「おかえり京治くん。黒尾くんまだお風呂に入ってるよ」
なまえさんの自宅に戻ると彼女はキッチンで洗い物をしていた。
俺は目撃してしまった光景が瞼にちらついて離れずに、ここへ戻ってくるまでの風景の記憶が曖昧になるほどには放心している状態だった。
黒尾さんから聞いた梶さんの噂話は本当だったのだ。
だとしたら、なまえさんは……。
「京治くん? どうしたの、ボーとして」
コーヒーカップを拭きながら不思議そうな顔をするなまえさんに「いえ……」とだけ答え首を振る。
「コレ黒尾さんのところへ持っていきますね」
手にしていたコンビニのレジ袋を胸の前に翳した。
───言えるわけがなかった。
洗面所の扉を開け中に入り、黒尾さんに一声かけてラックの上に購入してきたものを置く。浴室からは黒尾さんの鼻歌が聞こえ、なまえさんとはほとんど面識がなかったはずの彼女の家にも早々と馴染んでいる順応性の高さと気楽さに脳ミソ交換してくださいよという思いに駆られた。
「京治くん。スーツハンガーに掛けておくから黒尾くんの持ってきてもらってもいい?」
リビングからのなまえさんの声が廊下を通過して届く。
黒尾さんの鼻歌はワールドカップバレーのテーマ曲だった。
そういえば録画してたものまだ観れてなかったな。
思ったところでため息がでる。
意識を強引に別の対象に向けてもあの光景が消えて無くなることはなく、俺は胸に霧がかったような思いを抱いてジャケットとスラックスを手に取った。
「京治くんもお風呂から出たら持ってきてね」
なまえさんは慣れた手付きでハンガーにジャケットを掛けていく。やはり人がそばにいると安心するのか顔色も回復の兆しを見せている。
だとしても、どうしてこんな時に…という苛立ちが徐々に俺を蝕んでいった。
なまえさんが危険な目に遭って心細いときに、他の女性と……。
何かの間違いではないのかと様々な可能性も考えた。家族、同僚、例えば取引先の接待とか。けれど何を思っても、キスをしていた時点で全てが黒だ。
「京治くん眠い? もうこんな時間だもんね」
ハッとして顔を上げると、なまえさんが近距離から覗き込むようにこちらを見ていた。
時刻は日付を跨ぎ二十分ほどが経過していた。
「いえ、眠くはないです」
「そう? 眠そうな顔してる」
「たまにいつも眠そうな顔してるねと言われますが何か?」
「あはは、確かに」
そんなことないよと否定しないなまえさんに苦笑いしたくなっても、その顔にようやく滲み出た自然な笑顔にひとときの安堵感が芽生える。
「そろそろ黒尾くんも出てくるんじゃないかな。待ってる間何か飲む? むぎ茶とか」
それでもやりきれなさは消えなかった。
浮気現場を目撃し、俺は確かにショックを受けた。同時に心臓に杭を深く打ち込んだのは自己嫌悪だ。
ただの噂であればいいと願っていたはずなのに、心のどこかで、或いは本当であれば良いのにと最低なことを考えていたのかもしれない。
そんな相反する曖昧な正義感で俺は彼女の何に寄り添おうとしていたのだろうか。
気がつくと、キッチンへ向かおうとするなまえさんの腕を引き止めていた。
「京治くん?」
『俺も取っちゃう、かな』
なまえさんの瞳の中に、黒尾さんから話を聞いた日の記憶が映画のようによみがえる。
いっそ伝えるべきか、やはり黙っておくべきなのか。
激しい葛藤に世界がぐにゃりと歪んでいく感覚に陥った。
なまえさんの、二度のまばたきを見届ける。
そっと白い頬に手を添え、目尻に滲んだマスカラの黒を親指で優しく擦り取る。
なまえさんの体に少しの緊張が走ったのが伝わった。
情報過多で処理しきれずにいる脳内が、もういっそすべてを放棄してしまえと囁く。
視えるのはなまえさんの瞳の中の水晶と、小さく開いた桃色の唇だけだった。
「──…け、」
「あー、さっぱりした。赤葦~、コレあんがとね~」
突如リビングの扉が開いたのはその時。
俺の買ってきたTシャツとハーフパンツを着た黒尾さんがタオルで髪を拭きながら戻ってきた。
なんてタイミングだ。
風呂上がりで濡れた黒尾さんの髪の毛は下りていて、昔合同合宿でみんなと大風呂に入った時の面影がその背後にうっすら滲む。
「悪い、───オジャマした?」
炸裂したお馴染みのニヤリ顔。
『不覚』という文字が頭上にドンとのし掛かり、なまえさんの腕から手を離す。
「俺も風呂、いただいてきます…」
偽りを彩るのは悪戯なメロディ
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