滑らかで巧みな筆遣いが心地いい。
まばゆいライトに照らされて、
「なまえちゃん色が白いから、ピンクがスゴくよく似合う」
「本当ですか? そういうピンク、自分で使うには難易度高くって」
「これ、お肌に乗せると見た目よりも濃くならないの」
そう言った松崎さんのハスキーな声を、目を閉じたまま音だけで拾った。
私と同じ年齢だと言うヘアメイクの松崎さんは、細長い手脚に切れ長の目が印象的で、アジアンビューティーというのだろうか、マットな赤い口紅も様になるアンニュイな雰囲気が大人びていて、初対面で微笑みかけられた時は同姓ながらもドキドキしてしまったくらいだ。
そんな松崎さんにおだてられ、照れくさい気持ちでゆっくりと瞼を開く。
「わ…」
思わず瞬きの回数が増した。
どちら様でしょうかと目の前の鏡に向かって話しかけてしまいたくなるほどに、普段の自分よりもぐっと華やかになった別人のような姿がそこにはあった。
「すっごく可愛い。撮影がんばろうね」
「はい。ありがとうございます」
メイクボックスを簡単に整理した後、松崎さんはちょっとスタジオに用があるからと言って一旦控え室から出ていった。
ジャケット撮影当日。スタジオ入り。
昨夜は緊張のせいでなかなか寝付くことが出来なかった。
このところ乾燥も気になるし、ファンデーションのノリに不安があったまま楽屋入りしたけれど、さすがはプロのメイクさんだ。クマなどの難もしっかりとカバーしつつ、とても良い質感のツヤ肌が造り上げられている。セルフメイクではこうはいかない。
「…待ち時間てあとどのくらいなんだろう」
天井を仰いで呟いた。
一人になった楽屋には再び静けさが舞い戻り、しんとした空気に押し潰されないようなんとなく声を出すことで気を紛らわす。
そういえば、京治くんはもうスタジオにいるのだろうか。
昨晩、「明日はよろしくお願いします」とのメッセージが届いた。
顔を合わせるのはあの打ち上げの日以来。
会いたい気持ちがある一方で、自覚したばかりの恋心がなかなか落ち着きを取り戻してくれない。好きという気持ちが顔に出てしまうのではないかとか、京治くんと普通に接することができるのかとか、あれこれと自信がなかった。
胸に手を当て、息を吸って、吐く。
てのひらに人という文字を書き、飲み込む。
気管を通過した空気が胃腸の辺りでくぅと鳴いた。
知っている。こんなことで緊張は和らいだりしない。
鏡に映る自分の姿をもう一度じっと見る。自分でするメイクとなにが違うんだろう。そう間違い探しでもするように、角度を変えて見てみたり、目を細めてみたりする。
アイシャドウのグラデーションがすごく綺麗で、後で松崎さんにどこのものか聞いてみよう、と思った。
その時、楽屋のドアをコツコツコツと三回叩く音がした。
「っ、はい…っ」
慌てて鏡から身を離し、急いで楽屋のドアを開きに行くと、真っ先に飛び込んできたのはネクタイのストライプ柄だった。
「オヤオヤ? どちら様ですか?」
「……覚えが無いようでしたらお帰りください。黒尾くん」
「ははっ、冗談だよなまえちゃん、お疲れ」
目線を上げた瞬間に、黒尾くんが驚いたように目を見開いたのがわかった。そしてすぐに悪戯っぽい笑みを浮かべてからかってくる。それなのに直後の笑顔が心なしか柔らかな雰囲気で、私は少し戸惑いながら黒尾くんを楽屋の中へ通した。
黒尾くんと顔を合わせるのも、あの日の夜以来だ。そう思い出すと、どう接したらいいのか、意識しないようにしても正解を手探りするような距離感が出てきてしまう。
「えっと…黒尾くんなんでここに? 今日来る予定だった?」
「ん~? いーや? 近く通りかかったから寄ってみただけ」
そんな私とは対照的に、黒尾くんは普段通りの口調で「コレ差し入れ〜」と言い、先日テレビで見た恵比寿の洋菓子店のロゴが入った手提げの紙袋を中央にあるテーブルにそっと置いた。
お礼を言って、ソファに座るよう黒尾くんを促す。
「黒尾くん何か飲む? 確かコーヒーとか紅茶があったような」
盛川さんがポットやティーパックの在る場所を説明してくれていたのだけれど、途中彼に急な呼び出しがあり慌ただしくなったので正確な場所があやふやだった。とはいってもそれほど広い楽屋じゃないし、用意されているものも限られている。適当に探していれば見つかるはずだ。
「あー、俺やるから、なまえちゃんは座ってて」
「え、でも」
ウォーターサーバーのあるほうへ歩き出そうとした私に代わり、黒尾くんが手際よく棚からポットを取り出す。
「それ衣装だろ? キミ何かヘマして汚しそうだから、大人しく座ってなさい」
「すみません…」
したり顔にも似た笑顔を見せた黒尾くんに有無を言わさぬ状況を作り出されてしまった私は、観念してさっきまで座っていた椅子に仕方なく腰かけた。
流石は手慣れていらっしゃる。
「ん、お待たせ」
「ありがとう」
リクエストした砂糖無しの温かな紅茶を受け取り、一口ゆっくりと口に含む。
緊張で冷えていた手足がほんのりとほぐれていくような感覚がした。
「……あれ? 黒尾くんは飲まないの?」
真横にある椅子を引き、私と対座した黒尾くんは自分のための飲み物を持っていなかった。
「俺は別の仕事でもう行かないとだからね」
「そうなの? なら無理して寄ってくれなくても良かったのに」
思わず、ふふっと笑ってしまう。
更に一口紅茶を啜る。その時、ふと視線を感じて目線を上げた。
片肘をメイク台の上に乗せ、そのてのひらに自分の頬を預けながらこちらを眺めている黒尾くんと目が合う。
ドキリとした。
「……会いたかったから来たんだけど」
ほのかに微笑んでいる黒尾くんを見て、顔が赤くなっていくのがわかった。
口元で持っていたカップからの湯気が赤面を加速させてくような気がして、目線と一緒にそれごとゆっくりと手を下げる。
どうしよう、と思う。
なんて返したらいいのかわからなくて、呼吸をする度微かに波打つ紅茶を見つめて黙っていると、黒尾くんの長い指がゆっくり私の髪の毛先を摘まんだ。
「今日、なんか髪フワフワしてんな」
「……うん。メイクさんが巻いてくれたの。私普段めんどうくさくて巻いたりしないから、自分でもなんか新鮮」
「なまえちゃんてたまに残念な発言するよね」
「ざ、残念? え、どこが?」
「まあ別にいいんじゃないデスカ?」
「答えになってませんけど…」
嫌味のない手つきで毛先を遊ばせる大きな手。髪に伝わる振動が頭を擽る。
困るのに、黒尾くんの雰囲気が、それを拒絶させない。きっと、自然とこんなことが出来てしまう黒尾くんはさぞおモテになるに違いない。
コンコンコン
「はい…っ」
ドアをノックする音がして、驚いた私は反射的に返事をしてしまったことを後悔した。
「失礼します」
よく知る人の声がして、ドアが開く。
モノクロを焦がす日
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