。
「お前がまとめといてくれた今日の資料、すげぇ分かりやすかった! おかげでプレゼンもスムーズに出来たよ。 ありがとな」
「いえ、お役に立てたのなら良かったです。プレゼンお疲れ様でした」
童顔を綻ばせる本田さんにぺこりと小さく頭を下げる。
「赤葦ー、本田ー」
忙しないフロアにしわがれた声が響いたのはその直後のことだった。
巨大な窓から見渡せる空を背に、上司がこちらに向かって手招きをしている。
デスクのパソコンに目を向けたまま"おいでおいで"と力なく揺れる手首は上司のゆるい性格を物語っているようだ。
「冬に青春堂から発売される新商品のプロジェクトなんだが、営業は赤葦でとの声をいただいた」
パソコンから顔を上げ、のんびりとした口調で上司は言う。
四十七階建ての本社ビル。その三十三階のフロアから見える窓の外の景色には、様々な企業のビルが散在している。
ここはオフィス街といわれる場所である。
見慣れた景色を一瞥し、俺は再び椅子に座る上司へと視線を向けた。
青春堂。大手の化粧品メーカーだ。黒尾さんの言っていたプロジェクトとはおそらくこのことなのだろう。
本田はどう思う? と、上司は本田さんにも意見を訊ねた。
「はい。僕ももう赤葦は単独でも大丈夫だと思います。クライアントや得意先からも評判良かったですし」
本田さんの評価を内心で恐縮しながら謹んで噛み締める。
実際は、本田さんが積極的に俺を紹介してくれたおかげでもあるのだ。
この仕事に限ったことではないのだろうが、クライアントの中にはかなり癖の強い人もいて、自分一人では気後れしてしまっただろう相手が実は何人がいたりする。
「赤葦はどうだ? やれるか?」
最終的に上司は俺に決断を委ねた。
答えは当然『イエス』しか浮かばない。けれど現在進行形で本田さんと取り組んでいる仕事が中途半端に終わってしまう。そのことが気がかりで、俺は本田さんに視線を配った。
本田さんは、俺の思いを見透かしたように微笑みながらうなずいた。
大丈夫だから、がんばれ。そう言ってもらえている気がした。
赤葦ならやれる。
ミスをしたときなどによく励まされてきた彼の言葉を思い返す。
「はい。やります」
俺は改めて上司の目を見て
胸の高鳴りは隠せなかった。
猫はわらう
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