春告魚(ウォーズマン夢小説)
名前を変える
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
春が来た。
さまざまなものが混ざりあう。終わりと始まり、寒気と暖気、死と生。
二つが溶けあい新たな世界が立ちあがる。
そうして、とうとう桜の花が咲いた。こんどの週末は二人でそれを眺めようと、ウォーズマンと彼女は約束していた。
土曜日の夕暮れどきに、ウォーズマンは彼女の部屋をおとずれた。週末はだいたいどちらかの家で過ごしている。ときたま彼女は「どうせなら一緒に暮らしてしまえばいいのに」と思わないでもないが、彼の人となりをかんがみて、自分から言いだすことはひかえている。
二人は一つのベッドで夜を過ごした。日曜の朝、さきに目をさましたウォーズマンが、寝室の厚いカーテンをあけると、残念なことに雨がふっていた。しかし、予想はできていた。彼の体内に内蔵されたコンピューターは(睡眠状態で彼の意識が失われていたとしても)周囲の温度や湿度、そして大気組成までをもつねに記録し続けている。覚醒した瞬間、ウォーズマンはそのデータを確認していたのだ。
「……雨だな」
その声に、彼女も目をさました。
「いやね、予報どおりだわ」
彼女は落胆したようにつぶやくと身をおこし、窓辺に立っていたウォーズマンに並んだ。にぶい鉛色の空から、無数の白い糸が地上へとのびている。それでも空の端があかるくて、もしかすると少したてば、太陽が顔をのぞかせるかもしれない。
「とりあえず、朝ごはんにしましょうか」
ダイニングをかねたリビングには、夕べの余韻がいくつか残されていた。ワインのコルク栓、桜柄のランチョンマット、そしてそのうえに点々とちらばった黒パンのくず。彼女はそれらを手早く片づけた。
「ニコ、かんたんなものでいい?」
「うん、かまわないよ」
彼女は電気ケトルをしかけ、薄くきった黒パンをオーブントースターに放りこんだ。それから青い釉薬で花の模様が描かれた白いティーカップを二つ取りだして、それぞれに三角形のティーバッグをおとすと、わいた湯をそこへ注いだ。あいだをおかず、オーブントースターが軽やかなベル音をたててパンの焼きあがりを告げる。さいごに冷蔵庫からだしたニシンのマリネをテーブルに並べた。それは昨日の夕飯にこしらえたものだった。新鮮なニシンは、ふつうなら煮つけや塩焼きにするのだろう。だけど彼女の恋人はロシア出身だ。
すっかり朝食の支度がととのうと、二人は席についた。ウォーズマンはさっそく黒パンに手をのばした。まだほんのりと湯気をたてている黒パンに薄くバターをつけ、ニシンのマリネをのせると、口にはこんだ。ニシンの身にうかんだ銀の色と、黒パンの茶褐色の対比がうつくしい。独特の風味はあるけれども臭みはまったくなくて、身の脂はマリネ液の酸味でほどよく中和されている。一晩たってよくなじんだそれは、さらにまろやかな味わいになっていた。一枚目をあっという間にたいらげた彼は、二枚目の黒パンに手をのばす。彼女はその様子に目をほそめ、紅茶を口にした。
ウォーズマンは慈愛のこもった彼女のまなざしに、ふと、亡き母の面影を感じた。父 亡きあと、困窮をきわめた彼 と母 にとって、ニシンは新年にだけ口にすることのできる、ぜいたくな食べものだった。ナターシャはいつも「自分はお腹がすいていないから」と、ごくわずかな量のすべてを息子の皿にのせ、今の彼女のように、息子が食べる姿を満足げに見つめていた。
そうして彼は気がついた。あのころ胸に感じていたあたたかさを、いまもまた胸に感じていることに。
「どうしたの、ニコ?」
「いや、何でもない」
かぶりをふったウォーズマンは、窓の向こうで、雲間から陽がさしていることに気がついた。
「――雨、やんだみたいだ」
end
(書き下ろし 2025.03.29)
さまざまなものが混ざりあう。終わりと始まり、寒気と暖気、死と生。
二つが溶けあい新たな世界が立ちあがる。
そうして、とうとう桜の花が咲いた。こんどの週末は二人でそれを眺めようと、ウォーズマンと彼女は約束していた。
土曜日の夕暮れどきに、ウォーズマンは彼女の部屋をおとずれた。週末はだいたいどちらかの家で過ごしている。ときたま彼女は「どうせなら一緒に暮らしてしまえばいいのに」と思わないでもないが、彼の人となりをかんがみて、自分から言いだすことはひかえている。
二人は一つのベッドで夜を過ごした。日曜の朝、さきに目をさましたウォーズマンが、寝室の厚いカーテンをあけると、残念なことに雨がふっていた。しかし、予想はできていた。彼の体内に内蔵されたコンピューターは(睡眠状態で彼の意識が失われていたとしても)周囲の温度や湿度、そして大気組成までをもつねに記録し続けている。覚醒した瞬間、ウォーズマンはそのデータを確認していたのだ。
「……雨だな」
その声に、彼女も目をさました。
「いやね、予報どおりだわ」
彼女は落胆したようにつぶやくと身をおこし、窓辺に立っていたウォーズマンに並んだ。にぶい鉛色の空から、無数の白い糸が地上へとのびている。それでも空の端があかるくて、もしかすると少したてば、太陽が顔をのぞかせるかもしれない。
「とりあえず、朝ごはんにしましょうか」
ダイニングをかねたリビングには、夕べの余韻がいくつか残されていた。ワインのコルク栓、桜柄のランチョンマット、そしてそのうえに点々とちらばった黒パンのくず。彼女はそれらを手早く片づけた。
「ニコ、かんたんなものでいい?」
「うん、かまわないよ」
彼女は電気ケトルをしかけ、薄くきった黒パンをオーブントースターに放りこんだ。それから青い釉薬で花の模様が描かれた白いティーカップを二つ取りだして、それぞれに三角形のティーバッグをおとすと、わいた湯をそこへ注いだ。あいだをおかず、オーブントースターが軽やかなベル音をたててパンの焼きあがりを告げる。さいごに冷蔵庫からだしたニシンのマリネをテーブルに並べた。それは昨日の夕飯にこしらえたものだった。新鮮なニシンは、ふつうなら煮つけや塩焼きにするのだろう。だけど彼女の恋人はロシア出身だ。
すっかり朝食の支度がととのうと、二人は席についた。ウォーズマンはさっそく黒パンに手をのばした。まだほんのりと湯気をたてている黒パンに薄くバターをつけ、ニシンのマリネをのせると、口にはこんだ。ニシンの身にうかんだ銀の色と、黒パンの茶褐色の対比がうつくしい。独特の風味はあるけれども臭みはまったくなくて、身の脂はマリネ液の酸味でほどよく中和されている。一晩たってよくなじんだそれは、さらにまろやかな味わいになっていた。一枚目をあっという間にたいらげた彼は、二枚目の黒パンに手をのばす。彼女はその様子に目をほそめ、紅茶を口にした。
ウォーズマンは慈愛のこもった彼女のまなざしに、ふと、亡き母の面影を感じた。
そうして彼は気がついた。あのころ胸に感じていたあたたかさを、いまもまた胸に感じていることに。
「どうしたの、ニコ?」
「いや、何でもない」
かぶりをふったウォーズマンは、窓の向こうで、雲間から陽がさしていることに気がついた。
「――雨、やんだみたいだ」
end
(書き下ろし 2025.03.29)
1/1ページ
