三月 冬の終わりのはじまりの日
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03
「ごちそうさん。いやぁ美味かった!サバひとつでこうも色々作れるもんか。現代の料理ってのはすげえなぁ」
大量のサバ料理を平らげ、ランサーは満足そうに笑った。部屋の真ん中に置かれたローテーブルの上には、綺麗に空になった皿と茶碗、そしてビールの空き缶が数本並んでいる。
誰かのために料理を作るという初めての行為は、一人で料理をする時よりも楽しく、存外に興が乗って作りすぎてしまった。塩焼き、味噌煮、そして少し手間のかかる南蛮漬け。それだけでは飽き足らず、副菜として菜の花のからし和えも作った。買い物リストにはなかったが、旬のものとしてスーパーに並んでいたため、せっかくだからとカゴに入れたのだ。そして、味噌汁と炊きたてのご飯。
作ったもの全てをテーブルに並べた時、その量の多さに、やってしまった、と思った。しかしランサーは目を輝かせ、その全てに新鮮な反応を示しながら食べてくれた。途中、食べ過ぎでないかと少し心配になったが、みるみるうちに皿は空になった。美味しそうに食べているランサーを見ていると、こちらもなんだかいつもより美味しく感じられた。作った甲斐がある、とはこういう感覚なのだろうか。勢いで家を飛び出し、生きるために必死で身につけた自炊スキルだが、少し報われたような気がした。
「すごい量だったけど、お腹、大丈夫……?」
「平気だぜ。食ったものはすぐに魔力に変換される」
ランサーは本当に平気そうで、ただ美味しい料理を食べたという満足感だけが表情に浮かんでいる。魔力供給さえあれば存在を成立させられるサーヴァントにとって、食事は本当に娯楽なのだ。聞くところによると睡眠も必要ないとか。戦いのために余計な機能を削ぎ落とした結果なのだろう。
「全部食べてくれてよかった。正直作りすぎちゃったから」
「どれも本当に美味かったから、あっという間だったぜ。お前さん、やるなぁ」
「それほど、でも……」
真っ直ぐな褒め言葉は、心のやわらかいところにストンと着地し、そこをじわりと温めた。普段、褒められても心が動く事はあまりないのだが、何故かランサーの言葉は不思議と響いた。
「お、今日初めて笑ったな」
まるで珍しいものでも見たような表情でランサーは言った。ハッとして頬を抑えると、確かに口角が上がっている。たまの接客で笑顔を作る事はあれど、日常生活で自然に笑う事はもうずいぶんなかったな、と思い出す。
「……さて」
ランサーが立ち上がり、おもむろに食器を片付け始めた。流石に客人に後片付けをさせるわけにはいかないと慌てて静止するも、お前さんは座ってろ、と止められてしまった。でも、と負けじと立ち上がると、急にめまいがして、ソファに座り込んでしまった。
「ほら、無理すんな。仕事で疲れてるんだろ。それにすぐ魔力に変わるオレとは違って、人間のお前はあんなに食ったらすぐには動けないだろ」
「でも……」
「いい、いい。あれだけの料理を拵えたんだ。当然の褒美だと思って休んでろ」
「……ランサー、お皿洗いなんてできるの?」
「おう、任せとけ。こないだ坊主んちでも手伝ったからな。さっさと済ませて酒盛りとしゃれこもうぜ」
テキパキと皿を重ねる手際のよさを見る限り、慣れているとの言に嘘はないらしい。後片付けを任せるのは正直少し不安だったが、もう色々ありすぎてフラフラなのも事実だったので、気遣いに甘える事にした。
器用に重ねた皿を危なげなくキッチンへ運んでいく背中を見送り、ソファに深く腰かける。背もたれに背中を預けると、一気に弛緩した身体がぐっと重くなり、まるでソファにどこまでも沈み込んで行くような気がした。
*
重くなったはずの身体がふわりと宙に浮く感覚で目が覚めた。目が覚めた、という事は寝ていたという事だ。ぼんやりとした意識が鮮明になるにつれ、身体の違和感にも気付き、思わず声をあげる。
「う、ひゃぁっ……!!」
「お、すまねえ。起こしちまったか」
「ちょっ、お願い、あの、離して……!!」
「おい、暴れるな、落ちるって」
私はランサーに抱え上げられていた。言葉にするのも恥ずかしいが、所謂お姫様抱っこの形である。必死にランサーの腕を解こうともがく。サーヴァントに力で敵うはずはないのだが、急に暴れた私に驚いたランサーが身体を離してくれたおかげで、私はそのままソファへと転がり落ちた。衝撃にソファが軋む音がする。
荒くなった呼吸と乱れた髪を整えながら、ゆるゆると姿勢を立て直し、どうにか上体を起こす。私の動揺ぶりに、ランサーはばつが悪そうな顔をして立ち尽くしている。
「……あー、驚かせて悪かった。皿洗いから戻ったら、お前さん寝ちまってたから。声をかけてもなかなか起きねえし、帰ろうかとも思ったが、そのままほっとくのも悪いと思ってよ」
ランサーは部屋の奥にあるベットに視線をやった。ソファで寝落ちていた私を運ぼうとしてくれていたらしい。
しかし、私が動揺している理由はそこではなかった。呼吸がなかなか整わず、事情を説明したいのに声がなかなか出なかった。待って欲しい、という意思を込めて手をあげる。
ああ、お願いだからそんな顔しないで。ランサーは悪くない。これは完全に油断していた、私の自業自得だ。
ランサーに触れられていた部分が熱を帯びて、苦しい。膝の裏と背中、左側のわき腹。更に体重が強くかかっていた右側の肩には、ランサーの手のひらと指の感触がはっきり残っている。
ランサーは黙ってこちらの言葉を待ってくれていた。おかげで次第に身体の熱が薄れ、呼吸が整ってきた。私は身体をソファの端に寄せ、ランサーに反対側に座るように促した。
「……こっちこそ、ごめん。驚かせて」
隣に腰掛けたランサーからできるだけ距離を取りつつ、まずは謝罪する。
「いやいいけどよ。えらい慌てぶりだったな」
「……これには理由があって……ちゃんと説明してなかった私が悪いんだけど」
改めてランサーの方に向き直るが、何となく気恥ずかしくて目を合わせられない。
ランサーの手が触れていた肩の辺りを手でそっとさする。背中の方もまだじわりと熱い。呼吸は落ち着いたものの、余韻はなかなか消えてくれなかった。
「私、人に触れられるのが苦手なの。生まれつき皮膚感覚が鋭くて……。少し触れられただけでも、その……刺激を、感じてしまうから。心の準備があれば、ここまで取り乱す事はないんだけど……」
この体質は目と同じで生まれつきのもの、と言うより目とセットのものだった。隔世遺伝する体質で、この目を持つ代の者は視覚に加え他の五感のうちどれかひとつが過度に鋭敏になるという性質を持つ。嗅覚や聴覚ならまだ対策のしようもあるが、触覚は全身に渡るため遮断や軽減が難しく、服を慎重に選ぶ、人と一定の距離を保つなど、日常からの意識が必要だった。感情を殺し努めて理性的に振る舞うのは、視覚からの情報に惑わされないためでもあるが、他人との交流を避けても不自然に思われないためだった。だと言うのに、今日は事情を知らないランサーを家に招いてしまった。いくら久しぶりの休みに浮かれていたとは言え、我ながら油断が過ぎたと思う。
「さっきは突然のことだったし、それに、人前で寝るなんてのも滅多にないことで。身体の感覚と状況、両方に驚いちゃって、余計混乱したと言うか……」
話しているうちに取り乱した恥ずかしさが込み上げてきて、思わず俯いてしまった。
「なんだそんなことか。オレぁてっきり、変な気を起こしたと思われて警戒されたのかと」
予想外の発言に驚き、私は顔を上げた。“なんだそんなことか”。私の体質の話をたったそれだけの言葉で片付けた人は初めてだった。これまで打ち明けた相手は、だいたい気持ち悪がったり、扱いに困るという顔をしていた。それに、変な気を起こすだなんて、それこそあらぬ誤解だ。凛のような美少女ならともかく、私のような色気も何もない人間が、異性の、ましてや英霊のお眼鏡に適うことなどあるはずがない。
「そんなこと、微塵も……! ただ、本当に、触れられた事に驚いただけなの」
「ならいいけどよ。それより、さっきから肩を押さえてるが、痛むのか?」
「あっ……大丈夫……だから、これ以上は、触らないで欲しい」
差し出された手に反射的に身体を引く。それを見たランサーの困ったような表情に、私はハッとする。触れようとしたランサーも、身体を引いた私も、おそらく互いに無意識だった。しかしどんな相手であれ、どんな関係であれ、触れることを拒絶されていい気はしないだろう。子は親に抱擁を求めるし、人は友好を結ぶ時には握手をする。一般的に「触れる」という行為は、相手の心に踏み込む行為であり、各々の心理的距離を表す尺度になる。それを拒むということは、もうこれ以上近付くなと言う意味に受け取られても仕方がない。それは無意識下に刻まれた人間の本能だ。子供の頃にふいに触れられた時、私の反応を見て戸惑う子たちがいた。握手をする時に手袋を外さないのを訝しがる人たちがいた。彼らの表情が脳裏を過ぎり、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。たまらず、私は慌てて言葉を返す。
「あの……不愉快な訳じゃないの、それだけはわかって」
この状態に、拒絶の意思はない。ただこれ以上触れられてしまうと、今日はもう、体力が持たないだけなのだ。本当に、それ以上の意味はない。私の言葉にランサーは表情を弛め、ああ、わかった、とだけ返した。
「よし、今日はもう帰るわ」
ランサーはおもむろにソファから立ち上がり、伸びをした。帰る、と言ったその声は、先程までの空気を塗り替えるようにからっと乾いた軽いものだった。
「えっ、でも……お酒はいいの?」
「ばーか、そんな調子で飲んだら余計明日に響くだろ。オレも明日はバイトだしな。飯はしっかり馳走になったし、満足だ」
ランサーは軽く笑みを浮かべる。体質云々は関係なく、ただ私をこれ以上疲れさせないための状況判断だといったふうだった。気を遣わせたようで申し訳なかったが、疲れているのは事実だったので、そのまま帰ってもらうことにした。
時計を見ると既に日付が変わっていた。深夜零時を過ぎると共用エントランスは施錠されるので、鍵を開けるために私も一階までランサーと共に降りる必要があった。エレベーターの中ではランサーは口を開かず、私もどこか気まずくて言葉を発することができなかった。
エントランスを開け、ランサーと共に外に出た。流石に真冬の頃ほどは寒くないものの、昼に比べれば気温はかなり低い。夜風が鼻頭を撫で、その冷たさに僅かにひりつく。
「今日はありがとよ」
「こちらこそ」
笑顔でこちらを振り返ったランサーに、こちらも軽く会釈する。じゃあな、と踵を返したところに、あの、と思わず声をかけてしまった。何故声をかけたか自分でも不思議だったが、胸の中には、少し引っかかるような感覚があった。もしかしてこれが、名残惜しい、という感情なのだろうか。初めての感情を伝える言葉が見つからず、声にならなかった吐息が、白く溶けていく。不思議そうにこちらを見つめる視線に更に息が詰まる。
「なんだ? ……もしや惚れたか?」
「なっ、だから違うって……!!」
昼間と同じように冗談だとはわかっているが、思わず声を荒げてしまう。しかしそのおかげで体が緩み、胸に引っかかった気持ちが自然とこぼれ落ちた。
「惚れてない、けど……あの……もし、気が向いたら、またおいでよ。ご飯くらいなら、いくらでも作るし」
形になった言葉を反芻し、我ながら柄にもないことを言ったなと思った。おそるおそる視線を上げると、期待に目を輝かせたランサーの表情があった。
「お? いいのか?」
「うん……まあ、ランサーさえよければ」
「とんでもねえ! むしろありがてぇよ」
よし、じゃ帰るわ、ゆっくり休めよ。そう言ってランサーは軽く私の頭を撫でた。触れられた衝撃に大きく肩を震わせると、ランサーはしまったとばかりにすっと手を引いた。
「ああ、悪い。触れちゃまずいんだったな」
「いや、これくらいなら、大丈夫……」
「……ならいいけどよ」
乱れた前髪を整えながら俯き深呼吸をして、それじゃあまた、と努めて明るい声で別れの挨拶を返した。おう、またな。ランサーも応えるように笑みを浮かべ、今度こそ踵を返した。そして数歩歩いて勢いよく跳び上がり、屋根を伝ってあっという間に夜の向こうへと消えていった。
一人になってすっかり気の抜けた私は、ふらふらとおぼつかない足取りでマンションへと戻った。エントランスの内鍵を閉め、エレベーターに駆け寄る。上ボタンを押すと、一階に留まっていたのかすぐに扉が開いた。中に乗り込み、三階のボタンと閉ボタンを押す。重たい鉄の扉がゆっくりスライドし、完全に外と遮断された瞬間、力が抜けてへたり込んでしまった。正直、頭を撫でられた時はかなりの刺激だった。しかし、心配させないようやせ我慢をしたのだ。ランサーには、見透かされていないといいのだけれど。
抱き上げられた時の感覚はようやく治まったのに、今度は撫でられた部分が疼いていた。呼吸が、また、荒くなる。身体は服の上からだが、頭は直接触れられた。私は感覚を上書きするように、撫でられた部分に手を当てた。強すぎる刺激というのは、思考を鈍らせ、感情を揺さぶる。ただ触れられるだけでこんなに掻き乱されるなんて、本当に厄介な体質だ。けれどこれは私が敏感だからであって、ランサーに惹かれている訳ではないのだ。それだけは勘違いしてはいけない。私は緩みかけた心を、きつく縛った。
*
あの後、力の抜けた足腰に鞭打ってなんとか部屋に戻りはしたものの、ソファでそのまま寝てしまったらしい。翌朝目覚めると、身体の至るところが痛かった。しかし気分はどこかスッキリしていた。
昨晩のことを思い出すと、まるで夢のように思えた。しかし朝食を作ろうと立ったキッチンで、洗いカゴに雑然と積まれた皿と、冷蔵庫に入った大量の酒を見て、夢ではないことを悟った。余った酒は、すぐ傷むものでもないしそのままにしておくことにしよう。次にまた彼が来る時に飲めばいい。いや、次の約束はしていないのだが、きっと近いうちにまたやってくる。不思議と、そんな予感がするのだ。
「ごちそうさん。いやぁ美味かった!サバひとつでこうも色々作れるもんか。現代の料理ってのはすげえなぁ」
大量のサバ料理を平らげ、ランサーは満足そうに笑った。部屋の真ん中に置かれたローテーブルの上には、綺麗に空になった皿と茶碗、そしてビールの空き缶が数本並んでいる。
誰かのために料理を作るという初めての行為は、一人で料理をする時よりも楽しく、存外に興が乗って作りすぎてしまった。塩焼き、味噌煮、そして少し手間のかかる南蛮漬け。それだけでは飽き足らず、副菜として菜の花のからし和えも作った。買い物リストにはなかったが、旬のものとしてスーパーに並んでいたため、せっかくだからとカゴに入れたのだ。そして、味噌汁と炊きたてのご飯。
作ったもの全てをテーブルに並べた時、その量の多さに、やってしまった、と思った。しかしランサーは目を輝かせ、その全てに新鮮な反応を示しながら食べてくれた。途中、食べ過ぎでないかと少し心配になったが、みるみるうちに皿は空になった。美味しそうに食べているランサーを見ていると、こちらもなんだかいつもより美味しく感じられた。作った甲斐がある、とはこういう感覚なのだろうか。勢いで家を飛び出し、生きるために必死で身につけた自炊スキルだが、少し報われたような気がした。
「すごい量だったけど、お腹、大丈夫……?」
「平気だぜ。食ったものはすぐに魔力に変換される」
ランサーは本当に平気そうで、ただ美味しい料理を食べたという満足感だけが表情に浮かんでいる。魔力供給さえあれば存在を成立させられるサーヴァントにとって、食事は本当に娯楽なのだ。聞くところによると睡眠も必要ないとか。戦いのために余計な機能を削ぎ落とした結果なのだろう。
「全部食べてくれてよかった。正直作りすぎちゃったから」
「どれも本当に美味かったから、あっという間だったぜ。お前さん、やるなぁ」
「それほど、でも……」
真っ直ぐな褒め言葉は、心のやわらかいところにストンと着地し、そこをじわりと温めた。普段、褒められても心が動く事はあまりないのだが、何故かランサーの言葉は不思議と響いた。
「お、今日初めて笑ったな」
まるで珍しいものでも見たような表情でランサーは言った。ハッとして頬を抑えると、確かに口角が上がっている。たまの接客で笑顔を作る事はあれど、日常生活で自然に笑う事はもうずいぶんなかったな、と思い出す。
「……さて」
ランサーが立ち上がり、おもむろに食器を片付け始めた。流石に客人に後片付けをさせるわけにはいかないと慌てて静止するも、お前さんは座ってろ、と止められてしまった。でも、と負けじと立ち上がると、急にめまいがして、ソファに座り込んでしまった。
「ほら、無理すんな。仕事で疲れてるんだろ。それにすぐ魔力に変わるオレとは違って、人間のお前はあんなに食ったらすぐには動けないだろ」
「でも……」
「いい、いい。あれだけの料理を拵えたんだ。当然の褒美だと思って休んでろ」
「……ランサー、お皿洗いなんてできるの?」
「おう、任せとけ。こないだ坊主んちでも手伝ったからな。さっさと済ませて酒盛りとしゃれこもうぜ」
テキパキと皿を重ねる手際のよさを見る限り、慣れているとの言に嘘はないらしい。後片付けを任せるのは正直少し不安だったが、もう色々ありすぎてフラフラなのも事実だったので、気遣いに甘える事にした。
器用に重ねた皿を危なげなくキッチンへ運んでいく背中を見送り、ソファに深く腰かける。背もたれに背中を預けると、一気に弛緩した身体がぐっと重くなり、まるでソファにどこまでも沈み込んで行くような気がした。
*
重くなったはずの身体がふわりと宙に浮く感覚で目が覚めた。目が覚めた、という事は寝ていたという事だ。ぼんやりとした意識が鮮明になるにつれ、身体の違和感にも気付き、思わず声をあげる。
「う、ひゃぁっ……!!」
「お、すまねえ。起こしちまったか」
「ちょっ、お願い、あの、離して……!!」
「おい、暴れるな、落ちるって」
私はランサーに抱え上げられていた。言葉にするのも恥ずかしいが、所謂お姫様抱っこの形である。必死にランサーの腕を解こうともがく。サーヴァントに力で敵うはずはないのだが、急に暴れた私に驚いたランサーが身体を離してくれたおかげで、私はそのままソファへと転がり落ちた。衝撃にソファが軋む音がする。
荒くなった呼吸と乱れた髪を整えながら、ゆるゆると姿勢を立て直し、どうにか上体を起こす。私の動揺ぶりに、ランサーはばつが悪そうな顔をして立ち尽くしている。
「……あー、驚かせて悪かった。皿洗いから戻ったら、お前さん寝ちまってたから。声をかけてもなかなか起きねえし、帰ろうかとも思ったが、そのままほっとくのも悪いと思ってよ」
ランサーは部屋の奥にあるベットに視線をやった。ソファで寝落ちていた私を運ぼうとしてくれていたらしい。
しかし、私が動揺している理由はそこではなかった。呼吸がなかなか整わず、事情を説明したいのに声がなかなか出なかった。待って欲しい、という意思を込めて手をあげる。
ああ、お願いだからそんな顔しないで。ランサーは悪くない。これは完全に油断していた、私の自業自得だ。
ランサーに触れられていた部分が熱を帯びて、苦しい。膝の裏と背中、左側のわき腹。更に体重が強くかかっていた右側の肩には、ランサーの手のひらと指の感触がはっきり残っている。
ランサーは黙ってこちらの言葉を待ってくれていた。おかげで次第に身体の熱が薄れ、呼吸が整ってきた。私は身体をソファの端に寄せ、ランサーに反対側に座るように促した。
「……こっちこそ、ごめん。驚かせて」
隣に腰掛けたランサーからできるだけ距離を取りつつ、まずは謝罪する。
「いやいいけどよ。えらい慌てぶりだったな」
「……これには理由があって……ちゃんと説明してなかった私が悪いんだけど」
改めてランサーの方に向き直るが、何となく気恥ずかしくて目を合わせられない。
ランサーの手が触れていた肩の辺りを手でそっとさする。背中の方もまだじわりと熱い。呼吸は落ち着いたものの、余韻はなかなか消えてくれなかった。
「私、人に触れられるのが苦手なの。生まれつき皮膚感覚が鋭くて……。少し触れられただけでも、その……刺激を、感じてしまうから。心の準備があれば、ここまで取り乱す事はないんだけど……」
この体質は目と同じで生まれつきのもの、と言うより目とセットのものだった。隔世遺伝する体質で、この目を持つ代の者は視覚に加え他の五感のうちどれかひとつが過度に鋭敏になるという性質を持つ。嗅覚や聴覚ならまだ対策のしようもあるが、触覚は全身に渡るため遮断や軽減が難しく、服を慎重に選ぶ、人と一定の距離を保つなど、日常からの意識が必要だった。感情を殺し努めて理性的に振る舞うのは、視覚からの情報に惑わされないためでもあるが、他人との交流を避けても不自然に思われないためだった。だと言うのに、今日は事情を知らないランサーを家に招いてしまった。いくら久しぶりの休みに浮かれていたとは言え、我ながら油断が過ぎたと思う。
「さっきは突然のことだったし、それに、人前で寝るなんてのも滅多にないことで。身体の感覚と状況、両方に驚いちゃって、余計混乱したと言うか……」
話しているうちに取り乱した恥ずかしさが込み上げてきて、思わず俯いてしまった。
「なんだそんなことか。オレぁてっきり、変な気を起こしたと思われて警戒されたのかと」
予想外の発言に驚き、私は顔を上げた。“なんだそんなことか”。私の体質の話をたったそれだけの言葉で片付けた人は初めてだった。これまで打ち明けた相手は、だいたい気持ち悪がったり、扱いに困るという顔をしていた。それに、変な気を起こすだなんて、それこそあらぬ誤解だ。凛のような美少女ならともかく、私のような色気も何もない人間が、異性の、ましてや英霊のお眼鏡に適うことなどあるはずがない。
「そんなこと、微塵も……! ただ、本当に、触れられた事に驚いただけなの」
「ならいいけどよ。それより、さっきから肩を押さえてるが、痛むのか?」
「あっ……大丈夫……だから、これ以上は、触らないで欲しい」
差し出された手に反射的に身体を引く。それを見たランサーの困ったような表情に、私はハッとする。触れようとしたランサーも、身体を引いた私も、おそらく互いに無意識だった。しかしどんな相手であれ、どんな関係であれ、触れることを拒絶されていい気はしないだろう。子は親に抱擁を求めるし、人は友好を結ぶ時には握手をする。一般的に「触れる」という行為は、相手の心に踏み込む行為であり、各々の心理的距離を表す尺度になる。それを拒むということは、もうこれ以上近付くなと言う意味に受け取られても仕方がない。それは無意識下に刻まれた人間の本能だ。子供の頃にふいに触れられた時、私の反応を見て戸惑う子たちがいた。握手をする時に手袋を外さないのを訝しがる人たちがいた。彼らの表情が脳裏を過ぎり、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。たまらず、私は慌てて言葉を返す。
「あの……不愉快な訳じゃないの、それだけはわかって」
この状態に、拒絶の意思はない。ただこれ以上触れられてしまうと、今日はもう、体力が持たないだけなのだ。本当に、それ以上の意味はない。私の言葉にランサーは表情を弛め、ああ、わかった、とだけ返した。
「よし、今日はもう帰るわ」
ランサーはおもむろにソファから立ち上がり、伸びをした。帰る、と言ったその声は、先程までの空気を塗り替えるようにからっと乾いた軽いものだった。
「えっ、でも……お酒はいいの?」
「ばーか、そんな調子で飲んだら余計明日に響くだろ。オレも明日はバイトだしな。飯はしっかり馳走になったし、満足だ」
ランサーは軽く笑みを浮かべる。体質云々は関係なく、ただ私をこれ以上疲れさせないための状況判断だといったふうだった。気を遣わせたようで申し訳なかったが、疲れているのは事実だったので、そのまま帰ってもらうことにした。
時計を見ると既に日付が変わっていた。深夜零時を過ぎると共用エントランスは施錠されるので、鍵を開けるために私も一階までランサーと共に降りる必要があった。エレベーターの中ではランサーは口を開かず、私もどこか気まずくて言葉を発することができなかった。
エントランスを開け、ランサーと共に外に出た。流石に真冬の頃ほどは寒くないものの、昼に比べれば気温はかなり低い。夜風が鼻頭を撫で、その冷たさに僅かにひりつく。
「今日はありがとよ」
「こちらこそ」
笑顔でこちらを振り返ったランサーに、こちらも軽く会釈する。じゃあな、と踵を返したところに、あの、と思わず声をかけてしまった。何故声をかけたか自分でも不思議だったが、胸の中には、少し引っかかるような感覚があった。もしかしてこれが、名残惜しい、という感情なのだろうか。初めての感情を伝える言葉が見つからず、声にならなかった吐息が、白く溶けていく。不思議そうにこちらを見つめる視線に更に息が詰まる。
「なんだ? ……もしや惚れたか?」
「なっ、だから違うって……!!」
昼間と同じように冗談だとはわかっているが、思わず声を荒げてしまう。しかしそのおかげで体が緩み、胸に引っかかった気持ちが自然とこぼれ落ちた。
「惚れてない、けど……あの……もし、気が向いたら、またおいでよ。ご飯くらいなら、いくらでも作るし」
形になった言葉を反芻し、我ながら柄にもないことを言ったなと思った。おそるおそる視線を上げると、期待に目を輝かせたランサーの表情があった。
「お? いいのか?」
「うん……まあ、ランサーさえよければ」
「とんでもねえ! むしろありがてぇよ」
よし、じゃ帰るわ、ゆっくり休めよ。そう言ってランサーは軽く私の頭を撫でた。触れられた衝撃に大きく肩を震わせると、ランサーはしまったとばかりにすっと手を引いた。
「ああ、悪い。触れちゃまずいんだったな」
「いや、これくらいなら、大丈夫……」
「……ならいいけどよ」
乱れた前髪を整えながら俯き深呼吸をして、それじゃあまた、と努めて明るい声で別れの挨拶を返した。おう、またな。ランサーも応えるように笑みを浮かべ、今度こそ踵を返した。そして数歩歩いて勢いよく跳び上がり、屋根を伝ってあっという間に夜の向こうへと消えていった。
一人になってすっかり気の抜けた私は、ふらふらとおぼつかない足取りでマンションへと戻った。エントランスの内鍵を閉め、エレベーターに駆け寄る。上ボタンを押すと、一階に留まっていたのかすぐに扉が開いた。中に乗り込み、三階のボタンと閉ボタンを押す。重たい鉄の扉がゆっくりスライドし、完全に外と遮断された瞬間、力が抜けてへたり込んでしまった。正直、頭を撫でられた時はかなりの刺激だった。しかし、心配させないようやせ我慢をしたのだ。ランサーには、見透かされていないといいのだけれど。
抱き上げられた時の感覚はようやく治まったのに、今度は撫でられた部分が疼いていた。呼吸が、また、荒くなる。身体は服の上からだが、頭は直接触れられた。私は感覚を上書きするように、撫でられた部分に手を当てた。強すぎる刺激というのは、思考を鈍らせ、感情を揺さぶる。ただ触れられるだけでこんなに掻き乱されるなんて、本当に厄介な体質だ。けれどこれは私が敏感だからであって、ランサーに惹かれている訳ではないのだ。それだけは勘違いしてはいけない。私は緩みかけた心を、きつく縛った。
*
あの後、力の抜けた足腰に鞭打ってなんとか部屋に戻りはしたものの、ソファでそのまま寝てしまったらしい。翌朝目覚めると、身体の至るところが痛かった。しかし気分はどこかスッキリしていた。
昨晩のことを思い出すと、まるで夢のように思えた。しかし朝食を作ろうと立ったキッチンで、洗いカゴに雑然と積まれた皿と、冷蔵庫に入った大量の酒を見て、夢ではないことを悟った。余った酒は、すぐ傷むものでもないしそのままにしておくことにしよう。次にまた彼が来る時に飲めばいい。いや、次の約束はしていないのだが、きっと近いうちにまたやってくる。不思議と、そんな予感がするのだ。