三月 冬の終わりのはじまりの日
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02
山の方に沈みかけた夕日が、周囲を赤く染めあげる。海から吹き抜ける風はさらに冷たくなっていた。
「お前さんの家知らねえから、このままついてくわ」
ランサーはそう言って、釣竿を片付けながら立ち上がった。そして軽く背伸びをしたあとに「坊主の家は知ってるけどな」と付け足した。それを聞いてふと、士郎くんが聖杯戦争の最初にサーヴァントに殺されかけたと言っていた事を思い出した。
「……もしかして、殺しに行ったから?」
「そういやそうだな。よく知ってるな」
率直に尋ねると、命のやり取りをしたとは思えない軽い調子で、あっさりと肯定された。個人の功績で座に召し上げられるほどの英雄なのだ。戦いが日常な時代に生きたのであれば、殺し合った相手と同じ釜の飯を食う事もあったのだろう。次元の違いを感じて、その発言にもはや恐怖すら湧かない。むしろ、現代人でありながら、殺されそうになった相手に料理を振る舞える士郎くんのメンタルの方が心配になってしまった。
「……と、悪い。怖がらせちまったか」
私の表情が曇ったのを見て、ランサーはしまった、という顔をした。士郎くんの心配をしていただけなのだが、何やら誤解させてしまったらしい。向こうからすればマスターでも魔術師でもない私は、関係者ではあるが一般人と同じ扱いなのだろう。
「……いや、別に。もとより聖杯戦争ってそういうものでしょ」
「お前、存外に肝が据わってるな。聖杯戦争に一枚噛むだけのことはあるか」
ランサーは感心しているようだったが、実際はそんなに大それたものではないと思う。命を軽んじてはいないが、必要以上に悲観しないだけ。魔術世界に長く関わっているから、どこか倫理観が麻痺してまっているのかも知れないけれど。
「まあ、なんだ。戦いでもねえのに、無闇矢鱈に殺したりはしねえから安心しな」
こちらの懸念を払うようにランサーは笑う。裏表のないカラッとした笑みだった。表情はあまり動かさず、「ありがとう」とだけ返し、背を向けて歩き出した。
元々表情の変化に乏しい自覚はあるが、今の私の表情筋は輪をかけて動きが鈍く感じる。何故なら緊張で強ばっているからだ。人見知りで普段人とあまり話す事もない私は、家に他人を招き料理を振る舞うなど初めてで。過去の切った張ったよりも、これからどう間を持たせればいいのか、という事の方がずっと気がかりだった。
港から歩いて三十分。駅前を通る頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。通りは昼間よりも人が増えていて、帰宅途中のサラリーマンや高校生、買い物をする主婦など、様々な人々が無秩序に行き交っている。
そこから更に十分ほど歩き、人気の少ない住宅街に入る。この辺りは大火災の被害を免れたため、新都の中では比較的古い家や建物が並んでいる界隈だ。少し坂を昇った所にある私の住むマンションも例外ではなく、ややセキュリティが心許ない。 共有のエントランスは深夜以外は解放されており、そこには埃を被った旧式の監視カメラがあるのみだ。当然、オートロックなどない。とは言え懸念はそれだけで、そこそこ広い角部屋に安い家賃で住めるのはかなりありがたく、私としては気に入っていた。
開けっ放しのエントランスを通り抜け、動いているのかいないのかわからないカメラの前を通り、エレベーターに乗る。部屋がある三階のボタンを押すと、重い鉄の扉が閉まり、大きな音を立ててエレベーターがゆっくりと上昇し始めた。
ここまでは周囲に人がいたため気にならなかったが、いざ閉鎖空間で二人きりになると、改めて彼を部屋に招くのだという実感が湧き、より緊張感が強まる。軽い気持ちで提案を受けた事を後悔してしまいそうになった矢先、エレベーターは、“チーン”と言うレトロな動作音を立て三階への到着を知らせた。
開いた扉の正面に、長い廊下が続いている。その突き当たり、一番奥が私の部屋だ。
「……雨宮、か」
部屋の前で、ポケットから鍵を取り出そうとしていると、後ろからふいに苗字を呼ばれた。何事かと思い振り返ると、ランサーの視線の先には、手書きで苗字だけを書いた表札。呼ばれた理由に合点がいった。
「んで、下は何て言うんだ?」
そういえば聖杯戦争の時には名乗らなかった事を思い出す。一時の共闘関係とは言え軽く顔を合わせた程度で、名乗る機会もなかった。それがまさか今も現界が続いていて、おまけに部屋に招くことになるだなんて。
「……依久乃、だよ」
「依久乃か。改めてよろしくな!」
自分の名前という耳慣れた音が、耳慣れない異性の声で響き、頬がじわりと熱くなる。なんとなく居た堪れなくなり「よろしく」と短く返し、すぐさま鍵を開けて中に入った。
部屋に入るとすぐに、ランサーが手早くサバを氷漬けにして締めてくれた。意外な手際の良さに感心したつつ、なんとなくガサツそうなイメージを抱いていた事を内心で詫びた。
何も食べないまま何品も作る気力はなかったので、とりあえずの腹ごしらえに買い置きのゼリー飲料を飲みつつ冷蔵庫の中身を確認する。案の定、二人分の食事を作るには食材が足りなかったため、近所のスーパーに行く事にした。夜は流石にマフラーだけでは寒いので、コートと手袋を身につけ、リビングのソファで寛いでいるランサーに声をかけた。
「ちょっと買い物に行ってくるね」
「お、ならオレも付いてくぜ」
予想外の返答に焦る。
「いや、すぐに戻るから、部屋で待っててくれていいよ」
「いや、ちょいと買いたいモンがあるんでな」
正直、また二人で外を歩く緊張感を味わいたくなかったのだが、買いたいものがあると言われれば無碍にもできず、渋々一緒に行く事にした。
サーヴァントがスーパーで一体何を買うのか疑問だったが、その謎はすぐに解けた。店に入るなり姿を消したランサーは、かと思いきやすぐに両手いっぱいの商品を抱えて戻って来たのだ。そしてそれを、まだ野菜売り場をうろうろしていた私のカゴにドサドサと入れた。急に重くなったカゴにバランスを崩しかけたが、ランサーがすかさずカゴを手にとってくれたので踏みとどまる事ができた。
「ちょっと、何これ……お酒? ごはん食べたら帰るんじゃなかったの?」
「飯食ったら飲むだろ? 普通」
「いや普通じゃないですけど……」
「安心しな、こいつぁ奢りだ。それともなんだ、お前さんも『ミセーネン』とやらか?」
「違うけど。『も』って、何。……あ、まさか士郎くんトコにお酒持って行ったの?」
「おうよ。坊主は飲まなかったがな」
大河の姉ちゃんがこれまた良い飲みっぷりでなぁ、などと嬉しそうに語る笑顔からは、悪意は感じられなかった。どうやら、お酒は食事への礼のつもりらしい。しかし、そもそも食材の礼に料理をご馳走するという話だったはずだ。それなのにお酒を奢られては計算が合わなくなる。
「いやいや。もうサバもらってるし、お酒までなんて悪いよ」
「気にすんなって、そっちは料理と場所、オレは材料と酒。これであいこだろ?」
さっきと言っていることが違う気がするが、さも当然のような口ぶりに、もう突っ込む気力も失せてしまった。
結局のところ、この男は楽しくご飯を食べられればそれで満足なのだろう。宵越しの銭は持たない、明日は明日の風が吹く……ここまで享楽的に生きられるのは、仮初の生だからか、それとも生来のものなのか。どちらにせよ、少し、羨ましい。
よほど料理が楽しみなのか、ランサーは鼻歌まじりに野菜を物色している。
「なあ依久乃、で、どれを買えばいいんだ?」
「え、ああ、ええとまずは……」
気が付くと少し距離が空いていたので慌てて駆け寄ると、微かに煙草の匂いが鼻を掠めた。
カゴに食材を選んで入れる度にランサーは目を輝かせた。その表情からは料理への期待が伝わってきて、はじめはそれが少しプレッシャーにも感じたが、食材を選んでいるうちに、私も段々と乗り気になってきた。
せっかくの機会だ、こうなったら精一杯料理を作って、美味しく食べてもらおう。そしてお酒も飲もう。たまには細かい事を気にせず楽しく過ごす日があってもいいのかも知れない。そんな柄にもない事を思った。今日偶然会っただけなのに、何だかもうすっかりランサーのペースだ。
会計を終え、帰路につく。ランサーは先の言葉どおり、酒の分のお金をきっちり支払ってくれ、ついでに荷物も持ってくれた。酒の強さにはそれなりに自信がある私でも、明日が少し心配になる程度の量だった。袋詰めする時に気付いたので、後の祭りなのだが。
まあ、飲み切れなかったら、持って帰ってもらえばいいだろう。
(続)
山の方に沈みかけた夕日が、周囲を赤く染めあげる。海から吹き抜ける風はさらに冷たくなっていた。
「お前さんの家知らねえから、このままついてくわ」
ランサーはそう言って、釣竿を片付けながら立ち上がった。そして軽く背伸びをしたあとに「坊主の家は知ってるけどな」と付け足した。それを聞いてふと、士郎くんが聖杯戦争の最初にサーヴァントに殺されかけたと言っていた事を思い出した。
「……もしかして、殺しに行ったから?」
「そういやそうだな。よく知ってるな」
率直に尋ねると、命のやり取りをしたとは思えない軽い調子で、あっさりと肯定された。個人の功績で座に召し上げられるほどの英雄なのだ。戦いが日常な時代に生きたのであれば、殺し合った相手と同じ釜の飯を食う事もあったのだろう。次元の違いを感じて、その発言にもはや恐怖すら湧かない。むしろ、現代人でありながら、殺されそうになった相手に料理を振る舞える士郎くんのメンタルの方が心配になってしまった。
「……と、悪い。怖がらせちまったか」
私の表情が曇ったのを見て、ランサーはしまった、という顔をした。士郎くんの心配をしていただけなのだが、何やら誤解させてしまったらしい。向こうからすればマスターでも魔術師でもない私は、関係者ではあるが一般人と同じ扱いなのだろう。
「……いや、別に。もとより聖杯戦争ってそういうものでしょ」
「お前、存外に肝が据わってるな。聖杯戦争に一枚噛むだけのことはあるか」
ランサーは感心しているようだったが、実際はそんなに大それたものではないと思う。命を軽んじてはいないが、必要以上に悲観しないだけ。魔術世界に長く関わっているから、どこか倫理観が麻痺してまっているのかも知れないけれど。
「まあ、なんだ。戦いでもねえのに、無闇矢鱈に殺したりはしねえから安心しな」
こちらの懸念を払うようにランサーは笑う。裏表のないカラッとした笑みだった。表情はあまり動かさず、「ありがとう」とだけ返し、背を向けて歩き出した。
元々表情の変化に乏しい自覚はあるが、今の私の表情筋は輪をかけて動きが鈍く感じる。何故なら緊張で強ばっているからだ。人見知りで普段人とあまり話す事もない私は、家に他人を招き料理を振る舞うなど初めてで。過去の切った張ったよりも、これからどう間を持たせればいいのか、という事の方がずっと気がかりだった。
港から歩いて三十分。駅前を通る頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。通りは昼間よりも人が増えていて、帰宅途中のサラリーマンや高校生、買い物をする主婦など、様々な人々が無秩序に行き交っている。
そこから更に十分ほど歩き、人気の少ない住宅街に入る。この辺りは大火災の被害を免れたため、新都の中では比較的古い家や建物が並んでいる界隈だ。少し坂を昇った所にある私の住むマンションも例外ではなく、ややセキュリティが心許ない。 共有のエントランスは深夜以外は解放されており、そこには埃を被った旧式の監視カメラがあるのみだ。当然、オートロックなどない。とは言え懸念はそれだけで、そこそこ広い角部屋に安い家賃で住めるのはかなりありがたく、私としては気に入っていた。
開けっ放しのエントランスを通り抜け、動いているのかいないのかわからないカメラの前を通り、エレベーターに乗る。部屋がある三階のボタンを押すと、重い鉄の扉が閉まり、大きな音を立ててエレベーターがゆっくりと上昇し始めた。
ここまでは周囲に人がいたため気にならなかったが、いざ閉鎖空間で二人きりになると、改めて彼を部屋に招くのだという実感が湧き、より緊張感が強まる。軽い気持ちで提案を受けた事を後悔してしまいそうになった矢先、エレベーターは、“チーン”と言うレトロな動作音を立て三階への到着を知らせた。
開いた扉の正面に、長い廊下が続いている。その突き当たり、一番奥が私の部屋だ。
「……雨宮、か」
部屋の前で、ポケットから鍵を取り出そうとしていると、後ろからふいに苗字を呼ばれた。何事かと思い振り返ると、ランサーの視線の先には、手書きで苗字だけを書いた表札。呼ばれた理由に合点がいった。
「んで、下は何て言うんだ?」
そういえば聖杯戦争の時には名乗らなかった事を思い出す。一時の共闘関係とは言え軽く顔を合わせた程度で、名乗る機会もなかった。それがまさか今も現界が続いていて、おまけに部屋に招くことになるだなんて。
「……依久乃、だよ」
「依久乃か。改めてよろしくな!」
自分の名前という耳慣れた音が、耳慣れない異性の声で響き、頬がじわりと熱くなる。なんとなく居た堪れなくなり「よろしく」と短く返し、すぐさま鍵を開けて中に入った。
部屋に入るとすぐに、ランサーが手早くサバを氷漬けにして締めてくれた。意外な手際の良さに感心したつつ、なんとなくガサツそうなイメージを抱いていた事を内心で詫びた。
何も食べないまま何品も作る気力はなかったので、とりあえずの腹ごしらえに買い置きのゼリー飲料を飲みつつ冷蔵庫の中身を確認する。案の定、二人分の食事を作るには食材が足りなかったため、近所のスーパーに行く事にした。夜は流石にマフラーだけでは寒いので、コートと手袋を身につけ、リビングのソファで寛いでいるランサーに声をかけた。
「ちょっと買い物に行ってくるね」
「お、ならオレも付いてくぜ」
予想外の返答に焦る。
「いや、すぐに戻るから、部屋で待っててくれていいよ」
「いや、ちょいと買いたいモンがあるんでな」
正直、また二人で外を歩く緊張感を味わいたくなかったのだが、買いたいものがあると言われれば無碍にもできず、渋々一緒に行く事にした。
サーヴァントがスーパーで一体何を買うのか疑問だったが、その謎はすぐに解けた。店に入るなり姿を消したランサーは、かと思いきやすぐに両手いっぱいの商品を抱えて戻って来たのだ。そしてそれを、まだ野菜売り場をうろうろしていた私のカゴにドサドサと入れた。急に重くなったカゴにバランスを崩しかけたが、ランサーがすかさずカゴを手にとってくれたので踏みとどまる事ができた。
「ちょっと、何これ……お酒? ごはん食べたら帰るんじゃなかったの?」
「飯食ったら飲むだろ? 普通」
「いや普通じゃないですけど……」
「安心しな、こいつぁ奢りだ。それともなんだ、お前さんも『ミセーネン』とやらか?」
「違うけど。『も』って、何。……あ、まさか士郎くんトコにお酒持って行ったの?」
「おうよ。坊主は飲まなかったがな」
大河の姉ちゃんがこれまた良い飲みっぷりでなぁ、などと嬉しそうに語る笑顔からは、悪意は感じられなかった。どうやら、お酒は食事への礼のつもりらしい。しかし、そもそも食材の礼に料理をご馳走するという話だったはずだ。それなのにお酒を奢られては計算が合わなくなる。
「いやいや。もうサバもらってるし、お酒までなんて悪いよ」
「気にすんなって、そっちは料理と場所、オレは材料と酒。これであいこだろ?」
さっきと言っていることが違う気がするが、さも当然のような口ぶりに、もう突っ込む気力も失せてしまった。
結局のところ、この男は楽しくご飯を食べられればそれで満足なのだろう。宵越しの銭は持たない、明日は明日の風が吹く……ここまで享楽的に生きられるのは、仮初の生だからか、それとも生来のものなのか。どちらにせよ、少し、羨ましい。
よほど料理が楽しみなのか、ランサーは鼻歌まじりに野菜を物色している。
「なあ依久乃、で、どれを買えばいいんだ?」
「え、ああ、ええとまずは……」
気が付くと少し距離が空いていたので慌てて駆け寄ると、微かに煙草の匂いが鼻を掠めた。
カゴに食材を選んで入れる度にランサーは目を輝かせた。その表情からは料理への期待が伝わってきて、はじめはそれが少しプレッシャーにも感じたが、食材を選んでいるうちに、私も段々と乗り気になってきた。
せっかくの機会だ、こうなったら精一杯料理を作って、美味しく食べてもらおう。そしてお酒も飲もう。たまには細かい事を気にせず楽しく過ごす日があってもいいのかも知れない。そんな柄にもない事を思った。今日偶然会っただけなのに、何だかもうすっかりランサーのペースだ。
会計を終え、帰路につく。ランサーは先の言葉どおり、酒の分のお金をきっちり支払ってくれ、ついでに荷物も持ってくれた。酒の強さにはそれなりに自信がある私でも、明日が少し心配になる程度の量だった。袋詰めする時に気付いたので、後の祭りなのだが。
まあ、飲み切れなかったら、持って帰ってもらえばいいだろう。
(続)