本編
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目が醒めるような綺麗な顔だと思った。普段他人の顔を覚えるのが苦手で、興味のない私が。
「……弓場さん、そのチビ誰」
拓磨と廊下ですれ違ったから、駆け寄って話していた。すると、後ろから現れて針のように美しい声で、そう問われた。綺麗な容姿に、耽美な声。それとは不釣り合いに、不機嫌そうな態度。少し怖かった。表情にも態度にも、出さないように見つめ返したけど。
「小林莉子だよ。太刀川隊の、小林莉子」
「太刀川隊?君が?」
彼は訝しげに私を睨む。この反応、慣れてきたな。やっぱりちょっと私は力不足だって太刀川さん。ここにいない人に助けを求めても仕方ないけど。代わりに拓磨に視線をやる。拓磨はため息を吐いた。
「俺の隊に来た、王子だ。悪い奴じゃねぇ」
「王子くん」
「なんで太刀川隊のこの人と、弓場さんは仲良さげなの?」
王子くんはさっきから質問ばかりだ。思考癖でもあるのか。アイスブルーの瞳は、なにかを裁くように真っ直ぐ澄んでいた。
「幼馴染だよ」
「ふーん…………」
王子くんは、どこか納得いかない顔をして、でもそれ以上は質問してこなかった。沈黙が流れる。私はどうしたらいいか分からなくて、また拓磨を見た。拓磨はメガネをくいっと上げる。え、なんか悩んでんの?拓磨がなにか考えているようなので、いよいよ私は何を話せばいいのか分からなくなる。
「……行くぞ。莉子、あとでな」
「あ、うん。あとで……」
拓磨がさっさと行ってしまうので、この場はお開きになる。王子くんは拓磨について行く。去り際、ちらっとこちらに視線を寄越した。気に食わないというように、すぐに逸らした。私の戸惑いだけが残された。
それからしばらく、王子くんに会うことはなくて忘れていた。ある日、拓磨と無駄話でもしようと、結成したばかりの弓場隊隊室に向かった。そこで鉢合わせた。王子くんは思いっきり顔に傷を作っていた。反射的に、駆け寄る。
「どうしたの、それ!?」
「ちっ……君には関係ないよ」
明らかに迷惑そうに、王子くんは私を睨んだ。隊室には王子くん以外いなくて、私はどこにあるかも分からない救急箱を探す。太刀川隊隊室にもあるんだから、あるはずだ。
「ちょっと、余計なことしないで」
「余計なことってなに。手当てしなきゃ」
「僕が傷つこうが死のうが、関係ないでしょ」
「関係ある!!」
言い草がとても気に食わなくて、思わず大声を上げた。王子くんは虚を突かれたようで、目を見開いている。それでも、すぐに私を睨み返した。
「どう関係あるって言うのさ。僕が傷ついても、君が傷つくわけじゃないだろう」
「あのね、私はそういう自傷癖の言い分が、一番大嫌いなんだ」
自分が傷つくことで、悲しむ誰かを想定出来ない人間が嫌いで、許せなかった。どんなに自分が苦しくても、自分を傷つけることは周囲を不幸にすると理解していた。彼は、私の地雷を踏んだのだ。
「僕が傷つくことで誰が傷つこうと、知ったこっちゃないね。この身体は僕のものだ」
吐き捨てるように笑う彼の、傷ついてない右頬を平手打ちする。私は感情が昂って泣きそうになるのを、拳を握り込んで我慢した。彼は変わらず冷めた瞳で私を見る。
「……なにするのさ」
「許さない。あんたには愛してくれる人間が1人もいないって言うの?」
「だからそれ、今の君の行動に関係あるかい?」
「あるよ。もし、1人もいないって開き直るなら、私がその1人になってやるし、それでも自傷をやめないって言うなら、俺があんたを殺してやる」
「は」
「愛を貰っても自分を大事に出来ない奴は、死ね」
目の前にいる女が、何故こんなにも苦しそうに怒っているのかが、理解が出来なかった。愛してくれる一人になる?随分と迂闊なことを言うものだ。
「ちょっと待ってよ。そんなに自分を傷つけることが悪いことかい?」
「悪いよ」
「僕の身体は、正真正銘僕のものでしかないのに?」
「そうだとしても、自分をないがしろにして誰かを傷つけるのは悪だ」
声には憎しみが滲んでいた。頬の痛みも忘れて、なにが彼女をこうさせるのかに興味が出てきた。身体を少し起こして、正す。彼女は息を吐くと、項垂れるように椅子に座った。
「君は僕を愛すると言ったね。それでも、僕が僕を傷つけるのをやめなければ殺すの?」
「殺してやりたいと思う」
今度は疲れた声で、そう答える。可笑しな理屈だ。だって、筋が通らないじゃないか。僕みたいなのを殺したことで、君が罪を背負うのを悲しむ人間はいないのか?こんな、すれ違っただけの、下の名前も知らないだろう後輩に愛をばら撒いて。それで悲しむ人間はいないのか?弓場さんがこの人に寄越していた視線は、確かに特別なものだったぞ。それを放り投げて、僕を愛のために殺すのか?イカれているだろ。
「……分かった。自分を無闇に傷つけるのは、もうやめる」
それでも、貴方の要求を飲んでやることにした。飲んだフリ、しか出来ないかもだけど。彼女の言い分が、なに一つ分からないわけではない。そこまで分からず屋ではない。僕が傷つくことで、悲しむ人間もいるんだろう。
「うん、よかった」
彼女は力無く、僕の側に移動してきて、そっと左頬の傷の手当てをした。さっきまで殺すと怒っていた人物と思えないほど、優しい手だった。
「怒鳴ってごめん。平手打ちも」
「別にいいよ。その代わり、自分の言葉には責任もって」
「??うん」
よく分かってないような顔で、貴方は頷く。本当に迂闊で、隙だらけで、脆そう。なにも知らずに薄氷の上に立っているようだ。この人を、僕はどうしよう。縁は結ばれた。恐らくこの人は、こんな出鱈目みたいな絆をたくさん持っているんだろう。別に一番になりたいとかは思わない。けれど、貴方が僕を殺そうとしたように、僕も貴方になにか、刺すようにくれてやりたい。その間抜けな顔が歪むように、鋭く尖った一撃を。
「莉子さん、って呼んでいい?」
「もちろん。というか、名前覚えてたんだ」
「そりゃ、覚えるでしょそれくらい」
「私、名前覚えるの苦手」
莉子さんは救急箱を元の棚に戻した。そうして、また椅子に座る。そういえば、この人ここになにしに来たんだろう。
「一彰、だよ。僕の名前」
「そうなんだ。いい名前だね」
そうは言っても、多分呼んではくれないんだろうな。この人が名前を呼ぶ基準も、まだ知らない。なにも知らない。ただ、とんでもなく変な人ってことだけ。ねぇ、なにが貴方を貴方にしたの?
「王子くん、なんで拓磨の隊に来たの?」
「面白そうな人だったから」
「そういうもの?」
逆に他のものさしはいるのか?僕は大体、それだけで生きているのだけど。ややこしい御託はいらない。シンプルな尺度だけでいいじゃない。
「莉子さんは、なんで太刀川隊に?」
「スカウトされた」
「なんで?」
「なんでだろうなぁ……」
莉子さんは苦笑した。ちゃんと分析してもらわなきゃ。面白そうだから。そうだ、御託とか建前とかどうでもいいから、剥き出しの貴方を面白おかしく観察したいよ。貴方の周りを含めて。こんな解剖的な僕を、それでも君は愛せると言える?どっちに転んでも僕は面白いから、勝負しようよ。
スマートフォンがぶるぶると震えるので、目を覚ました。眉間に皺を寄せながら、スマホを手繰り寄せる。明るく光る画面には、王子一彰の文字。スピーカーをオンにして出る。
「もしもし」
「おはよ、莉子さん。寝てた?」
「寝てた……」
「もう8時半だよ、起きて」
おそらく王子は登校の途中で、ざわざわとした喧騒が耳に入ってくる。あぁ、みんなはとっくに活動してる時間なのか。少し自分を後ろめたくなる。ひとつ寝返りを打ち、毛布に包まる。
「うーん……」
「ね、今日の15時以降空いてない?僕放課後暇なんだ」
王子は私にお構いなく話を続ける。電話にしてもそう。王子はよく電話をしてくるが、私の都合は考えてないと思う。別に都合に合わせることが出来なくても、不機嫌になったり怒ることもないが。
「いいよ、空いてるよ。なにかする?」
「いつもみたいにお茶しながら話したいな」
「分かった、駅前ね」
「ねぇ、たまには僕のこと迎えに来ない?」
王子は私を気遣わない。いつも無邪気に問いを投げる。私のことを、まだなにも知らないとでも言うように。
「私は学校には行かないよ」
「そりゃそうだよね。ごめん、傷ついた?」
「それくらいじゃ傷つかないけどさ」
王子のおかげで、慣れた部分もある。別に私は可哀想じゃないし、堂々としていていい。王子の質問責めには最初は戸惑ったが、今は自分を見つめ直すきっかけにしている。
「そうか、それならよかった。今日は寒いよ。あったかくしてきてね」
「……本当に?」
以前、外の気温については嘘を吐かれたことがあるので警戒する。王子本人は「僕にとっては暑かったんだよ」と、嘘か本当か分からない笑みで言っていたけれど。
「心配なら、自分で確かめてみるといいよ」
「んーそうだね」
「莉子さんの場合、遅くなっても弓場さんが迎えに来るから問題ないだろうけどね?」
「それはそう」
当然のように答えて、一呼吸置いてひょっとして揶揄われたのか?と思い当たる。
「平然としてるのは、恥ずかしがってるの?それとも当たり前と思ってる?」
「後者だけど、そう言われると恥ずかしくなってきた……」
揶揄われていたようだ。揶揄われるのは慣れないし、嫌だ。
「恥ずかしいのは、やっぱり」
「王子。それ以上は嫌だ」
嫌なことは嫌と言っていい。周りから言われたし、王子本人からも言われている。意思表示は、ちゃんとしなくちゃダメだよと。私は意外と出来ていないようで(蓮ちゃんとかに言われる)、最近意識するようにしている。
「ん。分かった」
王子は嫌と言えば、それ以上追求することはない。しばらく無言で通話を繋ぐ。雑踏と風の吹く音だけが聞こえる。
「……そろそろ学校着いちゃうや。じゃあ、またあとでね」
「はいはい、あとでね」
「ちゃんと起きてね?二度寝しちゃダメだよ」
「……はーい」
「信用ならない返事だなぁ」
電話の向こうで、薄く空気を揺らすような笑い声が聞こえる。だって、眠いもん。寝ていれば、心が乱れることは少ない。なにも予定がない、なにも出来ない時間が減るから、どうしても睡眠に逃げてしまう。
「今日もちゃんといい日だよ。貴方が望むなら」
なにかを察したように、王子がそう言って私を慰める。私が望めば、か。寝ていても果報は来ない。行動しなければ。
「分かった、起きる」
「うん、素直でよろしい」
ビー玉に透かした光のように、澄んだ綺麗な声だと思う。君の問いに心を委ねて、自分という地図を旅するのは面白くて、楽しい。鬱陶しいこともあるけれど、王子が側に寄ることを許すのは、知らない自分に出会えるから。
「それじゃ、今度こそまたあとで」
電話が切れた。身体を起こす。窓の隙間から漏れる光で、外の明るさを知る。今日は本当に寒いだろうか。確かめる為に、着替えよう。まずは朝食を摂って服薬だ。
莉子さんと待ち合わせて、駅近のラメールに行く。チェーン店よりは気持ちお値段張るけど、行けないほど高くはなく、店内も落ち着いているのでよく莉子さんと入る。莉子さんはおそらく、週4くらいの頻度で来てるんじゃないだろうか。それぞれ別の人と。末恐ろしい人だなぁと思う。
「なに飲もうかな」
莉子さんがメニューを見る様子を、つぶさに観察する。莉子さんがなにを頼むのか、当てるゲームを1人でしていることは内緒。僕は決まってカフェラテを頼む。
「ホットの紅茶、今日はダージリンにしてみよう」
残念、ハズレか。アッサムを頼むと思った。いつもはそうするのに、今日は冒険心のある日なのかな?注文を済ませて、穏やかな時間の流れを楽しむ。莉子さんは僕が喋るまで話さない。僕には、そういう態度。他人によって微妙に態度というか、接し方が違うのも知っている。この人の中では、平等な接し方らしいけど。明確に、好きな人の優先順位がある。僕はそのランキングの詳細が知りたくてたまらない。
「莉子さんにとって、過去ってなに?」
今日の議題はこれにした。莉子さんはスマホを弄る手を止めると、気怠げに僕を見る。僕の頭の少し上を見つめ、首を動かしながら考える。答えを待っている沈黙の、期待にも似た震えが好きだ。
「うーん、選べないもの、かな」
「選べない、か」
そういう表現を使うんだ。興味深いな。先を促すように目配せする。莉子さんは紅茶を一口飲むと、そっと薄い口を開いた。
「過去は、どうあがいても変えられないから。選び直したりは出来ない」
「変えられない、って表現じゃないのは何故?」
「うーん、そういえばなんでだろ……」
自分で言い出したことなのに、莉子さんはうんうんと悩み始めた。自分で口にして初めて意味を知ったり、口にするまで分からないことがある。人間とは、不思議なものだ。莉子さんは、どこまでも人間臭いと思う。
「……意味合いは、変えられるからかな」
「ふぅん?」
「過去って、選んだりは出来ないけど、自分の受け取り方次第で結果は変えられると思うんだよ。満足するかしないかは、自分次第のところが大きくて」
「それは、確かにそうだね」
莉子さんにしては、真っ当な考え方かと思う。おそらく正解に近い。正解の基準は、神様とか大多数じゃなく僕だけどね。選べないって言い方、面白くて好きだな。僕が口角をあげると、莉子さんは気まずそうに視線を逸らした。そんなつれない態度、しなくてもいいじゃない。
「満足したの?」
「うん、面白いな〜と思ってね」
「そんな面白がられてもな……私は真面目に答えてるんだけど」
「リコピンはいつでも真面目だよね」
たまにあだ名で呼んで、反応を見る。あだ名に関しては、なんとも思ってないようだけど。真面目、というのが気に入らなかったらしく、莉子さんは顔を歪める。
「別に真面目でもないけど……」
「いいと思うよ?真面目なのは美徳だ」
微笑んでも、莉子さんの眉間の皺は取れなかった。どうしようかな。あんまり機嫌を損ねちゃうと、弓場さんも怖い。
「選べないって表現、とても好きだよ。莉子さんらしいと思う」
「うーん、そう?」
「うん。選んできた結果が過去だと、僕は思うけど」
「あー確かにそう言われるとそうだな」
莉子さんは腕を組んで、また悩み始める。やっぱりどこまでも真面目だし、そもそも自分で真面目って言ったよ。莉子さんはそういう部分で、苦労もしてきたのは知っているけど、やっぱり僕は莉子さんは莉子さんのままがいいよ。こんな話、付き合ってくれる人間は少ないし。
「現在から見ると過去は選べないけど、過去も現在だった時間はあるわけで、そう考えると選んでいるのかもなぁ」
「そうだね。読み方で変わるね」
「取り返しがつかない、のがしっくりくるかなぁ」
「僕は選べないって方が好きだけどね」
「王子が反論したのに?」
莉子さんは呆れたように、ようやく笑ってくれた。明日にはこんな時間も過去になる。選べないんだから、慎重に大切に過ごして欲しい。危うさしかないアンバランスな貴方に、親愛を込めて。
「……弓場さん、そのチビ誰」
拓磨と廊下ですれ違ったから、駆け寄って話していた。すると、後ろから現れて針のように美しい声で、そう問われた。綺麗な容姿に、耽美な声。それとは不釣り合いに、不機嫌そうな態度。少し怖かった。表情にも態度にも、出さないように見つめ返したけど。
「小林莉子だよ。太刀川隊の、小林莉子」
「太刀川隊?君が?」
彼は訝しげに私を睨む。この反応、慣れてきたな。やっぱりちょっと私は力不足だって太刀川さん。ここにいない人に助けを求めても仕方ないけど。代わりに拓磨に視線をやる。拓磨はため息を吐いた。
「俺の隊に来た、王子だ。悪い奴じゃねぇ」
「王子くん」
「なんで太刀川隊のこの人と、弓場さんは仲良さげなの?」
王子くんはさっきから質問ばかりだ。思考癖でもあるのか。アイスブルーの瞳は、なにかを裁くように真っ直ぐ澄んでいた。
「幼馴染だよ」
「ふーん…………」
王子くんは、どこか納得いかない顔をして、でもそれ以上は質問してこなかった。沈黙が流れる。私はどうしたらいいか分からなくて、また拓磨を見た。拓磨はメガネをくいっと上げる。え、なんか悩んでんの?拓磨がなにか考えているようなので、いよいよ私は何を話せばいいのか分からなくなる。
「……行くぞ。莉子、あとでな」
「あ、うん。あとで……」
拓磨がさっさと行ってしまうので、この場はお開きになる。王子くんは拓磨について行く。去り際、ちらっとこちらに視線を寄越した。気に食わないというように、すぐに逸らした。私の戸惑いだけが残された。
それからしばらく、王子くんに会うことはなくて忘れていた。ある日、拓磨と無駄話でもしようと、結成したばかりの弓場隊隊室に向かった。そこで鉢合わせた。王子くんは思いっきり顔に傷を作っていた。反射的に、駆け寄る。
「どうしたの、それ!?」
「ちっ……君には関係ないよ」
明らかに迷惑そうに、王子くんは私を睨んだ。隊室には王子くん以外いなくて、私はどこにあるかも分からない救急箱を探す。太刀川隊隊室にもあるんだから、あるはずだ。
「ちょっと、余計なことしないで」
「余計なことってなに。手当てしなきゃ」
「僕が傷つこうが死のうが、関係ないでしょ」
「関係ある!!」
言い草がとても気に食わなくて、思わず大声を上げた。王子くんは虚を突かれたようで、目を見開いている。それでも、すぐに私を睨み返した。
「どう関係あるって言うのさ。僕が傷ついても、君が傷つくわけじゃないだろう」
「あのね、私はそういう自傷癖の言い分が、一番大嫌いなんだ」
自分が傷つくことで、悲しむ誰かを想定出来ない人間が嫌いで、許せなかった。どんなに自分が苦しくても、自分を傷つけることは周囲を不幸にすると理解していた。彼は、私の地雷を踏んだのだ。
「僕が傷つくことで誰が傷つこうと、知ったこっちゃないね。この身体は僕のものだ」
吐き捨てるように笑う彼の、傷ついてない右頬を平手打ちする。私は感情が昂って泣きそうになるのを、拳を握り込んで我慢した。彼は変わらず冷めた瞳で私を見る。
「……なにするのさ」
「許さない。あんたには愛してくれる人間が1人もいないって言うの?」
「だからそれ、今の君の行動に関係あるかい?」
「あるよ。もし、1人もいないって開き直るなら、私がその1人になってやるし、それでも自傷をやめないって言うなら、俺があんたを殺してやる」
「は」
「愛を貰っても自分を大事に出来ない奴は、死ね」
目の前にいる女が、何故こんなにも苦しそうに怒っているのかが、理解が出来なかった。愛してくれる一人になる?随分と迂闊なことを言うものだ。
「ちょっと待ってよ。そんなに自分を傷つけることが悪いことかい?」
「悪いよ」
「僕の身体は、正真正銘僕のものでしかないのに?」
「そうだとしても、自分をないがしろにして誰かを傷つけるのは悪だ」
声には憎しみが滲んでいた。頬の痛みも忘れて、なにが彼女をこうさせるのかに興味が出てきた。身体を少し起こして、正す。彼女は息を吐くと、項垂れるように椅子に座った。
「君は僕を愛すると言ったね。それでも、僕が僕を傷つけるのをやめなければ殺すの?」
「殺してやりたいと思う」
今度は疲れた声で、そう答える。可笑しな理屈だ。だって、筋が通らないじゃないか。僕みたいなのを殺したことで、君が罪を背負うのを悲しむ人間はいないのか?こんな、すれ違っただけの、下の名前も知らないだろう後輩に愛をばら撒いて。それで悲しむ人間はいないのか?弓場さんがこの人に寄越していた視線は、確かに特別なものだったぞ。それを放り投げて、僕を愛のために殺すのか?イカれているだろ。
「……分かった。自分を無闇に傷つけるのは、もうやめる」
それでも、貴方の要求を飲んでやることにした。飲んだフリ、しか出来ないかもだけど。彼女の言い分が、なに一つ分からないわけではない。そこまで分からず屋ではない。僕が傷つくことで、悲しむ人間もいるんだろう。
「うん、よかった」
彼女は力無く、僕の側に移動してきて、そっと左頬の傷の手当てをした。さっきまで殺すと怒っていた人物と思えないほど、優しい手だった。
「怒鳴ってごめん。平手打ちも」
「別にいいよ。その代わり、自分の言葉には責任もって」
「??うん」
よく分かってないような顔で、貴方は頷く。本当に迂闊で、隙だらけで、脆そう。なにも知らずに薄氷の上に立っているようだ。この人を、僕はどうしよう。縁は結ばれた。恐らくこの人は、こんな出鱈目みたいな絆をたくさん持っているんだろう。別に一番になりたいとかは思わない。けれど、貴方が僕を殺そうとしたように、僕も貴方になにか、刺すようにくれてやりたい。その間抜けな顔が歪むように、鋭く尖った一撃を。
「莉子さん、って呼んでいい?」
「もちろん。というか、名前覚えてたんだ」
「そりゃ、覚えるでしょそれくらい」
「私、名前覚えるの苦手」
莉子さんは救急箱を元の棚に戻した。そうして、また椅子に座る。そういえば、この人ここになにしに来たんだろう。
「一彰、だよ。僕の名前」
「そうなんだ。いい名前だね」
そうは言っても、多分呼んではくれないんだろうな。この人が名前を呼ぶ基準も、まだ知らない。なにも知らない。ただ、とんでもなく変な人ってことだけ。ねぇ、なにが貴方を貴方にしたの?
「王子くん、なんで拓磨の隊に来たの?」
「面白そうな人だったから」
「そういうもの?」
逆に他のものさしはいるのか?僕は大体、それだけで生きているのだけど。ややこしい御託はいらない。シンプルな尺度だけでいいじゃない。
「莉子さんは、なんで太刀川隊に?」
「スカウトされた」
「なんで?」
「なんでだろうなぁ……」
莉子さんは苦笑した。ちゃんと分析してもらわなきゃ。面白そうだから。そうだ、御託とか建前とかどうでもいいから、剥き出しの貴方を面白おかしく観察したいよ。貴方の周りを含めて。こんな解剖的な僕を、それでも君は愛せると言える?どっちに転んでも僕は面白いから、勝負しようよ。
スマートフォンがぶるぶると震えるので、目を覚ました。眉間に皺を寄せながら、スマホを手繰り寄せる。明るく光る画面には、王子一彰の文字。スピーカーをオンにして出る。
「もしもし」
「おはよ、莉子さん。寝てた?」
「寝てた……」
「もう8時半だよ、起きて」
おそらく王子は登校の途中で、ざわざわとした喧騒が耳に入ってくる。あぁ、みんなはとっくに活動してる時間なのか。少し自分を後ろめたくなる。ひとつ寝返りを打ち、毛布に包まる。
「うーん……」
「ね、今日の15時以降空いてない?僕放課後暇なんだ」
王子は私にお構いなく話を続ける。電話にしてもそう。王子はよく電話をしてくるが、私の都合は考えてないと思う。別に都合に合わせることが出来なくても、不機嫌になったり怒ることもないが。
「いいよ、空いてるよ。なにかする?」
「いつもみたいにお茶しながら話したいな」
「分かった、駅前ね」
「ねぇ、たまには僕のこと迎えに来ない?」
王子は私を気遣わない。いつも無邪気に問いを投げる。私のことを、まだなにも知らないとでも言うように。
「私は学校には行かないよ」
「そりゃそうだよね。ごめん、傷ついた?」
「それくらいじゃ傷つかないけどさ」
王子のおかげで、慣れた部分もある。別に私は可哀想じゃないし、堂々としていていい。王子の質問責めには最初は戸惑ったが、今は自分を見つめ直すきっかけにしている。
「そうか、それならよかった。今日は寒いよ。あったかくしてきてね」
「……本当に?」
以前、外の気温については嘘を吐かれたことがあるので警戒する。王子本人は「僕にとっては暑かったんだよ」と、嘘か本当か分からない笑みで言っていたけれど。
「心配なら、自分で確かめてみるといいよ」
「んーそうだね」
「莉子さんの場合、遅くなっても弓場さんが迎えに来るから問題ないだろうけどね?」
「それはそう」
当然のように答えて、一呼吸置いてひょっとして揶揄われたのか?と思い当たる。
「平然としてるのは、恥ずかしがってるの?それとも当たり前と思ってる?」
「後者だけど、そう言われると恥ずかしくなってきた……」
揶揄われていたようだ。揶揄われるのは慣れないし、嫌だ。
「恥ずかしいのは、やっぱり」
「王子。それ以上は嫌だ」
嫌なことは嫌と言っていい。周りから言われたし、王子本人からも言われている。意思表示は、ちゃんとしなくちゃダメだよと。私は意外と出来ていないようで(蓮ちゃんとかに言われる)、最近意識するようにしている。
「ん。分かった」
王子は嫌と言えば、それ以上追求することはない。しばらく無言で通話を繋ぐ。雑踏と風の吹く音だけが聞こえる。
「……そろそろ学校着いちゃうや。じゃあ、またあとでね」
「はいはい、あとでね」
「ちゃんと起きてね?二度寝しちゃダメだよ」
「……はーい」
「信用ならない返事だなぁ」
電話の向こうで、薄く空気を揺らすような笑い声が聞こえる。だって、眠いもん。寝ていれば、心が乱れることは少ない。なにも予定がない、なにも出来ない時間が減るから、どうしても睡眠に逃げてしまう。
「今日もちゃんといい日だよ。貴方が望むなら」
なにかを察したように、王子がそう言って私を慰める。私が望めば、か。寝ていても果報は来ない。行動しなければ。
「分かった、起きる」
「うん、素直でよろしい」
ビー玉に透かした光のように、澄んだ綺麗な声だと思う。君の問いに心を委ねて、自分という地図を旅するのは面白くて、楽しい。鬱陶しいこともあるけれど、王子が側に寄ることを許すのは、知らない自分に出会えるから。
「それじゃ、今度こそまたあとで」
電話が切れた。身体を起こす。窓の隙間から漏れる光で、外の明るさを知る。今日は本当に寒いだろうか。確かめる為に、着替えよう。まずは朝食を摂って服薬だ。
莉子さんと待ち合わせて、駅近のラメールに行く。チェーン店よりは気持ちお値段張るけど、行けないほど高くはなく、店内も落ち着いているのでよく莉子さんと入る。莉子さんはおそらく、週4くらいの頻度で来てるんじゃないだろうか。それぞれ別の人と。末恐ろしい人だなぁと思う。
「なに飲もうかな」
莉子さんがメニューを見る様子を、つぶさに観察する。莉子さんがなにを頼むのか、当てるゲームを1人でしていることは内緒。僕は決まってカフェラテを頼む。
「ホットの紅茶、今日はダージリンにしてみよう」
残念、ハズレか。アッサムを頼むと思った。いつもはそうするのに、今日は冒険心のある日なのかな?注文を済ませて、穏やかな時間の流れを楽しむ。莉子さんは僕が喋るまで話さない。僕には、そういう態度。他人によって微妙に態度というか、接し方が違うのも知っている。この人の中では、平等な接し方らしいけど。明確に、好きな人の優先順位がある。僕はそのランキングの詳細が知りたくてたまらない。
「莉子さんにとって、過去ってなに?」
今日の議題はこれにした。莉子さんはスマホを弄る手を止めると、気怠げに僕を見る。僕の頭の少し上を見つめ、首を動かしながら考える。答えを待っている沈黙の、期待にも似た震えが好きだ。
「うーん、選べないもの、かな」
「選べない、か」
そういう表現を使うんだ。興味深いな。先を促すように目配せする。莉子さんは紅茶を一口飲むと、そっと薄い口を開いた。
「過去は、どうあがいても変えられないから。選び直したりは出来ない」
「変えられない、って表現じゃないのは何故?」
「うーん、そういえばなんでだろ……」
自分で言い出したことなのに、莉子さんはうんうんと悩み始めた。自分で口にして初めて意味を知ったり、口にするまで分からないことがある。人間とは、不思議なものだ。莉子さんは、どこまでも人間臭いと思う。
「……意味合いは、変えられるからかな」
「ふぅん?」
「過去って、選んだりは出来ないけど、自分の受け取り方次第で結果は変えられると思うんだよ。満足するかしないかは、自分次第のところが大きくて」
「それは、確かにそうだね」
莉子さんにしては、真っ当な考え方かと思う。おそらく正解に近い。正解の基準は、神様とか大多数じゃなく僕だけどね。選べないって言い方、面白くて好きだな。僕が口角をあげると、莉子さんは気まずそうに視線を逸らした。そんなつれない態度、しなくてもいいじゃない。
「満足したの?」
「うん、面白いな〜と思ってね」
「そんな面白がられてもな……私は真面目に答えてるんだけど」
「リコピンはいつでも真面目だよね」
たまにあだ名で呼んで、反応を見る。あだ名に関しては、なんとも思ってないようだけど。真面目、というのが気に入らなかったらしく、莉子さんは顔を歪める。
「別に真面目でもないけど……」
「いいと思うよ?真面目なのは美徳だ」
微笑んでも、莉子さんの眉間の皺は取れなかった。どうしようかな。あんまり機嫌を損ねちゃうと、弓場さんも怖い。
「選べないって表現、とても好きだよ。莉子さんらしいと思う」
「うーん、そう?」
「うん。選んできた結果が過去だと、僕は思うけど」
「あー確かにそう言われるとそうだな」
莉子さんは腕を組んで、また悩み始める。やっぱりどこまでも真面目だし、そもそも自分で真面目って言ったよ。莉子さんはそういう部分で、苦労もしてきたのは知っているけど、やっぱり僕は莉子さんは莉子さんのままがいいよ。こんな話、付き合ってくれる人間は少ないし。
「現在から見ると過去は選べないけど、過去も現在だった時間はあるわけで、そう考えると選んでいるのかもなぁ」
「そうだね。読み方で変わるね」
「取り返しがつかない、のがしっくりくるかなぁ」
「僕は選べないって方が好きだけどね」
「王子が反論したのに?」
莉子さんは呆れたように、ようやく笑ってくれた。明日にはこんな時間も過去になる。選べないんだから、慎重に大切に過ごして欲しい。危うさしかないアンバランスな貴方に、親愛を込めて。
