本編
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「弓場、お前と小林の幼い頃の話を聞かせてくれ」
隊長会議の終わり、二宮サンに声をかけられてしまった。有無を言わせぬ圧、逃がしてはくれそうもない。
「いいですけど……」
本当は嫌だが。二宮サンと並び歩いてラウンジに移動する。お互いコーヒーを飲みながら、話し始める。
莉子との思い出で、一番古いものは一歳半の時の話だ。正直、当時のことを覚えてはいない。母がなにかある度に話すので、出来事として覚えているだけ。どうやら俺は、莉子の右腕を折ったらしい。その時、俺と莉子は同じ部屋で遊んでいて、母親同士はおしゃべりに夢中になっていた。莉子の泣き声で様子を見に行ったら、折れていたと。だから、俺のせいで折れたのか、莉子が自ら折ってしまったのか、本当のところは分からない。けれど、うちの母は酷く気にして、俺を叱った。
「莉子ちゃんに乱暴なこと、絶対しちゃいけないよ。守ってあげなきゃダメだからね」
幼い頃から、再三そう言われてきた。だから、喧嘩をしても叩いたり蹴ったりしたことはない。莉子は昔から口が達者だから、喧嘩をすると大抵言いくるめられてしまう。それでも、莉子の怒りが治まるのを待った。
「おこって、ごめんね。ごめんなさい」
最後には泣きながら謝るので、なんだって許してしまえた。けど、泣かせると決まって母が怒るので、ちょっと理不尽だと感じていた。泣き虫な莉子が、どうしたら泣かないで済むのか、よく考えていた。
幼い頃の話は、理不尽なものが多い。信号のこともそうだ。俺が歩くと、莉子はその後ろをついてくる。小鴨みたいに。それがうっとおしいとか思ったことはないけれど。変わりかけの信号を渡った時、俺は渡り切れたが、後ろをついてきた莉子が轢かれかけたことがある。あとから莉子に話を聞けば、信号は確認していなかったと。
「たくまがいったから、だいじょうぶだとおもった」
これも、俺は母にめちゃくちゃ怒られた。それから、点滅した信号を渡ったことはない。ちゃんと止まるし、莉子が行こうとすれば引っ張って止める。莉子はちょっと危なっかしくて、フラフラしているので、ちゃんと見ていなきゃと思う。
莉子とは生まれてからずっと幼馴染で、家もめちゃくちゃ近い。莉子の家は共働きで、両親の帰りは遅かった。莉子の母親とうちの母親は仲が良く、よくうちで莉子を預かって夕飯を一緒に食べた。莉子はなにを出されても、好き嫌いせずに美味しそうに食べた。
「莉子ちゃんはなんでも食べて偉いね〜!!」
母は莉子のことをよく可愛がった。莉子はどこへ行っても可愛がられていたと思う。当時は、ちょっと面白くなかった。莉子が女の子だからだろうかと、性差を羨んでみたりした。
「拓磨はまたピーマン残して……」
俺は幼い頃好き嫌いが多かった。嫌いな食材をはじく度、母は莉子と比べて俺を責める。
「ピーマン、たべてあげよっか?」
莉子が不思議そうな顔で、そう訊く。その優しさが、やっぱり気に食わなくて。
「いい。たべれる」
意地張って、嫌いなものを食べるようになった。それから、莉子が家で一緒に食べる時は、嫌いなものを少しずつ食べるようになった。そのおかげで、大きくなった今だいぶ好き嫌いが減った。それでも、莉子の方が今でもなんでも食べるが。
「小林はちっちゃい頃から、可愛いんだな」
二宮サンの感想を聞いて、あんた何を話してもそう言うだろと、半ば呆れながら心の中で悪態を吐いた。タダで莉子のことを話すのが癪だったから、俺の話を中心にしたはずなんだが。
「まぁ、昔から歳上からは可愛がられてましたね」
「だろうな」
二宮サンは機嫌よく、コーヒーを飲み干す。そろそろいいだろうか。挨拶をして、立ち去ろうとすると。
「弓場は、たくさん小林の影響を受けてるんだな」
そう、二宮サンが溢すので。言われたくなかった。恥ずかしさとか、悔しさとか。その中にほんの少し、安心のような。いろいろない混ぜになる。
「そう、ですね」
なんとかそう答えたら、二宮サンが優しく微笑むので、こそばゆい。頭を下げて、その場を去った。二宮サンは苦手だ。二宮サンの莉子への想いが、理解出来ないから。少し羨ましい。無欲な愛を、俺も持ちたかった。
「莉子ちゃんの昔の話、聞かせてよ」
「昔の話?」
市街を散歩中、迅が唐突にそんなことを言う。自分の話を、急にしろと言われても。
「弓場ちゃんとのことでもいいよ。その方が話しやすいでしょ?」
「話しやすい」
拓磨とのことを思い出す。触れたくない部分は見ないフリをして。なにを話そう。
拓磨は昔から過保護だった。いつも私の側にいたし、守ってやるってオーラがすごかった。園児の頃、男の子と取っ組み合いの喧嘩になって泣かされた時は、何故か相手の男の子を私の代わりにボコボコにしていた。2人とも怒られた。
「おれがりこをまもってやるからな」
昔はそれが口癖だった。私は安心して甘えたい反面、守られているだけなのは嫌で、変わらず男の子にも絡んでやんちゃした。拓磨は心配でたまらないようだったけど。
園児の頃は、拓磨より上手に出来ること、優れていることが少なかった。だから、なんでも拓磨についてまわっていたのだけど。小学校に上がったら、勉強で拓磨より出来る科目が多かった。ちょっと得意げでいたら、拓磨はやっぱり面白くなかったようで、拗ねてしまった。私は人より出来ると苦労するんだと思った。しばらくして、拓磨は悔しそうにしながら。
「莉子、勉強教えて」
そう言ってくれたので、私は嬉しかった。拓磨の部屋で2人きり、一緒に勉強した。私は、勉強は出来たけど勉強するのは嫌いだった。でも、拓磨と一緒なら頑張れた。
「莉子、教えるの上手いな!」
「そう?」
「うん、先生より分かりやすい」
それは言い過ぎだろう、と今でも思うけど。あの時上手いと言われたから、今でも説明することには自信がある。
「あ」
「あ?」
恥ずかしい思い出を思い出した。かなり心の深いところに刺さっている思い出。迅に話していいか、迷う。
「なに、なんか思い出したんでしょ」
「うーん……」
「話してよ。なんでも聞くから」
迅に促されて、話すことにする。恥ずかしいけど。
拓磨の家のご両親は、ラブラブだ。子供の前でも、平気でイチャつく。私は拓磨のお父さんにはあまり会ったことはないけれど、それでもお母さんが大好きなんだなぁと印象付いている。対して、うちの家は冷え切っている。いや、両親の仲が悪いわけではないんだが。手を繋いだりだとか、キスをしたりだとか、見たことがない。それで、なんの話かというと。
「すきなひとには、こうするっていってた」
拓磨はそう言って私を捕まえると、不器用に唇に口付けた。多分、4、5歳の頃の話。された私は、嫌という感情が湧かないほど、意味が分からなくて混乱した。
「え、なに。なにそれ」
「きすっていうの。莉子もして」
顔を近づけられるので、両手で押し返した。拓磨は寂しそうな、傷ついたような顔をするので、どうしていいか分からなかった。私が泣きそうになると、拓磨は慌てて私の口を塞いだ。多分、私が泣いたら怒られるからだろう。
「ごめん、なくな。もうしないから」
「うん」
「ごめんね」
結局、拓磨に抱きしめられて、宥められたら泣いてしまったのだけど。でも、拓磨が内緒にして欲しいんだろうということは分かったので、保育園の先生にも親にもなにも言わなかった。私の、ファーストキスの話。
「え、それ弓場ちゃんは覚えて」
「ないと思うよ」
「うわーマジか……えぇ……」
話が終わると、迅は言葉に迷っているようだった。やっぱ反応に困る話か、これ。拓磨はまったく覚えていないようで、気にする素振りを見せたことがなく、私は私で蒸し返す話でもないかなと思い、話して確かめたことがない。
「でも、拓磨でよかったと思うよ」
他の誰かだったら、寒気がするなぁと思う。園児の頃の仲間と、もう繋がってないし。拓磨だからまだ、綺麗な思い出と思う。
「……弓場ちゃんのこと、好き?」
「?……どの好き?」
好きにもいろいろあるだろう。迂闊に答えて、めんどくさいことになるのは避けたい。恋愛事は苦手なんだ。
「いや、やっぱいいや」
「うん」
「話してくれてありがと。またなんか思い出したら話してよ」
迅と日が暮れかかる街を歩く。拓磨は今日なにをしてたんだろう。話していたら会いたくなった。あとで家に寄ろうかな。
『今、なにしてんだ?』
大学の講義が終わって、解放されたので連絡した。暇してるなら会いたい。いつでも会えるし、いつも一緒にたのに、それでも会いたいと思えるのだから、この恋は本物なんだろう。既読はすぐについて、返信がくる。
『迅と散歩中』
聞きたくなかった答え。胸がざわつくのを落ち着けと言い聞かせる。莉子は寂しがり屋だから、大抵誰かと何かしてる。今に始まった話じゃない。けれど、迅といる頻度は高いし当たり前に妬く。
『じゃあ一緒に帰ろう。迎え行く』
引き離したくて、そんな返事をする。莉子が誰と何してたって、迎えに行けば帰り道は俺と同じだ。そんなことで得られる優越感で、なんとか自我を保っている。
『分かった。ラメールでお茶してるよ』
よく行く喫茶店か。歩いても行けるが、電車を使う。足早に歩いて、ラメールに着いたところでちょうど2人が出てくる。毎回毎回、先を読まれている感覚に慣れない。
「拓磨」
莉子は当然とばかりに、すっと俺の横にくる。それだけのことがどうしようもなく嬉しくて、でもバレたら恥ずかしすぎるから、顔に出さないようにしてしかめっ面になってしまう。
「体調は」
「んー朝悪かったけど、迅が来てくれたから平気」
あー聞きたくなかった。俺はなにも聞いてない。自分で聞いておいてそれはない。莉子といると、感情の動きが激しくて疲れる。だからといって、会うのをやめるって選択肢はねぇけど。
「そうか。ありがとなァ」
迅に心のこもってない感謝を述べる。迅はへらりと笑った。
「別に俺が好きでやってるだけだし、弓場ちゃんにお礼言われることじゃないよ」
ごもっとも。分かってはいるけど腹が立つ。マウントを取らずにいられない。腹の底が見えない笑みが恐ろしい。どうしたって、いつか莉子を奪われるのではと警戒してしまう。
「迅、ありがとう。またね」
「うん、またね。なにかあればいつでも呼んで」
2人のやり取りで、苦々しい思いが湧いて、どうしようもなく目を逸らす。なにかあった時、莉子が頼る先がいつも俺だけならいいのに。そんなこと、あまりにも身勝手で我儘だとは分かっている。
「帰ろ」
「……あァ」
莉子が俺の袖口を引っ張って、歩き出す。手を繋ぐ勇気は出ない。付き合っているわけでは、ないし。既成事実を作って、囲い込むなんてこと、したいわけじゃないし。いや、本当はそれでもいいから一緒にいたいけれど、そんなことしたら莉子が可哀想で。莉子を傷つけることはしない。
「今日、すっごく可愛いマスキングテープ見つけた」
「おぉ」
「使い切れないから、買わなかった。偉い」
「偉いなァ」
「すぐ買いすぎちゃうからなー。最近はかなり我慢出来てるけど」
何気ない会話で、心が癒されていく。寄り道に誘ったら、付き合ってくれるだろうか。口を開こうとしたら、莉子の携帯に着信が入る。
「ごめん、電話だ」
「誰だ?」
反射的に訊いてしまった。
「哲次くん」
荒船だァ?口から飛び出そうになって、なんとか噛み殺して。聞きたくなんてないのに、会話に聞き耳を立てる。また心が死ぬ感触がする。
「うん、そうなんだ……えっそれは観たい!いいの?うん……じゃあまた予定立てよ〜」
荒船の声は聞こえないから詳細は分かんねぇが、また会うんだろうな。2人きりで。別にいいけど、と強がっても、胸の内で暴れる激情が治まるわけでもない。電話が切れる。
「ごめん、終わった」
「…………あァ」
「拓磨、機嫌悪い……?」
「別に」
機嫌悪いって言ってるようなもんだろ、それ。分かってはいても、そう返事するのが精一杯で。心の中で何回も謝る。莉子が誰からも愛されてるのは知ってる。莉子がその全てを愛しているのも。莉子が愛するもの全てを、俺は愛していけるだろうか。どうしても醜い独占欲が顔を出して、ぐちゃぐちゃにしていく。
「……公園、寄っていく?」
莉子は他人の詮索をしない。機嫌が悪くても、どうして悪いのか問いたださない。他人に寄り添うのに長けている。そうやって優しくされるから、いつまでも踏み込めないし離れられない。
「寄ってく」
そう答えたら、莉子は安心したように笑った。好きだ、どうしようもなく。どうしたら俺だけの君になりますか。そんなことを伝えたら、嫌われて避けられる。どうにも出来なくて、ただ窒息しないように君と同じ空気を吸う。せめて、誰よりも傍に居させてくれ。
ちょっと頭が痛いけれど、散歩の時間を延長した。公園でベンチに座る頃には、拓磨の機嫌は直ったように見えた。私は機嫌が悪くなると引き摺るので、素直に切り替え早いのが偉いと思う。……なんで機嫌悪かったんだろうか。私のせいかな。他の男の子との付き合いが、嫌なんだろうってことくらい、鈍い私でも分かる。以前それで喧嘩もしたし。
「なんか飲むか?」
「うん、適当に〜」
そんないい加減な返事でも、許される。拓磨は向かいの自販機で2本、缶を買って1本こちらに寄越す。紅茶花伝のミルクティー。正解です。特に会話もなく、2人で缶を啜る。拓磨の横は心地が良くて安心する。ちょっと心配性で過保護なのがたまにキズだけど。
『お前とは、明日から絶交だ!!』
小4の時、そう言われた。あの頃は男女で仲がいいだけでカップルだなんだ冷やかされるお年頃で、それに耐えかねた拓磨が私を振った。私は小学生の時は友達が少なくて、人付き合いが苦手だったから、とても辛くて苦しい思いをした。多分、初恋の相手だったし。
「迅となに話してた」
「拓磨のこと」
「あァ?」
昔のことを思い出したのは、迅と話したせいだろう。小4で絶交したあと、どうして拓磨が戻ってきたんだっけ。
「なんだ、なに話してた」
「うーん……内緒?」
「あァ?お前、迅に話せて俺に話せないって言うのかよ」
そう言われると、弱ってしまうなぁ。ちら、と拓磨の顔色を伺う。どこか慌ててるようで、不安そう。
「……小さい頃さ、私にキスしたの覚えてる?」
「は」
あ、やっぱり覚えてないんだ。拓磨は完全にフリーズして、言葉が出ないようだ。可笑しくなってクスクス笑う。拓磨は脚を開いて、腕組んで、必死に思い出そうと頭を揺らしていた。
「お、覚えてねぇ……」
「うん。知ってた」
「せ、責任取る」
「なにをどう」
15年近く前のことなんて、時効だろうに。別に傷ついて苦労した話でもない。大袈裟なことじゃないのに。拓磨はえらく次の言葉を迷っている。
「別に気にしてないよ」
「いや……申し訳なかった」
拓磨は仰々しく頭を下げた。なんとなしに、目の前に降りてきた頭に触れる。拓磨がびくっと肩を揺らしたので、一瞬手を離したが、そっとつむじからうなじに向かって撫でた。拓磨は、固まってされるがまま。それをいいことに、耳に触れたり、刈り上げられたとこを撫でたり、好き放題に触れる。
「いっつも高いところにあるから、触れないんだよね〜」
「あの、もういいか」
「責任を取るのでは?」
意地悪を言えば、黙り込んだ。小さい頃は同じくらいの高さに顔があったのに。どこか懐かしくて、何故か嬉しくて、ぺたぺたと遠慮なく触れる。
「莉子、やめろ。ストップ」
「なんで?」
「なんでも。俺が悪かったから、な」
拓磨が私の手首を掴んで、制止する。大人しく受け入れる。拓磨は体勢を元に戻すと、そっぽを向いた。公園の街灯の明かりがつく。気がつけば、日が暮れて1番星が見えている。
「嫌だった?ごめんね」
「嫌なわけじゃ……ねぇ、けど」
真黒な瞳と、一瞬だけ視線が合い、また逸らされた。私は残っていたミルクティーに口をつける。もう温くなってしまった。あのまま、絶交しなくてよかったな。私にとって生まれて初めて出来た友達。どんなに友達が増えても、その事実は変わらない。
「いつもありがとう」
「なんだ、急に」
「思ったこと言っただけ」
拓磨はため息を吐いて、メガネを上げた。照れ臭いのかな。ぐぅ、とお腹が鳴る。今度は私が恥ずかしい番。
「帰るか」
「うん、お腹減った」
ベンチから立ち上がり、缶を捨てて、帰路に着く。今日はいい日だったな。毎日を彩ってくれる友達には、感謝しかない。穏やかに過ごす日々が、なるべく長く続きますように。
隊長会議の終わり、二宮サンに声をかけられてしまった。有無を言わせぬ圧、逃がしてはくれそうもない。
「いいですけど……」
本当は嫌だが。二宮サンと並び歩いてラウンジに移動する。お互いコーヒーを飲みながら、話し始める。
莉子との思い出で、一番古いものは一歳半の時の話だ。正直、当時のことを覚えてはいない。母がなにかある度に話すので、出来事として覚えているだけ。どうやら俺は、莉子の右腕を折ったらしい。その時、俺と莉子は同じ部屋で遊んでいて、母親同士はおしゃべりに夢中になっていた。莉子の泣き声で様子を見に行ったら、折れていたと。だから、俺のせいで折れたのか、莉子が自ら折ってしまったのか、本当のところは分からない。けれど、うちの母は酷く気にして、俺を叱った。
「莉子ちゃんに乱暴なこと、絶対しちゃいけないよ。守ってあげなきゃダメだからね」
幼い頃から、再三そう言われてきた。だから、喧嘩をしても叩いたり蹴ったりしたことはない。莉子は昔から口が達者だから、喧嘩をすると大抵言いくるめられてしまう。それでも、莉子の怒りが治まるのを待った。
「おこって、ごめんね。ごめんなさい」
最後には泣きながら謝るので、なんだって許してしまえた。けど、泣かせると決まって母が怒るので、ちょっと理不尽だと感じていた。泣き虫な莉子が、どうしたら泣かないで済むのか、よく考えていた。
幼い頃の話は、理不尽なものが多い。信号のこともそうだ。俺が歩くと、莉子はその後ろをついてくる。小鴨みたいに。それがうっとおしいとか思ったことはないけれど。変わりかけの信号を渡った時、俺は渡り切れたが、後ろをついてきた莉子が轢かれかけたことがある。あとから莉子に話を聞けば、信号は確認していなかったと。
「たくまがいったから、だいじょうぶだとおもった」
これも、俺は母にめちゃくちゃ怒られた。それから、点滅した信号を渡ったことはない。ちゃんと止まるし、莉子が行こうとすれば引っ張って止める。莉子はちょっと危なっかしくて、フラフラしているので、ちゃんと見ていなきゃと思う。
莉子とは生まれてからずっと幼馴染で、家もめちゃくちゃ近い。莉子の家は共働きで、両親の帰りは遅かった。莉子の母親とうちの母親は仲が良く、よくうちで莉子を預かって夕飯を一緒に食べた。莉子はなにを出されても、好き嫌いせずに美味しそうに食べた。
「莉子ちゃんはなんでも食べて偉いね〜!!」
母は莉子のことをよく可愛がった。莉子はどこへ行っても可愛がられていたと思う。当時は、ちょっと面白くなかった。莉子が女の子だからだろうかと、性差を羨んでみたりした。
「拓磨はまたピーマン残して……」
俺は幼い頃好き嫌いが多かった。嫌いな食材をはじく度、母は莉子と比べて俺を責める。
「ピーマン、たべてあげよっか?」
莉子が不思議そうな顔で、そう訊く。その優しさが、やっぱり気に食わなくて。
「いい。たべれる」
意地張って、嫌いなものを食べるようになった。それから、莉子が家で一緒に食べる時は、嫌いなものを少しずつ食べるようになった。そのおかげで、大きくなった今だいぶ好き嫌いが減った。それでも、莉子の方が今でもなんでも食べるが。
「小林はちっちゃい頃から、可愛いんだな」
二宮サンの感想を聞いて、あんた何を話してもそう言うだろと、半ば呆れながら心の中で悪態を吐いた。タダで莉子のことを話すのが癪だったから、俺の話を中心にしたはずなんだが。
「まぁ、昔から歳上からは可愛がられてましたね」
「だろうな」
二宮サンは機嫌よく、コーヒーを飲み干す。そろそろいいだろうか。挨拶をして、立ち去ろうとすると。
「弓場は、たくさん小林の影響を受けてるんだな」
そう、二宮サンが溢すので。言われたくなかった。恥ずかしさとか、悔しさとか。その中にほんの少し、安心のような。いろいろない混ぜになる。
「そう、ですね」
なんとかそう答えたら、二宮サンが優しく微笑むので、こそばゆい。頭を下げて、その場を去った。二宮サンは苦手だ。二宮サンの莉子への想いが、理解出来ないから。少し羨ましい。無欲な愛を、俺も持ちたかった。
「莉子ちゃんの昔の話、聞かせてよ」
「昔の話?」
市街を散歩中、迅が唐突にそんなことを言う。自分の話を、急にしろと言われても。
「弓場ちゃんとのことでもいいよ。その方が話しやすいでしょ?」
「話しやすい」
拓磨とのことを思い出す。触れたくない部分は見ないフリをして。なにを話そう。
拓磨は昔から過保護だった。いつも私の側にいたし、守ってやるってオーラがすごかった。園児の頃、男の子と取っ組み合いの喧嘩になって泣かされた時は、何故か相手の男の子を私の代わりにボコボコにしていた。2人とも怒られた。
「おれがりこをまもってやるからな」
昔はそれが口癖だった。私は安心して甘えたい反面、守られているだけなのは嫌で、変わらず男の子にも絡んでやんちゃした。拓磨は心配でたまらないようだったけど。
園児の頃は、拓磨より上手に出来ること、優れていることが少なかった。だから、なんでも拓磨についてまわっていたのだけど。小学校に上がったら、勉強で拓磨より出来る科目が多かった。ちょっと得意げでいたら、拓磨はやっぱり面白くなかったようで、拗ねてしまった。私は人より出来ると苦労するんだと思った。しばらくして、拓磨は悔しそうにしながら。
「莉子、勉強教えて」
そう言ってくれたので、私は嬉しかった。拓磨の部屋で2人きり、一緒に勉強した。私は、勉強は出来たけど勉強するのは嫌いだった。でも、拓磨と一緒なら頑張れた。
「莉子、教えるの上手いな!」
「そう?」
「うん、先生より分かりやすい」
それは言い過ぎだろう、と今でも思うけど。あの時上手いと言われたから、今でも説明することには自信がある。
「あ」
「あ?」
恥ずかしい思い出を思い出した。かなり心の深いところに刺さっている思い出。迅に話していいか、迷う。
「なに、なんか思い出したんでしょ」
「うーん……」
「話してよ。なんでも聞くから」
迅に促されて、話すことにする。恥ずかしいけど。
拓磨の家のご両親は、ラブラブだ。子供の前でも、平気でイチャつく。私は拓磨のお父さんにはあまり会ったことはないけれど、それでもお母さんが大好きなんだなぁと印象付いている。対して、うちの家は冷え切っている。いや、両親の仲が悪いわけではないんだが。手を繋いだりだとか、キスをしたりだとか、見たことがない。それで、なんの話かというと。
「すきなひとには、こうするっていってた」
拓磨はそう言って私を捕まえると、不器用に唇に口付けた。多分、4、5歳の頃の話。された私は、嫌という感情が湧かないほど、意味が分からなくて混乱した。
「え、なに。なにそれ」
「きすっていうの。莉子もして」
顔を近づけられるので、両手で押し返した。拓磨は寂しそうな、傷ついたような顔をするので、どうしていいか分からなかった。私が泣きそうになると、拓磨は慌てて私の口を塞いだ。多分、私が泣いたら怒られるからだろう。
「ごめん、なくな。もうしないから」
「うん」
「ごめんね」
結局、拓磨に抱きしめられて、宥められたら泣いてしまったのだけど。でも、拓磨が内緒にして欲しいんだろうということは分かったので、保育園の先生にも親にもなにも言わなかった。私の、ファーストキスの話。
「え、それ弓場ちゃんは覚えて」
「ないと思うよ」
「うわーマジか……えぇ……」
話が終わると、迅は言葉に迷っているようだった。やっぱ反応に困る話か、これ。拓磨はまったく覚えていないようで、気にする素振りを見せたことがなく、私は私で蒸し返す話でもないかなと思い、話して確かめたことがない。
「でも、拓磨でよかったと思うよ」
他の誰かだったら、寒気がするなぁと思う。園児の頃の仲間と、もう繋がってないし。拓磨だからまだ、綺麗な思い出と思う。
「……弓場ちゃんのこと、好き?」
「?……どの好き?」
好きにもいろいろあるだろう。迂闊に答えて、めんどくさいことになるのは避けたい。恋愛事は苦手なんだ。
「いや、やっぱいいや」
「うん」
「話してくれてありがと。またなんか思い出したら話してよ」
迅と日が暮れかかる街を歩く。拓磨は今日なにをしてたんだろう。話していたら会いたくなった。あとで家に寄ろうかな。
『今、なにしてんだ?』
大学の講義が終わって、解放されたので連絡した。暇してるなら会いたい。いつでも会えるし、いつも一緒にたのに、それでも会いたいと思えるのだから、この恋は本物なんだろう。既読はすぐについて、返信がくる。
『迅と散歩中』
聞きたくなかった答え。胸がざわつくのを落ち着けと言い聞かせる。莉子は寂しがり屋だから、大抵誰かと何かしてる。今に始まった話じゃない。けれど、迅といる頻度は高いし当たり前に妬く。
『じゃあ一緒に帰ろう。迎え行く』
引き離したくて、そんな返事をする。莉子が誰と何してたって、迎えに行けば帰り道は俺と同じだ。そんなことで得られる優越感で、なんとか自我を保っている。
『分かった。ラメールでお茶してるよ』
よく行く喫茶店か。歩いても行けるが、電車を使う。足早に歩いて、ラメールに着いたところでちょうど2人が出てくる。毎回毎回、先を読まれている感覚に慣れない。
「拓磨」
莉子は当然とばかりに、すっと俺の横にくる。それだけのことがどうしようもなく嬉しくて、でもバレたら恥ずかしすぎるから、顔に出さないようにしてしかめっ面になってしまう。
「体調は」
「んー朝悪かったけど、迅が来てくれたから平気」
あー聞きたくなかった。俺はなにも聞いてない。自分で聞いておいてそれはない。莉子といると、感情の動きが激しくて疲れる。だからといって、会うのをやめるって選択肢はねぇけど。
「そうか。ありがとなァ」
迅に心のこもってない感謝を述べる。迅はへらりと笑った。
「別に俺が好きでやってるだけだし、弓場ちゃんにお礼言われることじゃないよ」
ごもっとも。分かってはいるけど腹が立つ。マウントを取らずにいられない。腹の底が見えない笑みが恐ろしい。どうしたって、いつか莉子を奪われるのではと警戒してしまう。
「迅、ありがとう。またね」
「うん、またね。なにかあればいつでも呼んで」
2人のやり取りで、苦々しい思いが湧いて、どうしようもなく目を逸らす。なにかあった時、莉子が頼る先がいつも俺だけならいいのに。そんなこと、あまりにも身勝手で我儘だとは分かっている。
「帰ろ」
「……あァ」
莉子が俺の袖口を引っ張って、歩き出す。手を繋ぐ勇気は出ない。付き合っているわけでは、ないし。既成事実を作って、囲い込むなんてこと、したいわけじゃないし。いや、本当はそれでもいいから一緒にいたいけれど、そんなことしたら莉子が可哀想で。莉子を傷つけることはしない。
「今日、すっごく可愛いマスキングテープ見つけた」
「おぉ」
「使い切れないから、買わなかった。偉い」
「偉いなァ」
「すぐ買いすぎちゃうからなー。最近はかなり我慢出来てるけど」
何気ない会話で、心が癒されていく。寄り道に誘ったら、付き合ってくれるだろうか。口を開こうとしたら、莉子の携帯に着信が入る。
「ごめん、電話だ」
「誰だ?」
反射的に訊いてしまった。
「哲次くん」
荒船だァ?口から飛び出そうになって、なんとか噛み殺して。聞きたくなんてないのに、会話に聞き耳を立てる。また心が死ぬ感触がする。
「うん、そうなんだ……えっそれは観たい!いいの?うん……じゃあまた予定立てよ〜」
荒船の声は聞こえないから詳細は分かんねぇが、また会うんだろうな。2人きりで。別にいいけど、と強がっても、胸の内で暴れる激情が治まるわけでもない。電話が切れる。
「ごめん、終わった」
「…………あァ」
「拓磨、機嫌悪い……?」
「別に」
機嫌悪いって言ってるようなもんだろ、それ。分かってはいても、そう返事するのが精一杯で。心の中で何回も謝る。莉子が誰からも愛されてるのは知ってる。莉子がその全てを愛しているのも。莉子が愛するもの全てを、俺は愛していけるだろうか。どうしても醜い独占欲が顔を出して、ぐちゃぐちゃにしていく。
「……公園、寄っていく?」
莉子は他人の詮索をしない。機嫌が悪くても、どうして悪いのか問いたださない。他人に寄り添うのに長けている。そうやって優しくされるから、いつまでも踏み込めないし離れられない。
「寄ってく」
そう答えたら、莉子は安心したように笑った。好きだ、どうしようもなく。どうしたら俺だけの君になりますか。そんなことを伝えたら、嫌われて避けられる。どうにも出来なくて、ただ窒息しないように君と同じ空気を吸う。せめて、誰よりも傍に居させてくれ。
ちょっと頭が痛いけれど、散歩の時間を延長した。公園でベンチに座る頃には、拓磨の機嫌は直ったように見えた。私は機嫌が悪くなると引き摺るので、素直に切り替え早いのが偉いと思う。……なんで機嫌悪かったんだろうか。私のせいかな。他の男の子との付き合いが、嫌なんだろうってことくらい、鈍い私でも分かる。以前それで喧嘩もしたし。
「なんか飲むか?」
「うん、適当に〜」
そんないい加減な返事でも、許される。拓磨は向かいの自販機で2本、缶を買って1本こちらに寄越す。紅茶花伝のミルクティー。正解です。特に会話もなく、2人で缶を啜る。拓磨の横は心地が良くて安心する。ちょっと心配性で過保護なのがたまにキズだけど。
『お前とは、明日から絶交だ!!』
小4の時、そう言われた。あの頃は男女で仲がいいだけでカップルだなんだ冷やかされるお年頃で、それに耐えかねた拓磨が私を振った。私は小学生の時は友達が少なくて、人付き合いが苦手だったから、とても辛くて苦しい思いをした。多分、初恋の相手だったし。
「迅となに話してた」
「拓磨のこと」
「あァ?」
昔のことを思い出したのは、迅と話したせいだろう。小4で絶交したあと、どうして拓磨が戻ってきたんだっけ。
「なんだ、なに話してた」
「うーん……内緒?」
「あァ?お前、迅に話せて俺に話せないって言うのかよ」
そう言われると、弱ってしまうなぁ。ちら、と拓磨の顔色を伺う。どこか慌ててるようで、不安そう。
「……小さい頃さ、私にキスしたの覚えてる?」
「は」
あ、やっぱり覚えてないんだ。拓磨は完全にフリーズして、言葉が出ないようだ。可笑しくなってクスクス笑う。拓磨は脚を開いて、腕組んで、必死に思い出そうと頭を揺らしていた。
「お、覚えてねぇ……」
「うん。知ってた」
「せ、責任取る」
「なにをどう」
15年近く前のことなんて、時効だろうに。別に傷ついて苦労した話でもない。大袈裟なことじゃないのに。拓磨はえらく次の言葉を迷っている。
「別に気にしてないよ」
「いや……申し訳なかった」
拓磨は仰々しく頭を下げた。なんとなしに、目の前に降りてきた頭に触れる。拓磨がびくっと肩を揺らしたので、一瞬手を離したが、そっとつむじからうなじに向かって撫でた。拓磨は、固まってされるがまま。それをいいことに、耳に触れたり、刈り上げられたとこを撫でたり、好き放題に触れる。
「いっつも高いところにあるから、触れないんだよね〜」
「あの、もういいか」
「責任を取るのでは?」
意地悪を言えば、黙り込んだ。小さい頃は同じくらいの高さに顔があったのに。どこか懐かしくて、何故か嬉しくて、ぺたぺたと遠慮なく触れる。
「莉子、やめろ。ストップ」
「なんで?」
「なんでも。俺が悪かったから、な」
拓磨が私の手首を掴んで、制止する。大人しく受け入れる。拓磨は体勢を元に戻すと、そっぽを向いた。公園の街灯の明かりがつく。気がつけば、日が暮れて1番星が見えている。
「嫌だった?ごめんね」
「嫌なわけじゃ……ねぇ、けど」
真黒な瞳と、一瞬だけ視線が合い、また逸らされた。私は残っていたミルクティーに口をつける。もう温くなってしまった。あのまま、絶交しなくてよかったな。私にとって生まれて初めて出来た友達。どんなに友達が増えても、その事実は変わらない。
「いつもありがとう」
「なんだ、急に」
「思ったこと言っただけ」
拓磨はため息を吐いて、メガネを上げた。照れ臭いのかな。ぐぅ、とお腹が鳴る。今度は私が恥ずかしい番。
「帰るか」
「うん、お腹減った」
ベンチから立ち上がり、缶を捨てて、帰路に着く。今日はいい日だったな。毎日を彩ってくれる友達には、感謝しかない。穏やかに過ごす日々が、なるべく長く続きますように。