memo

綺礼が手を握り返した理由

2020/03/26 18:26
言峰神父の激辛麻婆豆腐講座 入門編の描写についての独り言です。
上記をお読みになってからこの記事を読むことを推奨しますが
どちらでもよいです。







ラストの方で、綺礼が頭を撫でたり手を握り返したりしますが、結構わかりにくい描写だと思うのであれについての補足をします。
(意図的にぼかしてもいますが)

あくまで個人の解釈ではあるのですが、そういう意図で書いていたんだよという話です。ふわっと、海のように広い心でお読みください。。

言峰綺礼は背徳行為が「好き」というのではなく「それでしか生の実感が得られない」破綻者です。つまり、ギルガメッシュに自覚させられる前は自らのそういった性癖を認めようとせず、道徳心と信仰の道に殉じようと鍛錬を積んできました。

そしてその道徳心と信仰の道の基準は父・璃正。璃正は模範的な聖職者でした。自らの歪みを認めたくない綺礼にとって、目指すべき目標であり、尊敬していたでしょうし、認められたいという感情もあったのではと思います(だからこそ、Zero23話であれだけ己を呪うのだと思います)。
綺礼の中に占める父親のウェイトってかなり大きいんじゃないかなと。自覚無自覚はさておき。

言峰綺礼は、自らの歪みを受け入れはしましたが、信仰心は本物であり、人並みの常識と道徳心をしっかり持ち合わせた人間です。悪人ではありますが、悪党ではない。進んで悪を行うのではなく、悪を行うことでしか生の実感を得られないから行う。

仮に世の善悪が反転して、言峰綺礼のような人間が多数派になったとしても、背徳行為が好きな人間=悪党は今度は善を為すが、言峰綺礼は変わらない。そこが悪人と悪党の違い。

そして、言峰綺礼は自らの歪みを受け入れても、彼自身は真人間であることと、父親への尊敬の念は、変わらないと私は思っています。だから、父の教え、信仰、道徳の道からは必要がない限りは外れることはしない。

自らの歪みの受け入れ方も、信仰の道から外れることを是とするのではなく「これが自分にとっての愛情表現なら、信仰からは外れない」という受け入れ方です。(聖杯戦争は魔術師の管轄であり、魔術世界は道徳から外れているので、人も殺すし裏切りもするんだと思います)

つまり綺礼は凛や士郎には本編で"自分の愛情表現"をしようとしますが(聖杯は士郎か凛に渡したい=気に入った相手の絶望する顔が見たい)、夢主にそれをしないのは璃正さんという存在があるから、という感じです。

つまり何が言いたいかと言うと、あの話の夢主は、父親が存命中に養子になった子供であり、父が尊んだもの。であれば綺礼にとっても尊ぶべきもの。しかし自分の愛情表現が齎すものでは彼女は守れない。したがって父の模倣をする。それをすることが、たとえ自分にとって空虚な行いであっても。
士郎が機械のまま人間のふりをして日常を過ごそうとするのと同じように。

そして夢主はその事に薄々気付いていますが、気付いていないふりをしています。それが彼の配慮だと知っているから、その本質を突くことはしない。本当は、倫理も道徳もかまわず自由に生きて欲しいと願いながら。

なんというか、そういう、お互いを大切に想うからこその行き違い、すれ違いがこの二人の間にはあります。

そして私は言峰綺礼の行動原理をそういう解釈で書いています。という話でした。

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