曙光(ウォーズマン夢小説)
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ロシア語専門古書店クリューチ。その店の扉を開けるとき、いつもウォーズマンは店内の静けさを壊さないよう、よくよく用心をしている。
ロシア出身の正義超人ウォーズマン――本名ニコライ・ボルコフ――にとって、ここは日本で母国の雰囲気に浸ることが出来る数少ない場所のひとつだった。
古本屋と称するより古書店という響きが似合うその店は、いかめしく古びた外観そのままに、書棚に並んだ本はどれも難解なタイトルが付いている。彼が産まれるよりもずっと前に発行された文学、哲学や思想など。追憶の海に飲みこまれてしまったような本たちに囲まれていると、まるで先達から人生の過ごし方を学んでいるような気分になって、いつも心のなかでホッと息をつく。
ひっそりとした佇まいは頁と頁のあいだに思い出をそっと挟みこんでようにもみえた。
そんなふうに彼が一冊の本に眼を通していると、店のドアが開いて彼女が姿を現した。
「やあ」
「お待たせ」
二人はいつもここでひっそりと待ち合わせをする。
ウォーズマンに歩みよった彼女は彼の手元をのぞきこんだ。
「何を読んでいるの?」
「このタイトル、ロシア語版しか出ていないんだ。あんまり出まわらなかったし。それで買おうかどうか迷ってるんだけど、もう少し読んでみてから決めていいかな?」
「いいわよ、わたし絵本でも見ているから」
「ありがとう」
ウォーズマンは再び手にした本に視線を落とす。
悩んだ末に彼は結局その本を買い求めた。古書店を後にした二人は(これもまた)ロシア料理の店「チャイカ」に腰を落ち着けた。
古い駅ビルのフロアの隅にポツンとある小さな店だ。ビルと同じだけの歳をとっていて、薄暗い店内は二人がけのテーブルが三つと四人がけのテーブルが二つ。ギンガムチェックのビニールのテーブルクロスはあまりにも長く使い込まれために少しべとつく感じがする。もちろん毎日キレイに拭き清められてはいるのだが。ここは誰かをつれて来てもてなすような類いの店ではなく、あくまで普段使い、自分の胃袋を充たすためにある。
テーブルに立てかけられた裏と表だけのメニューに記されているのは、盛り合わせの前菜と何種類かのスープに黒パン、魚と肉の料理が一つか二つ、その程度だ。
ウォーズマンは手にしたくだんの本をためつすがめつしながら語った。
「ちょっと高値(たか)い気もするんだけど、次にあの店に行ったときに無くなってたら後悔するだろうから」
嬉しそうな恋人の様子に彼女は眼を細めた。
「判るわ。わたし、先月デパートですてきなサンダルを見つけたのだけど、買おうかどうしようか迷っているうちにディスプレイから消えてしまったの。それからは似たデザインばかり探してしまうもの」
「そう言えば――」とウォーズマンが顔をあげた。
「――話があるって言ってたよね?何だろう」
「実はね、実家から連絡があったの」
彼女は若い頃に地方の実家を離れ、それからずっと東京でひとり暮らしをしている。
数日前に珍しく母親から電話がかかってきた。互いの近況を確認したあとで母は「あなたに見合いの話が来ているのよ」と彼女に告げた。そのことについてパートナーと話し合いたくて、今夜こうしてウォーズマンを呼びだしたのだった。
「取りあえず釣書を送るからって言ってるの。でも、もちろん断るつもり」
「せっかくだから一度会ってみたらいいじゃないか」
まるきり期待していたのとは異なる返事に、彼女は眉をひそめた。
「……本気で言ってる?」
「どうしてだい?」
二人は会えば必ず朝までどちらかの家で過ごしているし、男女の仲になったのも昨日今日の話ではない。にも関わらず、無邪気、あるいは無垢にも思える口調でウォーズマンはたずね返した。
「あなたは本当に、それでいいの?」
「良いもなにもオレがとやかく言う話じゃないだろう」
「それじゃ私たちの関係っていったい何?」
ウォーズマンは彼女の気持ちから距離を置くように、テーブルの赤白チェックの模様に目を落として言った。
「いずれにせよオレと普通の人生は歩めないよ。オレは……ロボ超人だから」
「あなたがロボ超人だってことはよく知ってるわ。じゃあ、その上で聞くけれど、これからもずっとそんな風に未来と向き合わずに、思い出とだけ生きていくつもり?」
幼少期――両親が共に健在で、父・ミハイルマンがコンピューターの暴走により非業の最期を遂げるまで――のわずかな期間だけが、ウォーズマンの人生における明るい部分だった。少なくとも、彼自身はそう考えていた。当時を懐かしむ彼のまなざしや声音にも、そのことはハッキリと表れていた。慈しみでピカピカに磨き上げられたそれらの思い出たちを、彼女は己の油染みた手垢で不用意に汚したくなかった。だから今日までは、あえて彼の人生観に立ち入らず、傍観者でいた。
こんなふうに彼女に問い詰められたことなど今までなかったため、驚きととまどいから、思わずウォーズマンは眼をしばたたいた。もっとも彼の眼にまぶたなどなくて、赤い光がシパシパと数度またいただけだったが。
「どうしたの?今日はいつもの君じゃないみたいだ」
「せかすのって好きじゃないわ。でもね、お父さまやお母さまは昔のことばかり懐かしんでいるような生き方をあなたにして欲しいって思っていたかしら。今のあなたは悲しかった出来事を全部自分のせいにして、幸せになることから目を背けているように見えるわ」
彼女の真剣な口調と眼差しからは、何がなんでも相手から答えを引き出すぞ、という意気込みが感じられた。
「……君には判らないよ。普通の身体で産まれて、幸せに生きてきた人には。ロボットでもない、超人でもない、ましてや人間ですらない姿でオレはこの世に産まれてきた。出来損ないの超人としてみんなに石を投げられ、母にはその事で悲しい思いばかりさせた。そんなオレに幸せになる権利なんてないんだ」
「ねえ、ウォーズ。本当にあなたのお母さまの人生は不幸で悲しいことばかりだったの?」
「……」
それきり会話は途絶えた。
しばらく後でどちらからともなく「そろそろ帰ろうか」と席を立つと、「それじゃ」と声をかけあって店の前で二人は別れた。
そのまま数日が経ったが、どちらの側からも相手に連絡をすることはなかった。
その夜もウォーズマンは固いベッドの上で一晩中寝返りをうっていた。しかし、とうとう眠れが訪れることはなく、時刻はもはや払暁という頃合いになろうとしていた。
ロボ超人であるウォーズマンにとって、睡眠もしくは睡眠と同等の休息は、体内で制御されている全ての電気信号を遮断することでそれに替えることが出来る。だがその方法のみでは、生体部分の有機的統合性が損なわれる可能性があるため、可能な限り睡眠によって身体を休めることにしている。
そんな訳で彼は昨日も、つまり一昨日の晩とその前も、もっといえばその前も輾転反側しながら長い夜を過ごしていた。
彼女とは長く付き合ってきた。この先もお互いに関係を続ける意思があるのなら、それがより磐石で安定した状態に移行するのは、ごく自然な成り行きだということも充分承知している。
だけどあの夜、あと一歩がどうしても踏み出せなかった。
思いやり・優しさ・愛情。
あたたかな家庭を築き、誰かの親になるためにきっと必要不可欠なもの。
どれもリングのなかでなら、絶対的に信じられるのに。
人の輪のなかに入ってしまうと、どうしてもそれができない。
そんな自分に誰かと添いとげる資格などない。
考えごとを続けていたせいで小腹がすいた。しかしあの夜からずっと家にこもりきりで買い物に行っておらず、キッチンを捜しまわって出てきたのは、干からびかけた黒パンの一切れと粉末のインスタントスープが一袋だけだった。
ヤカンに水をそそいでをコンロにかけ、マグカップにインスタントスープをあける。やがてしゅんしゅんとヤカンが口から湯気を出し始めたので、沸いた湯をカップに注ぐ。ブイヨンとスパイスの香りが立ちのぼり、ウォーズマンの胃袋を刺激した。
とくに理由もなく、ウォーズマンは片方の手に持ったままだった黒パンを、スープに浸して口に運んだ。
その瞬間、彼の脳裏に懐かしい風景が稲光のようにひらめいた。
父・ミハイルマンの死後、母・ナターシャと彼は酸鼻をきわめる困窮にあえいでいた。その夜もテーブルにあったのは、古い黒パンと一皿ずつの薄い色をしたスープだけだった。
二人はパンをスープに浸し、大事に口にはこんだ。
「おいしいね」
そうして彼らは笑いあった。
カピカピに硬くなったパン、熱いだけが取りえのスープ。それでも食卓には愛と慈しみがあり、二人の心はこの上なく温かかった。
「……ああ、そうだった」
マグカップを握るウォーズマンの手は小刻みに震え、涙の粒がポツリと一つそこに落ちた。
いびつに閉じたカーテンの隙間から差しこんだ曙光が、それを明るく照らし出した。
あの夜のことを自分はなぜ忘れていたのだろう。
それからすぐに、ウォーズマンは彼女に電話をかけた。
「――もしもし?」
久しぶりに聞く彼女の声。
「やあ、おはよう……もしかして起こしてしまったかな」
「大丈夫よ、起きていたわ。おはよう」
「久しぶりだね。ええと、大丈夫かい、あれから」
「ありがとう、変わりないわ。あなたは?」
「考えていたんだ、ずっと。
それで思い出した。
『幸せになるのよ、ニコ』
マーマはそう言ってた……君の言ったとおりだった」
伝説超人(レジェンド)の名を冠されるロシアの黒い宝石は、電話の向こうで静かに泣いていた。
「ちゃんと食べているの?ニコ」
ついに彼女はまことの名で彼に呼びかけた。
「ええと、正直に言うと、さっき数日ぶりにパンを一枚」
「悲しくなるのはお腹が空いているからよ。今から行くわ。あなたに必要なのは身体が温まるものだと思うから」
彼女は飛ぶような勢いでやってくると、再会のハグもそこそこにキッチンにたち、あっという間に鍋いっぱいのスープをこしらえた。ウォーズマンは、ミートボールが幾つも入った栄養満点のそのスープをたっぷり腹におさめ、すっかり憑きものが落ちた顔で言った。
「……美味しかった。君の言うとおり、お腹が一杯になったら悲しいのも消えてなくなった。ありがとう」
彼女はウォーズマンのかたわらに立つと、相手の胸板にそっと手をそえた。
「わたし、決めたわ。これからはずっとあなたに寄りそって、あなたの心のなかに火を灯す。わたしはいつかあなたを置いて先に居なくなってしまうけれど、あなたが辛いときや悲しいとき、その灯火はきっとあなたを暖め続けてくれると思うから」
「……いいの?本当にそれで」
「これは相談じゃなくて報告よ」
ウォーズマンは己の胸にあてられた細い手をそっと取りあげ、口づけた。まるで、敬虔な信徒が漁夫の指輪へそうするように。それからその指を、仮面にあてて眼を閉じた。
「そばに居てくれてありがとう、愛しい君」
end
(初出:「夢みる頃を過ぎても」 2022.09)
ロシア出身の正義超人ウォーズマン――本名ニコライ・ボルコフ――にとって、ここは日本で母国の雰囲気に浸ることが出来る数少ない場所のひとつだった。
古本屋と称するより古書店という響きが似合うその店は、いかめしく古びた外観そのままに、書棚に並んだ本はどれも難解なタイトルが付いている。彼が産まれるよりもずっと前に発行された文学、哲学や思想など。追憶の海に飲みこまれてしまったような本たちに囲まれていると、まるで先達から人生の過ごし方を学んでいるような気分になって、いつも心のなかでホッと息をつく。
ひっそりとした佇まいは頁と頁のあいだに思い出をそっと挟みこんでようにもみえた。
そんなふうに彼が一冊の本に眼を通していると、店のドアが開いて彼女が姿を現した。
「やあ」
「お待たせ」
二人はいつもここでひっそりと待ち合わせをする。
ウォーズマンに歩みよった彼女は彼の手元をのぞきこんだ。
「何を読んでいるの?」
「このタイトル、ロシア語版しか出ていないんだ。あんまり出まわらなかったし。それで買おうかどうか迷ってるんだけど、もう少し読んでみてから決めていいかな?」
「いいわよ、わたし絵本でも見ているから」
「ありがとう」
ウォーズマンは再び手にした本に視線を落とす。
悩んだ末に彼は結局その本を買い求めた。古書店を後にした二人は(これもまた)ロシア料理の店「チャイカ」に腰を落ち着けた。
古い駅ビルのフロアの隅にポツンとある小さな店だ。ビルと同じだけの歳をとっていて、薄暗い店内は二人がけのテーブルが三つと四人がけのテーブルが二つ。ギンガムチェックのビニールのテーブルクロスはあまりにも長く使い込まれために少しべとつく感じがする。もちろん毎日キレイに拭き清められてはいるのだが。ここは誰かをつれて来てもてなすような類いの店ではなく、あくまで普段使い、自分の胃袋を充たすためにある。
テーブルに立てかけられた裏と表だけのメニューに記されているのは、盛り合わせの前菜と何種類かのスープに黒パン、魚と肉の料理が一つか二つ、その程度だ。
ウォーズマンは手にしたくだんの本をためつすがめつしながら語った。
「ちょっと高値(たか)い気もするんだけど、次にあの店に行ったときに無くなってたら後悔するだろうから」
嬉しそうな恋人の様子に彼女は眼を細めた。
「判るわ。わたし、先月デパートですてきなサンダルを見つけたのだけど、買おうかどうしようか迷っているうちにディスプレイから消えてしまったの。それからは似たデザインばかり探してしまうもの」
「そう言えば――」とウォーズマンが顔をあげた。
「――話があるって言ってたよね?何だろう」
「実はね、実家から連絡があったの」
彼女は若い頃に地方の実家を離れ、それからずっと東京でひとり暮らしをしている。
数日前に珍しく母親から電話がかかってきた。互いの近況を確認したあとで母は「あなたに見合いの話が来ているのよ」と彼女に告げた。そのことについてパートナーと話し合いたくて、今夜こうしてウォーズマンを呼びだしたのだった。
「取りあえず釣書を送るからって言ってるの。でも、もちろん断るつもり」
「せっかくだから一度会ってみたらいいじゃないか」
まるきり期待していたのとは異なる返事に、彼女は眉をひそめた。
「……本気で言ってる?」
「どうしてだい?」
二人は会えば必ず朝までどちらかの家で過ごしているし、男女の仲になったのも昨日今日の話ではない。にも関わらず、無邪気、あるいは無垢にも思える口調でウォーズマンはたずね返した。
「あなたは本当に、それでいいの?」
「良いもなにもオレがとやかく言う話じゃないだろう」
「それじゃ私たちの関係っていったい何?」
ウォーズマンは彼女の気持ちから距離を置くように、テーブルの赤白チェックの模様に目を落として言った。
「いずれにせよオレと普通の人生は歩めないよ。オレは……ロボ超人だから」
「あなたがロボ超人だってことはよく知ってるわ。じゃあ、その上で聞くけれど、これからもずっとそんな風に未来と向き合わずに、思い出とだけ生きていくつもり?」
幼少期――両親が共に健在で、父・ミハイルマンがコンピューターの暴走により非業の最期を遂げるまで――のわずかな期間だけが、ウォーズマンの人生における明るい部分だった。少なくとも、彼自身はそう考えていた。当時を懐かしむ彼のまなざしや声音にも、そのことはハッキリと表れていた。慈しみでピカピカに磨き上げられたそれらの思い出たちを、彼女は己の油染みた手垢で不用意に汚したくなかった。だから今日までは、あえて彼の人生観に立ち入らず、傍観者でいた。
こんなふうに彼女に問い詰められたことなど今までなかったため、驚きととまどいから、思わずウォーズマンは眼をしばたたいた。もっとも彼の眼にまぶたなどなくて、赤い光がシパシパと数度またいただけだったが。
「どうしたの?今日はいつもの君じゃないみたいだ」
「せかすのって好きじゃないわ。でもね、お父さまやお母さまは昔のことばかり懐かしんでいるような生き方をあなたにして欲しいって思っていたかしら。今のあなたは悲しかった出来事を全部自分のせいにして、幸せになることから目を背けているように見えるわ」
彼女の真剣な口調と眼差しからは、何がなんでも相手から答えを引き出すぞ、という意気込みが感じられた。
「……君には判らないよ。普通の身体で産まれて、幸せに生きてきた人には。ロボットでもない、超人でもない、ましてや人間ですらない姿でオレはこの世に産まれてきた。出来損ないの超人としてみんなに石を投げられ、母にはその事で悲しい思いばかりさせた。そんなオレに幸せになる権利なんてないんだ」
「ねえ、ウォーズ。本当にあなたのお母さまの人生は不幸で悲しいことばかりだったの?」
「……」
それきり会話は途絶えた。
しばらく後でどちらからともなく「そろそろ帰ろうか」と席を立つと、「それじゃ」と声をかけあって店の前で二人は別れた。
そのまま数日が経ったが、どちらの側からも相手に連絡をすることはなかった。
その夜もウォーズマンは固いベッドの上で一晩中寝返りをうっていた。しかし、とうとう眠れが訪れることはなく、時刻はもはや払暁という頃合いになろうとしていた。
ロボ超人であるウォーズマンにとって、睡眠もしくは睡眠と同等の休息は、体内で制御されている全ての電気信号を遮断することでそれに替えることが出来る。だがその方法のみでは、生体部分の有機的統合性が損なわれる可能性があるため、可能な限り睡眠によって身体を休めることにしている。
そんな訳で彼は昨日も、つまり一昨日の晩とその前も、もっといえばその前も輾転反側しながら長い夜を過ごしていた。
彼女とは長く付き合ってきた。この先もお互いに関係を続ける意思があるのなら、それがより磐石で安定した状態に移行するのは、ごく自然な成り行きだということも充分承知している。
だけどあの夜、あと一歩がどうしても踏み出せなかった。
思いやり・優しさ・愛情。
あたたかな家庭を築き、誰かの親になるためにきっと必要不可欠なもの。
どれもリングのなかでなら、絶対的に信じられるのに。
人の輪のなかに入ってしまうと、どうしてもそれができない。
そんな自分に誰かと添いとげる資格などない。
考えごとを続けていたせいで小腹がすいた。しかしあの夜からずっと家にこもりきりで買い物に行っておらず、キッチンを捜しまわって出てきたのは、干からびかけた黒パンの一切れと粉末のインスタントスープが一袋だけだった。
ヤカンに水をそそいでをコンロにかけ、マグカップにインスタントスープをあける。やがてしゅんしゅんとヤカンが口から湯気を出し始めたので、沸いた湯をカップに注ぐ。ブイヨンとスパイスの香りが立ちのぼり、ウォーズマンの胃袋を刺激した。
とくに理由もなく、ウォーズマンは片方の手に持ったままだった黒パンを、スープに浸して口に運んだ。
その瞬間、彼の脳裏に懐かしい風景が稲光のようにひらめいた。
父・ミハイルマンの死後、母・ナターシャと彼は酸鼻をきわめる困窮にあえいでいた。その夜もテーブルにあったのは、古い黒パンと一皿ずつの薄い色をしたスープだけだった。
二人はパンをスープに浸し、大事に口にはこんだ。
「おいしいね」
そうして彼らは笑いあった。
カピカピに硬くなったパン、熱いだけが取りえのスープ。それでも食卓には愛と慈しみがあり、二人の心はこの上なく温かかった。
「……ああ、そうだった」
マグカップを握るウォーズマンの手は小刻みに震え、涙の粒がポツリと一つそこに落ちた。
いびつに閉じたカーテンの隙間から差しこんだ曙光が、それを明るく照らし出した。
あの夜のことを自分はなぜ忘れていたのだろう。
それからすぐに、ウォーズマンは彼女に電話をかけた。
「――もしもし?」
久しぶりに聞く彼女の声。
「やあ、おはよう……もしかして起こしてしまったかな」
「大丈夫よ、起きていたわ。おはよう」
「久しぶりだね。ええと、大丈夫かい、あれから」
「ありがとう、変わりないわ。あなたは?」
「考えていたんだ、ずっと。
それで思い出した。
『幸せになるのよ、ニコ』
マーマはそう言ってた……君の言ったとおりだった」
伝説超人(レジェンド)の名を冠されるロシアの黒い宝石は、電話の向こうで静かに泣いていた。
「ちゃんと食べているの?ニコ」
ついに彼女はまことの名で彼に呼びかけた。
「ええと、正直に言うと、さっき数日ぶりにパンを一枚」
「悲しくなるのはお腹が空いているからよ。今から行くわ。あなたに必要なのは身体が温まるものだと思うから」
彼女は飛ぶような勢いでやってくると、再会のハグもそこそこにキッチンにたち、あっという間に鍋いっぱいのスープをこしらえた。ウォーズマンは、ミートボールが幾つも入った栄養満点のそのスープをたっぷり腹におさめ、すっかり憑きものが落ちた顔で言った。
「……美味しかった。君の言うとおり、お腹が一杯になったら悲しいのも消えてなくなった。ありがとう」
彼女はウォーズマンのかたわらに立つと、相手の胸板にそっと手をそえた。
「わたし、決めたわ。これからはずっとあなたに寄りそって、あなたの心のなかに火を灯す。わたしはいつかあなたを置いて先に居なくなってしまうけれど、あなたが辛いときや悲しいとき、その灯火はきっとあなたを暖め続けてくれると思うから」
「……いいの?本当にそれで」
「これは相談じゃなくて報告よ」
ウォーズマンは己の胸にあてられた細い手をそっと取りあげ、口づけた。まるで、敬虔な信徒が漁夫の指輪へそうするように。それからその指を、仮面にあてて眼を閉じた。
「そばに居てくれてありがとう、愛しい君」
end
(初出:「夢みる頃を過ぎても」 2022.09)
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