呪術廻戦


放課後。
普段よりも学校を出るのが遅くなった私は、1人で駅のホームに立っていた。
まだしつこい夏の名残で、この時間でも日射しは強い。
けれど秋が着実に近づいてきているようだ。
日が傾くにつれ、空気が冷えていくのを感じる。


今は電車待ちの影が1つだけど、以前は3つ、多いときは5つだった。

同級生のクズども…五条悟と夏油傑とは途中まで帰路が一緒なので、いつも3人でホームに立っていた。
時折、後輩の灰原と七海が加わって5つ。

けれど去年から日によって、電車待ちの影が欠けるようになった。

クズその1は単独任務が増えて、一緒に帰ることが日に日に減った。

私1人で帰宅することが、段々と増えた。
………この夏、灰原が殉死した。
それだけでも充分しんどかったのに、クズその2がとんでもない思想を掲げて、とんでもないことをしでかした。

結果、処刑対象の犯罪者になったとさ。


…私1人で帰宅するのは当たり前になった。



──まもなく、2番線のホームに電車が参ります

当たり前だけど、あの日と同じアナウンスが流れる。

──黄色い線の内側まで、お下がりください


黄色い線の内側、ってさー。
こっちからしたら内側じゃんね?
それは…立ち位置的にそうだろ…。
常識的に、内側は危険のないこっち側に決まってんじゃん。どうした?


去年の春、クズたちとしょうもない会話をしたことをふと思い出した。

蜃気楼のようにぼやけた過去の自分達が見えた、気がした。
しょうもない会話だったのに思い出したのは、この漂う香り…

そう。

ホームに入ると目の前にある、避けようのない立ち食い蕎麦屋。

漂う醤油と出汁のきいた、間違いなく美味しいはずの蕎麦つゆの香り。
いや、はずではない。
美味しかった。

1人じゃ絶対に入らない立ち食い蕎麦屋。
今日は普段よりも遅くに駅を利用したので、割とお腹が空いている。
だから、この香りは堪らない。

あの日も帰りが遅かった。

連帯責任というクソ制度の下、ずいぶん遅くまで3人で校舎の草むしりだの校内清掃だのをさせられたから。
おかげさまで、駅のホームで影を作るのは蛍光灯。
夕陽はとっくに沈んで、薄ら寒かった。

「あー腹減った。本当、凶器にも程があるわ、この香り。」

空腹の原因となったのは? 
連帯責任になった原因は?
原因様が、蕎麦屋のいい香りを凶器呼ばわりしている。

「今日、親いないから食べていこうかな。」

蕎麦好きの夏油の胃には、確かに凶器に違いない。

「じゃ、俺もそうしよっかな。硝子はどうする?」
「えー?華の女子高生が立ち食い蕎麦《ぐーーーぎゅるぎゅる》


ズルズルッと、蕎麦をすする音が3つ重なる。

「まさか華の女子高生から、お手本のような空腹SEが聞こえるとはね〜」

ニヤニヤしながら五条が言う。

「ぐー●たっ、切らしてた?」

夏油。気をつけなよ。
人によって持つ意味が違うんだよ。

ダイエットアイテムとしてなのか、音を鳴らさない目的で所持しているのか?
両方かもしれないけど。

あー。

長々思いましたけど、性格的に煽りだね、これは。

「誰のせいでSEが鳴る時間まで残ることになったと思ってんの。」

夏油のことは無視して、私は五条に嫌味を言う。

「いや草むしりに時間かかりすぎ。もっとちゃっちゃと抜けないかな」
「なんでダメ出しできんのコイツ?どの口で言えんの??」
信じられない。蕎麦が不味くなる。
無視すべきは、どの口?この口でーす!ってふざけてるコイツの方だった。

「夏油は蕎麦、ざるだけど今日は寒くない?」
話を変えたくて、私は夏油に話しを振った。
「温かいのは嫌いとか?」
「温かいこと以外に利点がないからね」

蕎麦で利点とか言い出すのか、えええ?
…という私の顔を察したのか、夏油は続ける。

「天ぷらをのせればつゆを吸ってふやける。ふやけて分離した衣が、せっかくの出汁と混じってしまう。天ぷらをのせなくても、最後の方の麺は無駄につゆを吸う。蕎麦本来〜…」

やめてやめて。
かけ蕎麦を食べてる他の客が真横にいるんだよ。
うわっ。
ほら、すごい目でこっちを見てる。
失敗した、ざる派?もり蕎麦は食べないの?とかって話を振れば良かった。

あー。

あっちにもり蕎麦の客がいるから、もしディスりが始まったらどちらにしてもアウトか。

…夏油の蕎麦語りは終わらない。
さして興味もない私はプルースト効果とはいえ、このあたりの記憶は蘇らない。


すっかり食べ終わって、私たちは電車を待っていた。
快速待ち合わせの兼ね合いで、電車はすぐには来ない。

「五条は家に連絡しなくて良かったの?」

私は夕飯要らないってメールしたけど。
連絡したそぶりを見せない五条に、私は食後の一服をしながら話しかけた。

「蕎麦だから帰る頃には腹、こなれるでしょ」
「うわー。男子高校生、さすが」
「私は蕎麦のあとに何か食べる気にならないけどね。悟んち、今日の夕飯なに?」
「ガキじゃあるまいし、んなのいちいち聞かねーわ。」
夏油は聞くんだろうな。
五条の返しにイラッとしているから。

黙ってしまったので私が五条に聞く。
「ふーん。じゃ昨日、何食べた?五条家の夕飯事情、気になる」
「別に、普通の一般家庭と変わんねぇよ。牛肉米○牛の野菜炒め。」

副音声だかルビだかに、牛肉がブランド黒毛和牛ってなってるな、うん。
次は五条が私に聞いた。
「硝子は昨日なに?あ、つまみか」
「そ。おかげさまで今日は食べ過ぎて、酒が入んない」

硝子なら余裕でしょ、と笑った五条は夏油に昨日の夕飯を聞いた。

「傑は?」
「蕎麦だよ。」


ぼーっと濃厚な蜃気楼に付き合っていたら、一本電車を見送ってしまった。
立ち食い蕎麦屋の凶器的な美味しい香りは、相変わらず漂っている。

店とは真反対の方へ、私は歩き始めた。


当たり前だけど、影は1つだった。

20240416 修正

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