名前なき綺羅星

このアパートは内陸に建っており、海とは無縁の地域だ。そんなものが床下に届くわけもない。しかし、現実には確かに海水がここにあり、何故かフローリングは切り取られているのだ。何もかもが変である。もしかして、私はまだ夢の中で、身体はベットに横たわっているのではないだろうか。そうは思ったものの、あまりにはっきりとした自分の思考と、さっき飲んだ水の鮮明さに自分は起きていると言わざるを得なかった。確かに、これは現実である、と脳が判断している。
「しかし、こんなことは起こりうるのだろうか。そもそも、現実とは?」
私はたまに思考にふけるクセがあって、自分の存在の不確かさに頭を悩ませることも少なくない。ここに私が生きている。その事実を私の意識以外で、どう証明出来ようか。我思う故に我あり、とデカルトは説いたが、それすら誰かの妄想の一部であったのなら。私という存在は、誰かにとって飼い慣らせない金魚のようなものであったとしたら。この世界そのものが、泡沫の夢であったとしたら。そう考えると、決まって自分の命に重さを見出せず落ち込んでしまうのだが、今夜に限っては良い方向に効果した。そう、現実などなにも信用出来ないのだから、なにが起こっても不思議ではない。ありのままに今を受け止めよう。私の住んでいるのはアパートの三階の部屋であり、そのリビングのフローリングがひとつめくれていて、その下には海水がある。何故か今夜はそうなっているのだ。
「しかし、こんな冷たい海水、いったいどこから」
今の季節は初夏であり、各地で海開きが始まった頃だ。私はドライブが趣味で、よく海岸線に出るから普通の海水の水温は知っている。でも、ここにある海水は明らかに冷たかった。もう一度触れてみる。やはり、刺すように冷たい。試しに、テーブルに転がっていた体温計を差し込んでみた。五度を表示し、すぐにエラーが出てしまった。恐らく、それくらいの水温なのだろう。私は体温計を放り出し、顔を近づけて暗闇を改めて見た。水面だというのに、なにも映さない。青く煌めく海辺とは違う。これは、もっともっと深くの、私達の知らない世界だ。
「深海、ということ……?」
やはり信じられないが、そのまま現実を受け止めると決めた。どうやら、この暗闇の正体は深海であるようだ。地球の七割を占める海の、更にその八割が深海と呼ばれる。そう考えれば、人間の生きていける陸地とはなんと狭いことだろうか。この暗闇を生きていけたら、地球の半分以上が手に入るのに。そこまで考えついて、ひょっとしたらこの深海に続く部屋は、金儲けに使えるのではと思い立つ。そうだ、研究に莫大な資金をかけても、未だに未知の世界である深海。それがこんなにも身近にあるのだ。研究者が喰いつかないわけがない。第一発見者として、私は大いに感謝されるだろう。そうと決まれば、少しでもこの深海との理解を深めなければ。
「深海魚も、確か光に集まるはず」
スマホのライトをもう一度つけ、なにも見えない深海を照らす。しばらく、じっと見つめ続けた。その間、今までの自分の惨めな人生を思い起こす。生まれてこの方、親に恵まれず友に恵まれず、暗い学生生活を過ごし、ただ生きるためだけに朝な夕な働いてきた。そんな生活とは、もうおさらば出来る。暗闇を見つめる自分の瞳は、夢を思い描いてさぞかしキラキラと光っていることだろう。そうこうしてるうちに、海水が揺らめいたのが分かった!なにかいる、得体の知れないなにかが。ワクワクしながら、その姿を捕えようと必死になる。えーっと、フラッシュ撮影はどうするのだっけ。一瞬、深海から目を離した時だった。

そこで、私の意識は途絶えている。最後に見たのはスマホの画面。最後に聞こえたのはバキバキと木の砕かれるような轟音で、身体全体が冷たくヌメヌメしたものに包まれた。なにが起こったのか、見当もつかない。だが、現実をそのまま受け止めるとすると、あと数分で私の命は尽きるのだろう。
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