ここに分類不可の三題噺を置きます。

三題噺(月面の切手、鉛筆の芯の匂い、等速直線)

2026/01/05 20:13
月の裏側まで届く切手はありますか。幼い頃、郵便局でそう訊ねたことがある。郵便窓口に立っていたのは初老のお爺さんで、郵便局はさほど混んでいなかったから、にこやかに対応してくれた。
『月の裏までなんて、誰に手紙を出すのかな?』
『??分からない。誰かに届けたい』
その時の自分は、月の裏側に誰かがいるって、本気で信じていたのだ。お爺さんは、切手が仕舞われた棚をがさごそと見て、1枚シートの切手を出してきた。
『今は秋だから、中秋の名月のシートがあるけど……お金はあるかい?』
『84円』
『そっか。これは10枚でひとつの切手だから、840円するんだよ』
ごめんね、とお爺さんが困った顔で微笑むので、とんでもないです、と咄嗟に大人びた言葉が飛び出して、お爺さんは声を出して笑っていた。恥ずかしくなって、郵便局を出た。84円で月の裏側まで、なんて随分無茶なことを言ったなぁと思った。でも、宇宙飛行士になろうとは思わなかったんだ。

時代は流れる、時は止まらない。地球も月も回り続ける。それでも目を回さずにここまで生きてきた。立派なもんだ。月面の切手を貼った封筒、宛先は過去の自分へ。月の引力で等速直線を引きちぎって、届いたりしないだろうか。僕の記憶には存在しないから、おそらく届くことはないのだろう。久々に紙に文字を書く。鉛筆の芯の匂いに、なぜかくしゃみが出た。月の裏側に誰かいるのか、確かめるのはやめてしまった。他の誰かの仕事に期待する。だからね、君だけはこの謎を忘れずに、ぎゅっと握り続けて欲しい。月の裏側に行く方法、返事を貰う方法。たくさん考えて欲しい。僕にはもう、忙しくてその時間がない。ぽたり、と便箋に滴が落ちる。おいおい、と逆に笑けてきた。泣くほど切ないのなら、今からやり直したって遅くはないだろ。今書いているこの手紙は、過去の自分からのエールだ。鉛筆を置き、便箋を折って、切手の貼った封筒に入れた。差出人も受取人も、僕。『未来の自分からの手紙を受け取る』幼い頃の僕のミッションが、ひとつ終わった。

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