今日も空のうえ(ペンタゴン夢小説)
名前を変える
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
日曜の午前中の早い時間、彼女は電車にゆられ、窓のそとの景色をぼんやりとながめていた。
抜けるような青い空、ポツンと浮かんだ白い雲。
彼女が恋人 と初めて出会ったのも、こんな上天気の日だった。
その日は朝から厄介ごとが続いて、彼女はカリカリしどおしの一日を過ごしていた。
そうして道を歩きながらふと天をあおぐと、青空のなかにポツンとひとつ白いものが浮かんでいることに気がついた。雲ではない。それよりもずっと手前、地上 に近い場所。いったいアレは何だろう。いぶかしみながら目をこらしてよくよく確かめると――あろうことか、それは空を飛ぶ人の姿だった。もちろん、こんなことが出来るのは人間ではない、超人だ。
白い全身タイツをまとったような姿で、背中には純白の大きな翼が生えている。真っ赤なリストバンドが、まるで目印のように両の手首に巻かれていた。雲のようにフワフワと、まるですこしも重さなどないみたいに宙に浮いている。そうしてときおり両翼をバサリと羽ばたかせていた。
(……あの翼に触れてみたい)
ゆうゆうと空を飛ぶ姿を見ているうちに、そんな思いが彼女のなかにわきあがり、気がついたときには小走りに超人を追いかけていた。彼はどこに行くのだろう。どんな顔をしているのだろう。そんなことを考えているうちに胸がワクワクしてきた。それは捕虫網を手にセミやカブトムシを追いかけ回していた、あの遠い夏の日に感じたものとどこか似ていた。
彼女があとを追ううちに、白い超人はフイと古ぼけたビルの角を右に曲がった。彼を見失うまいと、彼女はあわてて同じ角を回り込んだが、すっかりその姿は消えていた。
どこに行ったのだろう。彼女がいぶかしんだ瞬間、上から声が落ちてきた。
「娘、私に何の用だ?」
「きゃあ!!」
声の方向を彼女が見上げると、目の前のビルの上階の窓枠にあの超人が立っていた。彼は翼あるものらしく軽やかに舞いあがり、彼女の目の前に音もなくフワリと舞いおりた。
はじめて正面から見た彼の顔には目も鼻も口もなく、のっぺりした顔面には大きな黄色い五芒星がただひとつうかんでいた。おどろいて思わず息をのんだ彼女の様子に、超人は憤慨したようにふんぞり返った。
「失礼なニンゲンだな。勝手に後を尾けてきたくせに、人の顔を見て叫ぶなんて」
「す、すみません。あの、あなたの顔に驚いたんじゃなくて急に上から声をかけられて、それで」
「ふん、ではそういう事にしておくか。それで?用は?」
けして機嫌がよさそうには見えない相手に「あなたの身体の一部を触らせて欲しい」なんて言っていいものだろうか。だけど、こんな機会はめったにない。彼女は正直に申しでることにした。
「えーっと、その、あなたの背中の翼がとっても素敵なので、もし触らせてもらえたら嬉しいなって……それで追いかけてきちゃったんです」
その返答に、白い超人はガックリと肩を落とした。
「……やれやれ、またか」
その様子に彼女は(目鼻がなくても相手の気分というのは分かるのだな)と、つい場違いなことを考えた。
「もしかして、怒ってますか?」
「いや、だけどウンザリはしているな。私が空を飛ぶと、ニンゲンはすぐ珍しい蝶でも見つけたみたいに追いかけてくる。それもしょっちゅう。何か用かと思って相手をすれば『あなたが空を飛んでいるとまるで天使のようだ』とか『そのキレイな翼にさわらせて』とか、返ってくるのはそんなことばかり。どうして君たちはそんなに画一的で凡庸なんだ」
私に聞かれても困る――そう思った瞬間、彼女は自分も同じふるまいをしたことに気づいて謝罪した。
「私の言ったことで嫌な思いをされたなら謝ります、すみません」
すると超人は身をかがめて彼女をのぞきこむと、品定めでもするようにしげしげとその顔をねめまわした。
「まあ、君はなかなか美人だから、気分直しにコーヒーでもご馳走してくれたら不問にしよう。私の翼に触れることも許す」
美しく、気品さえ漂う外見にもかかわらず、あんまりにも軽佻浮薄な口ぶりに彼女はあっけにとられた。この超人はいったい何者なのだろう。やりたい放題のありさまは、まさか悪魔超人だろうか。
「どうした?あまり嬉しそうではないな」
「もしかして、あなたは悪魔超人なの?」
「……なんと、まさかこの正義超人アメリカ代表、ペンタゴンの名を知らない者がこの世にいるとは」
「ペンタゴン……あなたが!?」
さすがにその名前は超人レスリングに疎い彼女でも知っていた。
彼女はペンタゴンの提案をうけいれ、二人は徒歩で大きな公園にむかった。公園の広場にある売店前で、いくつか並んだテーブルのひとつに向かいあって腰をおろす。彼女はバッグから財布をとりだした。
「コーヒー買ってくるわね」
「いや、私が買ってこよう」
「いいわよ、ごちそうするって約束だもの」
ペンタゴンはヤレヤレ、と肩をすくめた。
「アレは冗談だ。まさか本気にしたのか?女性に払わせるなんて!それで、君もコーヒーでいいのかな?」
――冗談だったのか。なかなか美人だなんて言われて、ちょっと嬉しかったのに。
「じゃあ、お願いします」
彼女がそう答えると、ペンタゴンは優美な足取りで売店に向かっていった。広場にはオコボレ目当ての鳩がたむろしていたが、彼が近づいたとたん、群れは二つに割れた。まるでペンタゴンを翼あるものの王として慕うかのように。
やがて、ペンタゴンは両手にコーヒーのカップを持って戻ってきた。
「君、ミルクと砂糖は?」
「ありがとう、要らないわ」
彼はコーヒーカップをテーブルにおくと、椅子に座ることなく、彼女のそばにやってきて、相手に背をむけ「ほら」と背中の翼を広げた。
「……!」
彼女はとっさに息をのんだ。扇のようにバサリと広がった翼は、まるでオオハクチョウのそれをうんと大きくしたようで、目を奪われるほど美しい。鳥の身体は飛行のためにとても軽く作られているが、超人であるペンタゴンはそれなりにウエイトがあって、だからその分だけ彼の翼も大きい。そのつけ根は肩甲骨のあたりでこぶのように盛りあがっていて、翼の動きにあわせて生きもののように、ぐねぐねとうごめいた。
ため息をついて見とれる彼女にペンタゴンは「どうした、触らないのか?」とたずねた。
「いいの?」
「触りたいと言ったのは君……ええと、すまないがその前に名前を教えてほしい」
ついさっきまでの尊大な様子とはまるで違う腰のひけた口調に、やはり彼は正義超人なのだと彼女は得心がいった。だからちいさく笑って自分の名を告げ、それから自由のための運動器官にそっと手を伸ばした。
それは真綿のように白く軽やかで、風をしっかりと捉えられるよう、一本一本の毛がピッチリとすき間なくくっつきあっている。彼女は流れに沿って指をはわせ、このうえなくなめらかな手ざわりに、陶然とつぶやいた。
「……触れているだけで心が軽くなっていくみたい」
やがて、すっかり満足すると、ペンタゴンに礼を言って、それから二人はやっと席についてコーヒーを口にした。
「本当にありがとう、嬉しかった。今日は朝からゴタゴタしてて気持ちがザワついていたの。だけどすっかり明るい気分になったわ」
「それはどうも」
ペンタゴンはまんざらでもなさそうな声音で答えると、コーヒーを飲んだ。
「日本にいるのは旅行かなにか?」
「旅行、というほど大げさなものでもないんだが――」
ペンタゴンの述懐は超人の飛行能力についての説明から始まった。
大抵の者が知っていることだが、超人はほぼ全てが飛行能力を有していて、かつては自由気ままに空を飛んでいた。しかし人類が航空機などの飛行手段を手に入れ一世紀以上を経た現代、空は過密状態になりはてたため、超人の不要不急の飛行は差し控えるべしというのが全世界の共通認識になっている。だが、有翼の超人に飛行を禁じるというのはサラブレッドに走ることを禁じるようなもので、アイデンティティの否定にも等しい。彼らは人間に譲歩をもとめた結果、自由に飛ぶ権利を手にいれた。それでも時おりは心無い言葉や非難を浴びせられることがああって、ペンタゴンは軋轢や面倒ごとに鬱憤山積すると、こっそり日本にやってきて、しばしのんびり過ごすことにしていた。日本はキン肉スグルの出身国であり、名だたる超人レスリングの興行も数多く行われてきた。古くから超人に縁のある施設が設けられてきた歴史もある。そのため超人に対して世界でも類を見ないほど寛容なのだ。
また、特定の宗教圏ではペンタゴンの有翼純白の外観や、時間や位置を操る能力を理由に彼を「神の代行者」あるいは「神」そのものと捉える者がしばしばいるが、多種多様な宗教文化が混在する日本はでは偏向的な価値観で彼を解釈する者が少なく、それもまた居心地のよさのひとつなのであった。
短くはないペンタゴンの話を聞きおえた彼女は、しみじみとため息をついた。
「何だか……いろいろ大変なのね。空を飛んでいる姿はあんなに自由に見えたのに」
「君たちにとって飛行とは『万能』の象徴なのだと聞いたことがある。私にそういうイメージを投影するのはまあ理解できなくもない。それでも四六時中『神の遣い』とか、ましてや『神そのもの』として扱われるのはけっこうなストレスなんだ」
実のところ、超人にとっても神は存在する。それは根源かつ普遍的なつながりで、大部分の超人は直接神と関わることはないが、その実存をきちんと認識している。
もしかすらと、人間が執拗に神を追い求めるのは、自分たちが不変の存在と繋がっているという確証によって安心を得たいがためで、だから彼らはペンタゴンを神の似姿のように扱うのかもしれない。
「わたし、あなたが嫌がることをしちゃったのね」
「気にするな。君のそれに私は何らのストレスも感じていないから」
「本当?」
「ああ」
彼女が彼を追いかけた理由のなかにもそんな欠片があった。だけどそこには、それに勝る純粋で清潔な衝動も存在していたことを、初めて会った瞬間にペンタゴンはきちんと感じていた。
「――ストレスといえば、私たちの一族にはそういうものを溜めこみすぎると、心が重くなって飛べなくなるという言い伝えがある。倦怠や懊悩、猜疑、憤懣などでいっぱいになった心は、いわば肥満の状態なのさ」
「憂鬱なときに『気が重い』っていうのはそういうことなのかしら……人間にも翼があれば、自分の心のなかを理解しやすいのかもしれないわね」
得心がいったように頷く彼女を見てペンタゴンはうっすらと笑った。
「……面白いことを考えるな、君は」
少なくとも彼女には、彼が笑ったように思えた。
そのあとも二人は暗くなるまで夢中で話し込んだ。ふと、気がつくと辺りはすっかり人気が絶え、街路灯は白くまばゆい光を放っていた。
「そろそろ帰ろうか、すっかり長話してしまったな」
「お茶に誘ってくれてありがとう、とっても楽しかった」
「うん、私も久しぶりに楽しい時間だった」
彼女が超人と接点を持つのはこれが初めてで、ペンタゴンの外観や横柄さに最初はとまどったが、独自の経験にもとづいた示唆に富む話を聞くのはとても面白かった。これっきりの出会いで終わりにしてしまうのはもったいないくらいだ。彼女がそう思った瞬間、ペンタゴンはさぐるような調子でこうたずねた。
「ええと、つかぬことを聞くけど、君は高いところは苦手かい?」
「ううん、全然平気。むしろ好きよ」
すると彼は照れくさそうに明後日のほうを向き、こんな提案をした。
「もしも、嫌じゃなければ次に会うときは……私と空を飛んでみるかい?」
――どうやらペンタゴンも彼女と似たようなことを考えていたらしい。
彼女が昔の思い出にひたるうちに、気がつくと電車は目的地に着いていた。
ぞろぞろと降りていく人の流れに続いてホームに足を下ろす。
きっと改札を出たらペンタゴンが待っているだろう。
デートは今日も空の上。
だから晴れてくれて本当によかった。
end
(初出:「夢みる頃を過ぎても」 2022.09)
抜けるような青い空、ポツンと浮かんだ白い雲。
彼女が
その日は朝から厄介ごとが続いて、彼女はカリカリしどおしの一日を過ごしていた。
そうして道を歩きながらふと天をあおぐと、青空のなかにポツンとひとつ白いものが浮かんでいることに気がついた。雲ではない。それよりもずっと手前、
白い全身タイツをまとったような姿で、背中には純白の大きな翼が生えている。真っ赤なリストバンドが、まるで目印のように両の手首に巻かれていた。雲のようにフワフワと、まるですこしも重さなどないみたいに宙に浮いている。そうしてときおり両翼をバサリと羽ばたかせていた。
(……あの翼に触れてみたい)
ゆうゆうと空を飛ぶ姿を見ているうちに、そんな思いが彼女のなかにわきあがり、気がついたときには小走りに超人を追いかけていた。彼はどこに行くのだろう。どんな顔をしているのだろう。そんなことを考えているうちに胸がワクワクしてきた。それは捕虫網を手にセミやカブトムシを追いかけ回していた、あの遠い夏の日に感じたものとどこか似ていた。
彼女があとを追ううちに、白い超人はフイと古ぼけたビルの角を右に曲がった。彼を見失うまいと、彼女はあわてて同じ角を回り込んだが、すっかりその姿は消えていた。
どこに行ったのだろう。彼女がいぶかしんだ瞬間、上から声が落ちてきた。
「娘、私に何の用だ?」
「きゃあ!!」
声の方向を彼女が見上げると、目の前のビルの上階の窓枠にあの超人が立っていた。彼は翼あるものらしく軽やかに舞いあがり、彼女の目の前に音もなくフワリと舞いおりた。
はじめて正面から見た彼の顔には目も鼻も口もなく、のっぺりした顔面には大きな黄色い五芒星がただひとつうかんでいた。おどろいて思わず息をのんだ彼女の様子に、超人は憤慨したようにふんぞり返った。
「失礼なニンゲンだな。勝手に後を尾けてきたくせに、人の顔を見て叫ぶなんて」
「す、すみません。あの、あなたの顔に驚いたんじゃなくて急に上から声をかけられて、それで」
「ふん、ではそういう事にしておくか。それで?用は?」
けして機嫌がよさそうには見えない相手に「あなたの身体の一部を触らせて欲しい」なんて言っていいものだろうか。だけど、こんな機会はめったにない。彼女は正直に申しでることにした。
「えーっと、その、あなたの背中の翼がとっても素敵なので、もし触らせてもらえたら嬉しいなって……それで追いかけてきちゃったんです」
その返答に、白い超人はガックリと肩を落とした。
「……やれやれ、またか」
その様子に彼女は(目鼻がなくても相手の気分というのは分かるのだな)と、つい場違いなことを考えた。
「もしかして、怒ってますか?」
「いや、だけどウンザリはしているな。私が空を飛ぶと、ニンゲンはすぐ珍しい蝶でも見つけたみたいに追いかけてくる。それもしょっちゅう。何か用かと思って相手をすれば『あなたが空を飛んでいるとまるで天使のようだ』とか『そのキレイな翼にさわらせて』とか、返ってくるのはそんなことばかり。どうして君たちはそんなに画一的で凡庸なんだ」
私に聞かれても困る――そう思った瞬間、彼女は自分も同じふるまいをしたことに気づいて謝罪した。
「私の言ったことで嫌な思いをされたなら謝ります、すみません」
すると超人は身をかがめて彼女をのぞきこむと、品定めでもするようにしげしげとその顔をねめまわした。
「まあ、君はなかなか美人だから、気分直しにコーヒーでもご馳走してくれたら不問にしよう。私の翼に触れることも許す」
美しく、気品さえ漂う外見にもかかわらず、あんまりにも軽佻浮薄な口ぶりに彼女はあっけにとられた。この超人はいったい何者なのだろう。やりたい放題のありさまは、まさか悪魔超人だろうか。
「どうした?あまり嬉しそうではないな」
「もしかして、あなたは悪魔超人なの?」
「……なんと、まさかこの正義超人アメリカ代表、ペンタゴンの名を知らない者がこの世にいるとは」
「ペンタゴン……あなたが!?」
さすがにその名前は超人レスリングに疎い彼女でも知っていた。
彼女はペンタゴンの提案をうけいれ、二人は徒歩で大きな公園にむかった。公園の広場にある売店前で、いくつか並んだテーブルのひとつに向かいあって腰をおろす。彼女はバッグから財布をとりだした。
「コーヒー買ってくるわね」
「いや、私が買ってこよう」
「いいわよ、ごちそうするって約束だもの」
ペンタゴンはヤレヤレ、と肩をすくめた。
「アレは冗談だ。まさか本気にしたのか?女性に払わせるなんて!それで、君もコーヒーでいいのかな?」
――冗談だったのか。なかなか美人だなんて言われて、ちょっと嬉しかったのに。
「じゃあ、お願いします」
彼女がそう答えると、ペンタゴンは優美な足取りで売店に向かっていった。広場にはオコボレ目当ての鳩がたむろしていたが、彼が近づいたとたん、群れは二つに割れた。まるでペンタゴンを翼あるものの王として慕うかのように。
やがて、ペンタゴンは両手にコーヒーのカップを持って戻ってきた。
「君、ミルクと砂糖は?」
「ありがとう、要らないわ」
彼はコーヒーカップをテーブルにおくと、椅子に座ることなく、彼女のそばにやってきて、相手に背をむけ「ほら」と背中の翼を広げた。
「……!」
彼女はとっさに息をのんだ。扇のようにバサリと広がった翼は、まるでオオハクチョウのそれをうんと大きくしたようで、目を奪われるほど美しい。鳥の身体は飛行のためにとても軽く作られているが、超人であるペンタゴンはそれなりにウエイトがあって、だからその分だけ彼の翼も大きい。そのつけ根は肩甲骨のあたりでこぶのように盛りあがっていて、翼の動きにあわせて生きもののように、ぐねぐねとうごめいた。
ため息をついて見とれる彼女にペンタゴンは「どうした、触らないのか?」とたずねた。
「いいの?」
「触りたいと言ったのは君……ええと、すまないがその前に名前を教えてほしい」
ついさっきまでの尊大な様子とはまるで違う腰のひけた口調に、やはり彼は正義超人なのだと彼女は得心がいった。だからちいさく笑って自分の名を告げ、それから自由のための運動器官にそっと手を伸ばした。
それは真綿のように白く軽やかで、風をしっかりと捉えられるよう、一本一本の毛がピッチリとすき間なくくっつきあっている。彼女は流れに沿って指をはわせ、このうえなくなめらかな手ざわりに、陶然とつぶやいた。
「……触れているだけで心が軽くなっていくみたい」
やがて、すっかり満足すると、ペンタゴンに礼を言って、それから二人はやっと席についてコーヒーを口にした。
「本当にありがとう、嬉しかった。今日は朝からゴタゴタしてて気持ちがザワついていたの。だけどすっかり明るい気分になったわ」
「それはどうも」
ペンタゴンはまんざらでもなさそうな声音で答えると、コーヒーを飲んだ。
「日本にいるのは旅行かなにか?」
「旅行、というほど大げさなものでもないんだが――」
ペンタゴンの述懐は超人の飛行能力についての説明から始まった。
大抵の者が知っていることだが、超人はほぼ全てが飛行能力を有していて、かつては自由気ままに空を飛んでいた。しかし人類が航空機などの飛行手段を手に入れ一世紀以上を経た現代、空は過密状態になりはてたため、超人の不要不急の飛行は差し控えるべしというのが全世界の共通認識になっている。だが、有翼の超人に飛行を禁じるというのはサラブレッドに走ることを禁じるようなもので、アイデンティティの否定にも等しい。彼らは人間に譲歩をもとめた結果、自由に飛ぶ権利を手にいれた。それでも時おりは心無い言葉や非難を浴びせられることがああって、ペンタゴンは軋轢や面倒ごとに鬱憤山積すると、こっそり日本にやってきて、しばしのんびり過ごすことにしていた。日本はキン肉スグルの出身国であり、名だたる超人レスリングの興行も数多く行われてきた。古くから超人に縁のある施設が設けられてきた歴史もある。そのため超人に対して世界でも類を見ないほど寛容なのだ。
また、特定の宗教圏ではペンタゴンの有翼純白の外観や、時間や位置を操る能力を理由に彼を「神の代行者」あるいは「神」そのものと捉える者がしばしばいるが、多種多様な宗教文化が混在する日本はでは偏向的な価値観で彼を解釈する者が少なく、それもまた居心地のよさのひとつなのであった。
短くはないペンタゴンの話を聞きおえた彼女は、しみじみとため息をついた。
「何だか……いろいろ大変なのね。空を飛んでいる姿はあんなに自由に見えたのに」
「君たちにとって飛行とは『万能』の象徴なのだと聞いたことがある。私にそういうイメージを投影するのはまあ理解できなくもない。それでも四六時中『神の遣い』とか、ましてや『神そのもの』として扱われるのはけっこうなストレスなんだ」
実のところ、超人にとっても神は存在する。それは根源かつ普遍的なつながりで、大部分の超人は直接神と関わることはないが、その実存をきちんと認識している。
もしかすらと、人間が執拗に神を追い求めるのは、自分たちが不変の存在と繋がっているという確証によって安心を得たいがためで、だから彼らはペンタゴンを神の似姿のように扱うのかもしれない。
「わたし、あなたが嫌がることをしちゃったのね」
「気にするな。君のそれに私は何らのストレスも感じていないから」
「本当?」
「ああ」
彼女が彼を追いかけた理由のなかにもそんな欠片があった。だけどそこには、それに勝る純粋で清潔な衝動も存在していたことを、初めて会った瞬間にペンタゴンはきちんと感じていた。
「――ストレスといえば、私たちの一族にはそういうものを溜めこみすぎると、心が重くなって飛べなくなるという言い伝えがある。倦怠や懊悩、猜疑、憤懣などでいっぱいになった心は、いわば肥満の状態なのさ」
「憂鬱なときに『気が重い』っていうのはそういうことなのかしら……人間にも翼があれば、自分の心のなかを理解しやすいのかもしれないわね」
得心がいったように頷く彼女を見てペンタゴンはうっすらと笑った。
「……面白いことを考えるな、君は」
少なくとも彼女には、彼が笑ったように思えた。
そのあとも二人は暗くなるまで夢中で話し込んだ。ふと、気がつくと辺りはすっかり人気が絶え、街路灯は白くまばゆい光を放っていた。
「そろそろ帰ろうか、すっかり長話してしまったな」
「お茶に誘ってくれてありがとう、とっても楽しかった」
「うん、私も久しぶりに楽しい時間だった」
彼女が超人と接点を持つのはこれが初めてで、ペンタゴンの外観や横柄さに最初はとまどったが、独自の経験にもとづいた示唆に富む話を聞くのはとても面白かった。これっきりの出会いで終わりにしてしまうのはもったいないくらいだ。彼女がそう思った瞬間、ペンタゴンはさぐるような調子でこうたずねた。
「ええと、つかぬことを聞くけど、君は高いところは苦手かい?」
「ううん、全然平気。むしろ好きよ」
すると彼は照れくさそうに明後日のほうを向き、こんな提案をした。
「もしも、嫌じゃなければ次に会うときは……私と空を飛んでみるかい?」
――どうやらペンタゴンも彼女と似たようなことを考えていたらしい。
彼女が昔の思い出にひたるうちに、気がつくと電車は目的地に着いていた。
ぞろぞろと降りていく人の流れに続いてホームに足を下ろす。
きっと改札を出たらペンタゴンが待っているだろう。
デートは今日も空の上。
だから晴れてくれて本当によかった。
end
(初出:「夢みる頃を過ぎても」 2022.09)
1/1ページ
