或いはむしろ(キン肉マン二次小説)

水の底は死の世界だと言った男がいた――正しくは、いたようだ。
彼は、自身の古い著作のなかでそう書いていたらしい。
静かで冷たく暗い様子がそんな連想をさせたのだろう。
その指摘は必ずしも的を射ているわけではないと、アトランティスは思う。
しかし、そのことをくだんの男が知らなくても無理はない。
だって彼は人間で、人間は一度しか死なないし、それきりこちらに戻ってくることはないから。

実際の死後の世界はもっとにぎやかだった。もっと正確に言えば、耳を塞ぎたくなるほどにやかましい。死んだばかりの者の罵詈雑言、もうどれほど永く死んでいるのか判らない者の怨嗟、そんなどす黒いおめきで満ち満ちている。おまけに彼らを責め苛むための焔がそこら中に噴き上がっていて、本来は暗黒であろう世界を紅蓮に染め上げている。
アトランティスは一度死に、再び生を得たから、知っている。
彼もアトランティスのように死んで生き返ることができていたら、きっとそのあとでこっそり文章を書き直しただろう。

そして同じく水の底が暗く静かで冷たい世界というのも、その限りではない。
アトランティスは今まさにその場所にいた。春をむかえてずいぶんと水はぬるみ、水底は石菖藻に覆いつくされている。流れになびく長い髪のような葉は、数えきれないほどの小さな泡をまとい、降りそそぐ陽に透けたそれが水晶のようにキラキラと輝いている。ときおり泡の粒が、プチ、プチと、あえかな音をたて、光にむかってのぼっていく。彼はそのしとねに横たわり、おびただしい葉のそれぞれが、自身背中や腕、そして指のあいだの水かきをくすぐるように撫でていくのを、ただぼんやりと感じていた。見上げる水面は、盛りをすぎて散りゆく桜の花びらが作りだした花筏で覆われている。その影が流れにのってゆらゆらと絶えず形を変え、まるであの六騎士の一人がくり出す幻術のようにアトランティスの視界を惑わせる。

ここは死の世界ではない、或いはむしろ極楽だ――少なくともオレにとっては。
アトランティスはそうひとりごちて身を起こすと、おもむろに水をかき、極楽のかなたへ泳ぎさった。

end
(初出:pixiv 2023.04.05)
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