ここ数日溜め込んでいたデスクワークが一段落つきそうで安堵していたとある日の午後、仕事用の携帯電話に一本の着信が入った。
「はい。赤葦です」
『こんにちは。以前パストラーレという店の前で名刺交換をさせていただいた』
"梶と申しますが"。
瞬間、忙しない社内のフロアの雑音が無になる。
梶恭平。なまえさんの恋人。
確かに以前、なまえさんの帰国祝いの会で彼女を店まで迎えにきた梶さんとその場で名刺の交換をした。あの時は形式的に交わした口約束のみのビジネストークだと思っていた為、俺は梶さんからの突然のコンタクトに妙な胸のざわつきを覚えた。
『代理店を探している友人を紹介したいのでお時間いただけますか?』
穏やかな口調で告げられたそれは名刺交換をした時と同じ理由。
ならば変に身構える必要もない……か。
俺は淡々と受け答えをし、まずは梶さんの友人から直接お話を伺いたい旨を伝え、後日彼の経営する店で落ち合うことになった。
通話を終え宙を仰げば、薄れかけていたあの夜の光景が再び脳裏に鮮明によみがえってくる。なまえさんに伝えるべきか迷い、結局胸にしまい込んだままにしていた光景。
梶さんは一体どういうつもりでなまえさんと付き合っているのだろうか。
あの日から、そんな微かな苛立ちが頭の片隅にこびりついている。
港区にあるフレンチバルの店は梶さんが経営する飲食店のひとつらしい。
一年ほど前にオープンしたばかりだという真新しいその店は、大通りから一本入った比較的閑静な場所にあった。
半地下へ続く階段を下りて店内に入る。席数はカウンターとテーブルを併せて三十席くらいだろうか。温かみのあるチークの木材と大理石をバランス良くミックスさせたこだわりを感じさせる内装。ほどよい数の観葉植物と計算された位置に照明を置くことで、半地下でありながらも仄暗さはなく明るい。
「すみません赤葦さん。お待たせして」
数分待ったところで店の奥から梶さんが現れた。初めて会った時よりも少しだけラフな格好をしてる。ジャケットにシャツは着ているが、ボトムはジーンズだからそう見えるのかもしれない。
「あちらの席にしましょうか」
店内奥にあるテーブル席へと案内され、俺は梶さんを追いかける形で歩き出す。
近々ランチを始める予定でその準備に終われていると言う梶さんは、ほどよく日焼けした肌に少々疲労感を覗かせていた。今日は梶さん一人の作業のため、夕方頃にスタッフが出勤してくるまでの間は誰も店に来ないらしい。
「あの」
「ああすみません。飲み物をお出ししていなかった。アイスティーで良いですか?」
「……おかまいなく」
こちらの言葉を遮ると、革靴を鳴らした広い背中が一度カウンターの中へと消えた。
熟成肉とワインが売りらしい洒落たバル。ポピュラーなものから最高級の珍しいワインまで、様々なものがメニューの欄に記載されている。
「失礼しました」
カラカラと氷を鳴らしながらアイスティーとコースターを持って戻ってきた梶さんに、俺は早速本題を告げた。
「本日は梶さんのご友人を紹介していただけるということで、ありがとうございます。お相手のご友人は?」
話をしたいという"友人"の姿が見当たらないことを不思議に思った。俺自身、ここへ来る前の打ち合わせが押した為、到着した時間は約束のほんの数分前だった。
「彼は少し遅れて来ます。時間をずらして伝えたんでね」
梶さんが、俺の真正面の席の椅子を引いてゆっくりと腰かける。
「キミとふたりで、話がしたくて」
そう言って瞳を細めた梶さんを見て、妙なざわつきが再び胸の奥を掠めた。
無色透明の宝石は愛を知らない
NameChange
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。