三月 冬の終わりのはじまりの日
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01
連勤続きでようやく取れた休日。仕事の疲れから泥のように眠り、目が覚めた頃には太陽が真上に上っていた。南向きの窓から差し込む頼りない冬の日差しが、室内をほんのり暖めている。
ぼんやりした頭で時計を見ると午後一時。予想以上に遅い時間に、見なかった事にして寝てしまいたい気持ちもあったが、貴重な休日を何もせずに終えて後悔するのはもっと嫌だったため、慌ただしく身支度を整え、白のセーターにグレーのマフラーをサッと巻いて家を出た。
坂を下り、少し歩くと新都駅前に出た。道の端には雪が少し残っているものの、日差しのおかげでマフラーだけでも十分に暖かい。三月上旬、そろそろ春の訪れを感じる季節だ。しかし、道行く人は皆一様に黒い上着を着ていて、心は未だ冬の中にあるようだった。雑踏の中に、淡い色の自分だけがぽつんと浮かび上がる。居た堪れなくなり、駅前を離れ、人気のないであろう港の方へ向かった。
三十分ほど歩き、港に着くと、まだ冬を感じさせる冷たい風が勢いよく吹き抜けた。歩き続けて少し火照った身体をあっという間に冷やして行く。コートを着て来なかったことを後悔しながら、乱れた髪を整え、マフラーを口元まで引き上げ肩をすくめた。
ふいに煙草の匂いが鼻を掠める。辺りを見回すと、とても見覚えのある男が一人、堤防で釣りをしていた。黒い革ジャケットに同じく黒い革のパンツ、そして何より、ひときわ目立つ青い髪。あれは間違いなく聖杯戦争のサーヴァント、ランサーだ。こちらは彼を覚えているが、あちらは私の事などきっと覚えていないだろう。何しろ、凛の補佐役としてほんの束の間顔を合わせた程度なのだ。
一人になりたくてここに来たのだが、知っている人物がいるのは居心地が悪いし、邪魔をするのも申し訳ない。それに何より風が寒い。気付かれないうちに立ち去ろう……と踵を返した瞬間、背後から声をかけられた。
「なんだ、帰っちまうのか」
思わず足を止め、ゆっくりと振り返ると、ランサーが堤防に座ったままこちらを見ていた。釣りに集中している様子だったし、距離もあるから気付かれるはずがないと思っていたのに。サーヴァントの感知能力は流石と言うべきか。
「お前さん、一度会ったことあるよな? 確か遠坂の嬢ちゃんと一緒にいた……」
存外に明るく親しみのある声で話しかけられ、聖杯戦争とのギャップと、意外にも自分を覚えていた事に面食らう。首の動きだけでたどたどしく会釈を返すと、ランサーはニカッと笑って、ひらひらと手招きした。戸惑いつつも恐る恐る距離を縮めると、ランサーは煙草をコーヒーの空き缶に押し付けて消した。吸い殻がたくさん刺さっている空き缶は、まるで何かのオブジェのようだ。それなりに長い時間ここにいるらしい。
「よう、オレの事、覚えてるだろ?」
「ええ、まあ」
「昼に会うのは初めてだな。今日は嬢ちゃんと一緒じゃねえのか?」
話しかけられた理由に合点がいった。そういえばランサーは凛のことを気に入っていたっけ。私は聖杯戦争では凛と行動を共にしていたから、相棒のようにでも見えたのだろうか。
「別に、いつも一緒ってわけじゃないです。凛に何か用ですか?」
「いや? 特には」
「え……じゃあどうして私に」
「そりゃ知った顔だったから話しかけただけだが。お前さんこそオレに何か用か?」
「……いえ、ただの通りすがりです」
「そうかい」
「……」
「……」
会話が途切れてしまった。仕事としての接客はなんとかこなせるが、利害や接点がない相手との会話、いわゆる世間話はとても苦手だ。どうにも気まずく、今度こそ理由をつけて帰ってしまおうかと思い巡らせていると、ランサーが再び口を開いた。
「なあ、お前さん暇か?」
「……まあ、特に予定もないです、けど」
「ならちと付き合ってくれねえか」
「えっ」
「いいだろ別に。何、取って食いやしねえよ。戦士の端くれとして、鍛錬に花を添える美人がいりゃあ、より捗るってだけの話だ」
“美人”。言われ慣れない言葉に心臓が跳ねる。しかし軽々しくこういう事を口にする男はたいてい誰にでも言っているから本気にしてはいけない、と誰かが言っていた気がする。冷静になれ。どう考えてもお世辞だ。そもそも私は美人などではない。というか、鍛錬とは釣りの事だろうか。相手の意図が読めず眉根を寄せる。
「そう怖い顔しなさんなって。要は暇なら話し相手にでもなってくれ、ってことだよ」
ほら、と言いながら隣の地面を軽く叩いて手招きをする。そこに座れという事だろう。こうも屈託なく誘われると、断りにくい。実際、特に決まった予定もないので、観念して誘いに乗る事にした。
しかし、言われるがままに動くのはなんとなく癪なので、あえて背後を通り過ぎ、バケツを挟んで反対側に腰掛けた。「なんだそっちに座るのか」ランサーは一瞬驚いた顔をしたが、それ以上は追及してこなかった。
足先がぶらぶらと浮いて少し心許ない。堤防の下からは消波ブロックに波が当たってざぱざぱと碎ける音が聞こえる。なんとなくバケツの中を覗くと、既に二、三匹ほどの魚が泳いでいた。……へえ、ここ本当に釣れるんだ。
「ああ、結構釣れるぜ」
心の中で呟いたつもりがうっかり声に出ていたらしい。言葉が返ってきた事に驚き、顔を上げると目が合った。ランサーはそのまま話を続ける。
「たまーに大物が来る時もあるぜ」
得意そうに笑ったあと、まあ、だいたいは小せえサバやアジだが、と低めのトーンで付け加えた。その様子から、大物とやらは、本当にたまにしか来ないのだという事が伺える。釣りに関して無知な私は、食べられる魚が釣れるならいいじゃないかと思ってしまうのだが、やはり釣るからには大きいものを狙いたいのだろうか。
「ま、こうしてじっくり待つ時間も釣りの醍醐味ってもんだ」
「そういうもの、なんですね」
「おうよ」
ランサーは再び視線を海に戻した。そして、それ以降は特に何も語らず、私も返す言葉がないので、また会話が途切れてしまった。何か話そうと頭の中の引き出しを探してみたものの、特に共通の話題も気の利いた言葉も見つからず、ひとり肩を落とす。ランサーは私のそんな葛藤などどこ吹く風と釣りに集中するのみで、話し相手になれと誘った割に沈黙を気にする様子がない。その奔放さに少し呆れたが、同時に肩の力が抜けもした。
私も、ランサーを真似てぼんやりと海の方を見る。遠くの方で気ままに飛び回る鳥の姿に一層和んだ。待つ時間も醍醐味、か。確かに、こんな過ごし方も悪くない。時折冷たい海風が吹き抜けるが、波はそれほど高くなく、とても穏やかだ。穏やかすぎて、肝心の釣り糸は波に漂う以外に動く様子がないのだが。
釣り糸ばかり見ているのは飽きたので、ランサーの方にこっそり視線をやってみた。どこか気だるげな表情は、聖杯戦争の時とはまるで別人だ。私服姿も相まって、パッと見はただの人間にしか見えない。しかし、内側には神代の強い神秘を秘めているのがわかる。
生まれつきの能力で、目で見るだけで対象に宿る神秘の度合いをはかることができる私は、普段はそれで魔術の触媒に適した宝石の鑑別を行なっている。はじめから魔力を蓄えている、或いは蓄えるに適した上質な宝石は、見た目には同じでも他のものとは輝きが違うのだが、サーヴァントにもそれと同じ事が言える。見た目は人間に近くとも、内に秘めたものが全く違う。物理的な見た目は人と同じでもその「中身」は一次元上の神秘だ。
そして、この目は「見分ける」というより「惹き付けられる」性質の方が強いので、神秘が色濃いものにはつい反応してしまい、私には彼らがとても美しく見える。初めてサーヴァントを見た時は、これほどの神秘があるのかと驚いた。特に士郎くんのセイバーを見た時の衝撃は今でも忘れられない。
ランサーは確かアイルランドの英雄だっただろうか。うちに宿る神秘も然る事ながら、その造形も美しく、目を惹かれる。服の上からもわかるしなやかな肉付き。そして何より鮮やかなその色彩。ルビーやガーネットを思わせる鮮やかな赤い瞳に、目の前の海よりも遥かに青く艶やかな髪。束ねた後ろ髪が風にサラサラとなびくたびに、視線を奪われる──。
「あー、そう見てられると落ち着かねえんだが」
呼びかけられた声ではっと我に返る。ランサーは視線だけをこちらに寄越し、困ったように笑っていた。バケツの中に魚がさっきより増えている。軽く視線をやっただけのつもりだったが、もしかして、結構な時間、見入ってしまっていたのだろうか。
「ご、ごめんなさい!」
恥ずかしさと申し訳なさから、思わず頭を下げた。
「いや、謝るこたねえよ。殺気や悪意がねえのはわかったしな。だが、あんまりにも熱心に見てるもんで気になっちまった」
やってしまった、と思った。この目は自分の意思とは関係なく、神秘の"強さ"に反応して、見続けてしまうのだ。それが呪いや魅了 の類を帯びていたとしても。子供の頃はよくそれでトラブルに巻き込まれたりもした。今は凛による魔術防護をかけた眼鏡と、受け皿となる自身の精神鍛錬で、生活に支障が出ないレベルに制御は出来ているのだが、それでも時折コントロールを失う事はある。しかし最近はもう、ここまで無防備に見入ることは滅多になかったのだが……今日はやはり、疲れているのだろうか。
「あ、あの、これはほんと、他意はないの! クセというか、職業病みたいなもので! 今日はたまたま、疲れてて……」
慌てて言い訳をする私を、ランサーは興味深そうに眺めている。そして、突然何かを閃いたような表情で、とんでもない事を言い放った。
「ははあ、もしや、お前さんオレに気があるのか?」
「…………はぁ!?」
突拍子がなさすぎて間抜けな声を上げてしまった。
「どうしてそうなるの!?」
「だって、そういうカオしてたぜ」
「いや、断じて違うから」
「まあまあ、そう頑なになりなさんなって」
「なってない!」
一体、どこをどう解釈すればそうなるのか。私が美しいものに惹かれるのはあくまでそういう目の性質であって、それと恋愛感情は関係がない。むしろ惹かれるからこそ、それと混同しないように冷静に観察しているのに。
こちらの否定もへらへらとした態度で躱されてしまう。その不躾さに段々腹が立ってきた。今の彼には先ほどまでの神秘的な雰囲気は欠片もなく、それどころかもはやただの胡散臭いナンパ男にしか見えない。何故こんな奴に見惚れてしまっていたのか。自分が情けなくなる。
「……あのね。本当に、浮いた気持ちで見てたわけじゃないから。そもそもサーヴァントは存在自体が神秘だし、惹き付けられるのは仕方ないっていうか。
その宝石みたいな赤い瞳や、海より青い髪が、ただただ綺麗だなって思っていただけで、それと惚れるってのは全く別なんだか、ら……あ……その……」
しまった。必死になりすぎて、余計なことまで口にしてしまった。向こうの言い分を否定するつもりで言ったのに、これじゃめちゃくちゃ褒めているみたいじゃないか。いや褒めているんだけど。でも、惚れてはいない。断じて。
慌てふためく私を見て、ランサーがもう耐えられないとばかりに腹を抱えて笑い出した。何だか、盛大に墓穴を掘った気がする。うう、恥ずかしい。穴があったら入りたい。できれば、自分で掘った墓穴以外に。
「お前さん、堅物だと思ってたが、実は結構面白い奴なんだな」
「は!? な、何が!?」
「何がも何も、そういうところがだよ。……っくくっ……」
「わ、笑うなぁ!! このナンパ男!!」
「おーおー、気が強くて結構だ」
ランサーは声を上げて笑い、何なら目尻に涙すら浮かべている。そんなに人が狼狽える姿が面白いというのか。恥ずかしくて顔が熱い。
というか、今日はやっぱりおかしい。私は普段こんなに取り乱したりしないのに。それもこれも全部、きっと、ランサーのせいだ。彼には何故かペースを乱される。こんなの私らしくない。ゆっくり深呼吸して、心を落ち着けなくては。
「……今のは忘れて。美しいとは思ったけど、本当に他意はないから」
「わかったわかった。そういう事にしといてやるよ」
はーおもしれえ、と独りごちながら、ひとしきり笑ったあと、目じりに滲んだ涙を指で拭ったランサーは、改めてこちらに視線を向けた。
「ところで、敬語じゃなくなったな」
言われて、つい先程の自分の発言を反芻し、はっとする。確かに、いつの間にか砕けた口調になっていた。感情が昂ると言葉遣いが荒れるのは悪い癖だと反省する。
「……ごめん、なさい」
「謝んなよ。むしろ歓迎だ。気楽に行こうぜ、お互いによ」
ランサーは笑った。それはさっきまでのような大笑いではなく、とても穏やかで親しげな笑みだ。心做しか、また心臓の音が大きくなった気がした。
「さて、そろそろ切り上げるかな。どうも今日は調子が悪い。手応えが全くねえんだ」
ランサーはおもむろに糸を引き上げ、竿を片付け始めた。
「結構釣れてるように見えるけど……」
「数は釣れたが、どれも小せえだろ」
バケツの中では二十センチもないくらいの小ぶりの魚ばかりが、所狭しと泳ぎ回っていた。だいたい七、八匹くらい。みんな同じ種類に見える。おそらくサバだ。
「欲しいなら、持ってくか? 多分食えるぜ。美味いかどうかはわからんが」
「えっ、いいの?」
思わぬ提案に、反射的に反応してしまった。しかし魚をもらっても、返せるようなものを私は持ち合わせていない。
「……でも、何を返したらいいか。言い値で買い取ろうか」
「金なんざいらねえよ。付き合わせた礼ってことで」
「いや、私何もしてないし……タダなら尚更もらえない」
「気にすんなって。オレは釣りそのものが目的だしな」
正直に言えば、新鮮な魚がまとまってもらえるというのはありがたい。しかし、やはり無料 でもらうというのは気が引ける。今日の礼と言うなら、私は狼狽えていただけで、それこそ本当に何もしていない。かと言っていい案も思い浮かばず、バケツの中とランサーの顔を交互にみつめてしまう。
「……んー、いや待てよ。お前さん、料理はできるか?」
唐突な問いに意図がつかめないながらも、一応は、と頷くと、ランサーはパッと顔を輝かせた。
「じゃあこれ、お前さんならどう料理する?」
「うーん……。単純に塩焼き、味噌煮、あと竜田揚げ、南蛮漬けもいいかな。洋風にしても美味しいと思う。トマト煮とか、ムニエルとか……」
思いつく限りのレパートリーを並べる。うんうんと頷きながら一通り聞き終えたランサーは、「じゃあこれからお前ん家でそれ食わせてくれ」などと言い出した。突拍子もない申し出に、思わず「えっ」と間の抜けた声を出してしまう。仮にナンパだとしてももう少し何かあるだろう。あまりのフランクさに、初めに感じていた"神話の英雄"というイメージはとっくに行方不明だ。
それに、ほぼ初対面の相手を家に招くというのは、流石に何かまずい気がする。サーヴァントは食事を摂る必要がないのでは、と苦し紛れに突っ込んだところ、先日士郎くんの家で鮭のホイル焼きを食べ、その美味しさに感動し、他の料理にも興味を持ったらしい。曰く、食事は必要ではないが、美味い食事なら楽しみとしてアリだと。
「じゃあ、士郎くんの家に持って行けば……?」
「野暮だなぁ。坊主よりも美人の手料理が食いたいってのが、人情ってモンだろ?」
「そんな人情、知らな……あ」
またふざけた事を言ったので、少し強めの口調で断ろうとしたその時。ぐうう……と、お腹が鳴った。そういえば昼に目が覚めてそのまま家を出てきたので、何も食べていなかったんだった。それにしても、なんてタイミングで鳴るんだ、私のお腹。
「なんだ、腹減ってんのか?」
人間に聞こえる音が、サーヴァントに聞こえない筈がなく。空腹を知らせる音は、しっかり拾われてしまったようだ。なんだか今日は情けないところを晒してばかりだ。思わずため息をつくと、全身の力が一気に抜けた。
「……今日は、まだ、何も食べてない、から」
「なんだそれ早く言えよ! さっさと帰ってこれ食え。そしてオレにも食わせろ」
「う……でも、いきなり家にってのはちょっと」
「安心しな。ちゃんと食ったら帰るからよ」
この有無を言わせない感じ。正直言って、押しの強い相手は苦手だ。とは言え、料理を作るのは苦ではないし、何だかんだそれが最良の選択な気もする。これはいわゆる利害の一致というやつで、やましい事などひとつもないのだ。少しだけ心が躍っているのはきっと、サバが楽しみだから。ランサーとの食事が楽しみなわけじゃない。決して。
「ああもう、わかったよ。その代わり、食べたらちゃんと帰ってね」
「おう!」
ランサーは心から嬉しそうに笑った。いつの間にか西に傾いた太陽の光が、細められた赤い目に差し込んでキラキラと光る。それは先ほど見惚れた神秘そのもので、ただただ素直に「綺麗だ」と思ってしまった。顔が熱い。頬はきっと赤くなっているかもしれないが、同じく赤らんだ夕日に誤魔化されていることを祈るしかない。
(続)
連勤続きでようやく取れた休日。仕事の疲れから泥のように眠り、目が覚めた頃には太陽が真上に上っていた。南向きの窓から差し込む頼りない冬の日差しが、室内をほんのり暖めている。
ぼんやりした頭で時計を見ると午後一時。予想以上に遅い時間に、見なかった事にして寝てしまいたい気持ちもあったが、貴重な休日を何もせずに終えて後悔するのはもっと嫌だったため、慌ただしく身支度を整え、白のセーターにグレーのマフラーをサッと巻いて家を出た。
坂を下り、少し歩くと新都駅前に出た。道の端には雪が少し残っているものの、日差しのおかげでマフラーだけでも十分に暖かい。三月上旬、そろそろ春の訪れを感じる季節だ。しかし、道行く人は皆一様に黒い上着を着ていて、心は未だ冬の中にあるようだった。雑踏の中に、淡い色の自分だけがぽつんと浮かび上がる。居た堪れなくなり、駅前を離れ、人気のないであろう港の方へ向かった。
三十分ほど歩き、港に着くと、まだ冬を感じさせる冷たい風が勢いよく吹き抜けた。歩き続けて少し火照った身体をあっという間に冷やして行く。コートを着て来なかったことを後悔しながら、乱れた髪を整え、マフラーを口元まで引き上げ肩をすくめた。
ふいに煙草の匂いが鼻を掠める。辺りを見回すと、とても見覚えのある男が一人、堤防で釣りをしていた。黒い革ジャケットに同じく黒い革のパンツ、そして何より、ひときわ目立つ青い髪。あれは間違いなく聖杯戦争のサーヴァント、ランサーだ。こちらは彼を覚えているが、あちらは私の事などきっと覚えていないだろう。何しろ、凛の補佐役としてほんの束の間顔を合わせた程度なのだ。
一人になりたくてここに来たのだが、知っている人物がいるのは居心地が悪いし、邪魔をするのも申し訳ない。それに何より風が寒い。気付かれないうちに立ち去ろう……と踵を返した瞬間、背後から声をかけられた。
「なんだ、帰っちまうのか」
思わず足を止め、ゆっくりと振り返ると、ランサーが堤防に座ったままこちらを見ていた。釣りに集中している様子だったし、距離もあるから気付かれるはずがないと思っていたのに。サーヴァントの感知能力は流石と言うべきか。
「お前さん、一度会ったことあるよな? 確か遠坂の嬢ちゃんと一緒にいた……」
存外に明るく親しみのある声で話しかけられ、聖杯戦争とのギャップと、意外にも自分を覚えていた事に面食らう。首の動きだけでたどたどしく会釈を返すと、ランサーはニカッと笑って、ひらひらと手招きした。戸惑いつつも恐る恐る距離を縮めると、ランサーは煙草をコーヒーの空き缶に押し付けて消した。吸い殻がたくさん刺さっている空き缶は、まるで何かのオブジェのようだ。それなりに長い時間ここにいるらしい。
「よう、オレの事、覚えてるだろ?」
「ええ、まあ」
「昼に会うのは初めてだな。今日は嬢ちゃんと一緒じゃねえのか?」
話しかけられた理由に合点がいった。そういえばランサーは凛のことを気に入っていたっけ。私は聖杯戦争では凛と行動を共にしていたから、相棒のようにでも見えたのだろうか。
「別に、いつも一緒ってわけじゃないです。凛に何か用ですか?」
「いや? 特には」
「え……じゃあどうして私に」
「そりゃ知った顔だったから話しかけただけだが。お前さんこそオレに何か用か?」
「……いえ、ただの通りすがりです」
「そうかい」
「……」
「……」
会話が途切れてしまった。仕事としての接客はなんとかこなせるが、利害や接点がない相手との会話、いわゆる世間話はとても苦手だ。どうにも気まずく、今度こそ理由をつけて帰ってしまおうかと思い巡らせていると、ランサーが再び口を開いた。
「なあ、お前さん暇か?」
「……まあ、特に予定もないです、けど」
「ならちと付き合ってくれねえか」
「えっ」
「いいだろ別に。何、取って食いやしねえよ。戦士の端くれとして、鍛錬に花を添える美人がいりゃあ、より捗るってだけの話だ」
“美人”。言われ慣れない言葉に心臓が跳ねる。しかし軽々しくこういう事を口にする男はたいてい誰にでも言っているから本気にしてはいけない、と誰かが言っていた気がする。冷静になれ。どう考えてもお世辞だ。そもそも私は美人などではない。というか、鍛錬とは釣りの事だろうか。相手の意図が読めず眉根を寄せる。
「そう怖い顔しなさんなって。要は暇なら話し相手にでもなってくれ、ってことだよ」
ほら、と言いながら隣の地面を軽く叩いて手招きをする。そこに座れという事だろう。こうも屈託なく誘われると、断りにくい。実際、特に決まった予定もないので、観念して誘いに乗る事にした。
しかし、言われるがままに動くのはなんとなく癪なので、あえて背後を通り過ぎ、バケツを挟んで反対側に腰掛けた。「なんだそっちに座るのか」ランサーは一瞬驚いた顔をしたが、それ以上は追及してこなかった。
足先がぶらぶらと浮いて少し心許ない。堤防の下からは消波ブロックに波が当たってざぱざぱと碎ける音が聞こえる。なんとなくバケツの中を覗くと、既に二、三匹ほどの魚が泳いでいた。……へえ、ここ本当に釣れるんだ。
「ああ、結構釣れるぜ」
心の中で呟いたつもりがうっかり声に出ていたらしい。言葉が返ってきた事に驚き、顔を上げると目が合った。ランサーはそのまま話を続ける。
「たまーに大物が来る時もあるぜ」
得意そうに笑ったあと、まあ、だいたいは小せえサバやアジだが、と低めのトーンで付け加えた。その様子から、大物とやらは、本当にたまにしか来ないのだという事が伺える。釣りに関して無知な私は、食べられる魚が釣れるならいいじゃないかと思ってしまうのだが、やはり釣るからには大きいものを狙いたいのだろうか。
「ま、こうしてじっくり待つ時間も釣りの醍醐味ってもんだ」
「そういうもの、なんですね」
「おうよ」
ランサーは再び視線を海に戻した。そして、それ以降は特に何も語らず、私も返す言葉がないので、また会話が途切れてしまった。何か話そうと頭の中の引き出しを探してみたものの、特に共通の話題も気の利いた言葉も見つからず、ひとり肩を落とす。ランサーは私のそんな葛藤などどこ吹く風と釣りに集中するのみで、話し相手になれと誘った割に沈黙を気にする様子がない。その奔放さに少し呆れたが、同時に肩の力が抜けもした。
私も、ランサーを真似てぼんやりと海の方を見る。遠くの方で気ままに飛び回る鳥の姿に一層和んだ。待つ時間も醍醐味、か。確かに、こんな過ごし方も悪くない。時折冷たい海風が吹き抜けるが、波はそれほど高くなく、とても穏やかだ。穏やかすぎて、肝心の釣り糸は波に漂う以外に動く様子がないのだが。
釣り糸ばかり見ているのは飽きたので、ランサーの方にこっそり視線をやってみた。どこか気だるげな表情は、聖杯戦争の時とはまるで別人だ。私服姿も相まって、パッと見はただの人間にしか見えない。しかし、内側には神代の強い神秘を秘めているのがわかる。
生まれつきの能力で、目で見るだけで対象に宿る神秘の度合いをはかることができる私は、普段はそれで魔術の触媒に適した宝石の鑑別を行なっている。はじめから魔力を蓄えている、或いは蓄えるに適した上質な宝石は、見た目には同じでも他のものとは輝きが違うのだが、サーヴァントにもそれと同じ事が言える。見た目は人間に近くとも、内に秘めたものが全く違う。物理的な見た目は人と同じでもその「中身」は一次元上の神秘だ。
そして、この目は「見分ける」というより「惹き付けられる」性質の方が強いので、神秘が色濃いものにはつい反応してしまい、私には彼らがとても美しく見える。初めてサーヴァントを見た時は、これほどの神秘があるのかと驚いた。特に士郎くんのセイバーを見た時の衝撃は今でも忘れられない。
ランサーは確かアイルランドの英雄だっただろうか。うちに宿る神秘も然る事ながら、その造形も美しく、目を惹かれる。服の上からもわかるしなやかな肉付き。そして何より鮮やかなその色彩。ルビーやガーネットを思わせる鮮やかな赤い瞳に、目の前の海よりも遥かに青く艶やかな髪。束ねた後ろ髪が風にサラサラとなびくたびに、視線を奪われる──。
「あー、そう見てられると落ち着かねえんだが」
呼びかけられた声ではっと我に返る。ランサーは視線だけをこちらに寄越し、困ったように笑っていた。バケツの中に魚がさっきより増えている。軽く視線をやっただけのつもりだったが、もしかして、結構な時間、見入ってしまっていたのだろうか。
「ご、ごめんなさい!」
恥ずかしさと申し訳なさから、思わず頭を下げた。
「いや、謝るこたねえよ。殺気や悪意がねえのはわかったしな。だが、あんまりにも熱心に見てるもんで気になっちまった」
やってしまった、と思った。この目は自分の意思とは関係なく、神秘の"強さ"に反応して、見続けてしまうのだ。それが呪いや
「あ、あの、これはほんと、他意はないの! クセというか、職業病みたいなもので! 今日はたまたま、疲れてて……」
慌てて言い訳をする私を、ランサーは興味深そうに眺めている。そして、突然何かを閃いたような表情で、とんでもない事を言い放った。
「ははあ、もしや、お前さんオレに気があるのか?」
「…………はぁ!?」
突拍子がなさすぎて間抜けな声を上げてしまった。
「どうしてそうなるの!?」
「だって、そういうカオしてたぜ」
「いや、断じて違うから」
「まあまあ、そう頑なになりなさんなって」
「なってない!」
一体、どこをどう解釈すればそうなるのか。私が美しいものに惹かれるのはあくまでそういう目の性質であって、それと恋愛感情は関係がない。むしろ惹かれるからこそ、それと混同しないように冷静に観察しているのに。
こちらの否定もへらへらとした態度で躱されてしまう。その不躾さに段々腹が立ってきた。今の彼には先ほどまでの神秘的な雰囲気は欠片もなく、それどころかもはやただの胡散臭いナンパ男にしか見えない。何故こんな奴に見惚れてしまっていたのか。自分が情けなくなる。
「……あのね。本当に、浮いた気持ちで見てたわけじゃないから。そもそもサーヴァントは存在自体が神秘だし、惹き付けられるのは仕方ないっていうか。
その宝石みたいな赤い瞳や、海より青い髪が、ただただ綺麗だなって思っていただけで、それと惚れるってのは全く別なんだか、ら……あ……その……」
しまった。必死になりすぎて、余計なことまで口にしてしまった。向こうの言い分を否定するつもりで言ったのに、これじゃめちゃくちゃ褒めているみたいじゃないか。いや褒めているんだけど。でも、惚れてはいない。断じて。
慌てふためく私を見て、ランサーがもう耐えられないとばかりに腹を抱えて笑い出した。何だか、盛大に墓穴を掘った気がする。うう、恥ずかしい。穴があったら入りたい。できれば、自分で掘った墓穴以外に。
「お前さん、堅物だと思ってたが、実は結構面白い奴なんだな」
「は!? な、何が!?」
「何がも何も、そういうところがだよ。……っくくっ……」
「わ、笑うなぁ!! このナンパ男!!」
「おーおー、気が強くて結構だ」
ランサーは声を上げて笑い、何なら目尻に涙すら浮かべている。そんなに人が狼狽える姿が面白いというのか。恥ずかしくて顔が熱い。
というか、今日はやっぱりおかしい。私は普段こんなに取り乱したりしないのに。それもこれも全部、きっと、ランサーのせいだ。彼には何故かペースを乱される。こんなの私らしくない。ゆっくり深呼吸して、心を落ち着けなくては。
「……今のは忘れて。美しいとは思ったけど、本当に他意はないから」
「わかったわかった。そういう事にしといてやるよ」
はーおもしれえ、と独りごちながら、ひとしきり笑ったあと、目じりに滲んだ涙を指で拭ったランサーは、改めてこちらに視線を向けた。
「ところで、敬語じゃなくなったな」
言われて、つい先程の自分の発言を反芻し、はっとする。確かに、いつの間にか砕けた口調になっていた。感情が昂ると言葉遣いが荒れるのは悪い癖だと反省する。
「……ごめん、なさい」
「謝んなよ。むしろ歓迎だ。気楽に行こうぜ、お互いによ」
ランサーは笑った。それはさっきまでのような大笑いではなく、とても穏やかで親しげな笑みだ。心做しか、また心臓の音が大きくなった気がした。
「さて、そろそろ切り上げるかな。どうも今日は調子が悪い。手応えが全くねえんだ」
ランサーはおもむろに糸を引き上げ、竿を片付け始めた。
「結構釣れてるように見えるけど……」
「数は釣れたが、どれも小せえだろ」
バケツの中では二十センチもないくらいの小ぶりの魚ばかりが、所狭しと泳ぎ回っていた。だいたい七、八匹くらい。みんな同じ種類に見える。おそらくサバだ。
「欲しいなら、持ってくか? 多分食えるぜ。美味いかどうかはわからんが」
「えっ、いいの?」
思わぬ提案に、反射的に反応してしまった。しかし魚をもらっても、返せるようなものを私は持ち合わせていない。
「……でも、何を返したらいいか。言い値で買い取ろうか」
「金なんざいらねえよ。付き合わせた礼ってことで」
「いや、私何もしてないし……タダなら尚更もらえない」
「気にすんなって。オレは釣りそのものが目的だしな」
正直に言えば、新鮮な魚がまとまってもらえるというのはありがたい。しかし、やはり
「……んー、いや待てよ。お前さん、料理はできるか?」
唐突な問いに意図がつかめないながらも、一応は、と頷くと、ランサーはパッと顔を輝かせた。
「じゃあこれ、お前さんならどう料理する?」
「うーん……。単純に塩焼き、味噌煮、あと竜田揚げ、南蛮漬けもいいかな。洋風にしても美味しいと思う。トマト煮とか、ムニエルとか……」
思いつく限りのレパートリーを並べる。うんうんと頷きながら一通り聞き終えたランサーは、「じゃあこれからお前ん家でそれ食わせてくれ」などと言い出した。突拍子もない申し出に、思わず「えっ」と間の抜けた声を出してしまう。仮にナンパだとしてももう少し何かあるだろう。あまりのフランクさに、初めに感じていた"神話の英雄"というイメージはとっくに行方不明だ。
それに、ほぼ初対面の相手を家に招くというのは、流石に何かまずい気がする。サーヴァントは食事を摂る必要がないのでは、と苦し紛れに突っ込んだところ、先日士郎くんの家で鮭のホイル焼きを食べ、その美味しさに感動し、他の料理にも興味を持ったらしい。曰く、食事は必要ではないが、美味い食事なら楽しみとしてアリだと。
「じゃあ、士郎くんの家に持って行けば……?」
「野暮だなぁ。坊主よりも美人の手料理が食いたいってのが、人情ってモンだろ?」
「そんな人情、知らな……あ」
またふざけた事を言ったので、少し強めの口調で断ろうとしたその時。ぐうう……と、お腹が鳴った。そういえば昼に目が覚めてそのまま家を出てきたので、何も食べていなかったんだった。それにしても、なんてタイミングで鳴るんだ、私のお腹。
「なんだ、腹減ってんのか?」
人間に聞こえる音が、サーヴァントに聞こえない筈がなく。空腹を知らせる音は、しっかり拾われてしまったようだ。なんだか今日は情けないところを晒してばかりだ。思わずため息をつくと、全身の力が一気に抜けた。
「……今日は、まだ、何も食べてない、から」
「なんだそれ早く言えよ! さっさと帰ってこれ食え。そしてオレにも食わせろ」
「う……でも、いきなり家にってのはちょっと」
「安心しな。ちゃんと食ったら帰るからよ」
この有無を言わせない感じ。正直言って、押しの強い相手は苦手だ。とは言え、料理を作るのは苦ではないし、何だかんだそれが最良の選択な気もする。これはいわゆる利害の一致というやつで、やましい事などひとつもないのだ。少しだけ心が躍っているのはきっと、サバが楽しみだから。ランサーとの食事が楽しみなわけじゃない。決して。
「ああもう、わかったよ。その代わり、食べたらちゃんと帰ってね」
「おう!」
ランサーは心から嬉しそうに笑った。いつの間にか西に傾いた太陽の光が、細められた赤い目に差し込んでキラキラと光る。それは先ほど見惚れた神秘そのもので、ただただ素直に「綺麗だ」と思ってしまった。顔が熱い。頬はきっと赤くなっているかもしれないが、同じく赤らんだ夕日に誤魔化されていることを祈るしかない。
(続)