起床して歯を磨き、朝食を作るためにリビングへ向かう。
第一声はいつもピアノを撫でてからの「おはよう」
きっかけはもう覚えていないけど、幼い頃からの習慣でもあるピアノへの挨拶は今でも欠かさない日課のひとつだ。
カーテンを開くと生憎の曇り空。少しでも気分を明るくしたくて、キッチンへ歩き出しお気に入りのエプロンを身に纏う。
『寝起きの脳を活性化させるためにも朝ごはんは大事なの』
母の教えを懐かしく思う一人暮らしの朝の風景。会話相手のいない静けさの漂う空間は、外的情報に飢えた脳が昨晩の出来事を色濃くする。
昨晩──絵理衣ちゃんのお祖父様が倒れたとの連絡があり、京治くんは絵理衣ちゃんに付き添って病院へ向かった。
お祖父様の容態はどうだったろう。絵理衣ちゃん、あれから大丈夫だったかな。京治くんは、ちゃんと家に帰れて休めたのかな。
そんなことを考えぼんやりしていると、恵比寿にできた新しい洋菓子店の限定パフェに歓喜するアイドルリポーターの声が突如リビングを彩った。
朝食を作る時間に合わせてテレビが付くようタイマーをセットしていることを忘れてちょっと驚く。この流れも日常となりつつある。
和栗をふんだんに使用したという華やかなモンブランパフェを横目にもう一度空を見上げる。
灰色の雲の厚みが少しずつ増してきているような気がして、今日はどの靴を履いて出かけようか、シューズクローゼットの中身を思い描きながらフライパンに生卵を割り入れた時、ふと微かな音楽が鳴っていることに気づいた。
ピアノソナタ第11番第3楽章トルコ行進曲イ短調のメロディー。スマホの着信だ。
画面を覗くと、『赤葦京治』の文字が光っていた。
ガスコンロの火を小さくし、急いで手の汚れを洗い流してスマホをタップ。少し濡れたままの指が画面の表面に水気を引いても気にせず耳元への持っていく。
「…はい」
緊張していた。
京治くんのことが好きなのだと自覚したばかりの翌朝。当然、心拍数の上昇はコントロールできない。
「なまえさん? おはようございます」
「おはよう、ございます」
「すみません朝から。昨晩タクシーを手配し忘れてしまったので無事に帰宅できたか気になって……大丈夫でした?」
電話の向こう側からは、穏やかな声に重なり微かな朝の喧騒が聞こえた。京治くんはもう会社へ向かってるんだと思った。
昨晩の帰宅も私より遅かったに違いないのに、こうしてわざわざ、それが例え義務的だったとしても電話をくれる心遣いが嬉しくて、今度は胸がきゅうと鳴く。
聞きたいことはたくさんあった。けれど、どこまで踏み込んでいいのかがわからなくて。
もしかしたら朝まで絵理衣ちゃんと一緒にいたのかな…とか余計なことまで考えて、無駄な想像力に心を曇らせてしまう自分も嫌だった。
「…うん。私は大丈夫。あの後黒尾くんがタクシー呼んでくれて」
──黒尾くん。
名前を口にした途端、脳裏に昨晩の黒尾くんの顔が過った。
真剣な眼差しで、『冗談なんかじゃない』と言われたことも。
強く、抱き締められたことも。
「……なまえさん?」
「っ、ううん、ありがとう、気にかけてくれて」
「そういえばもうすぐCDジャケットの撮影ですね」
「そうそう。今日はその打ち合わせがあって」
制作は、着々と進んでいた。
「撮影当日は俺も立ち合いに顔を出しますのでよろしくお願いします」
「へぇ~…京治くんも立ち会いに……って、来るの!?」
「もちろんです。担当者ですから」
「京治くん来なくてもいいよ……?」
「え? そういう訳にはいきません」
「いやでも」
撮影なんてただでさえ恥ずかしいのに、京治くんに見られてると思うとますます緊張してしまう……! むりだよ……!
「でも、何です?」
「…お願いします。来ないでください」
「……」
与えられた数秒の沈黙は、懇願する私の希望に寄り添ってくれるのだろうという期待を生んだ。
大丈夫。
優しい京治くんならきっと──
「それは聞けないお願いですね。諦めてください」
却下された……!
「そろそろ電車が来るので切りますね。撮影楽しみにしてますから」
「え、京治く…っ まっ、」
儚く散った希望は無音になったスマホを支える腕と共に垂れ落ちた。
昼からは本格的に雨脚が強くなるらしいと天気予報。
今日は濡れても問題のない靴で出かなきゃ。
幕開けはモカの香り
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