裏・六月 雨に咲く花
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04
振り返ってみれば、今日という穴は、再びアイツに会うために誂えられたかのような一日だった。
最初こそぎこちなかったが、飯を食い、酒を飲み交わせば、一ヶ月の空白などなかったかのように楽しく過ごせた。相変わらず無理をしがちなところはあるが、それほど落ち込んでいないようにも見えて、安心したのだが──。
心配した、そう言われた時、己の行動を一瞬だけ後悔した。
悪かった、と謝りはしたが、もしかしたら、もう遅かったのかもしれない。
アイツは体質のせいだと言い張るが、やはりあの視線に含まれる「色」は、そうとしか思えない。
どこかで、それを喜ぶ自分もいた。明らかに、調子に乗っていたと思う。
だから愚かにも「お前が一番だ」なんて、含みのある台詞を投げかけてしまった。
案の定、じっと見つめるだけで、依久乃は顔を真っ赤にして照れてしまった。
澄んだ水面に石を投じれば波紋が起きるように、素直に反応する。それがあまりにもいじらしくて、ついからかってしまう。
笑顔にしてやりたいと言いながら、その心を揺らす事を楽しむ矛盾。初心 なアイツにとって、これがどれだけ罪深い冗談なのかが理解できないオレではない。
かすかな罪悪感に、ほんの少しだけ心が痛み、覚悟が揺らぐ。
やはりこれ以上深入りしてはいけない。次に嬢ちゃんに会ったら、「元気だった」と報告して、しばらくここに来るのは控えよう。
そう思ってしまった。
それなのに、アイツと来たら。
明日は早番だからと早々に帰ろうとするオレに、「次は何が食べたいか」などと聞いてきやがった。
決して欲しい物に手を伸ばす事をしようとしなかったアイツが、オレに「また会いたい」という意思を示してきたのだ。以前なら平気そうな顔をして、さっさと送り出してきたくせに。
一ヶ月の空白は、別れ際にその差を見せつけてきた。
依久乃自身も、自分の言動に戸惑っている様子だった。どこか不安げな様子でこちらの返答を伺いながら、しかしそれを必死に隠そうともしている。
それを見て、オレは悟った。
ああ、これはコイツなりの勇気なのだ、と。
次の約束を取り付けるだけの、何気ない友人同士の会話。しかし、これまでずっと他人との関係性に線を引いてきた依久乃にとっては、大きな変化だ。生まれて初めて、他人に踏み込もうとしているのだから。
気が変わった。会う頻度を下げるのはやめだ。
そもそも傷付けたくないのなら、むしろ守ってやればいいだけの事。
オレはただ、「欲しい物を欲しがる」という人間として当たり前の自我が芽生え始めたこの女を、見守ってやりたいと、思ってしまったのだ。
別れ際、あまりに切ない表情をするものだから、つい頭を撫でてしまった。不安を拭うように「無理すんなよ」とだけ声をかけて、振り切るように部屋を出た。
エレベーターを降り、エントランスへ。濡れたコンクリートの床が、無機質な蛍光灯の光を反射している。夕方と変わらない勢いで雨が降り続いているのが、ガラス扉越しにも見て取れた。決して強くはないが、止む気配も感じられない。先ほど依久乃の部屋で観たテレビの天気予報によると、朝までこの調子らしい。
この数週間幾度となく繰り返した動作で傘を開きながら外へ出る。以前は雨に濡れる事など気にもしなかったのに、今ではすっかり習慣になってしまった。
『へえ。なんか、すっかり馴染んでるね』
帰り際、自然に傘を手に取るオレに依久乃が放った何気ない一言が思い出される。
ああ、その通りだ。ずいぶんと、人間らしくなってしまった。
──本来ここにいる事があり得ない存在だからこそ、消える時には潔く、風のように。
そう在れればいいと、思っていたのだが。
ここまで現界が長くなるとは、予想外だった。
そして、それが難しくなるほどに、育つ何かがあった事も。
もう、こうなったら流れに任せるほかない。どのような展開であれ、アイツを見守る。そう心に決めた。
使い慣れた傘を差しかざし、未だ眠らぬ街を軽やかな足取りで抜けていく。雑踏に咲いた赤い花は、雨に濡れた濃紺の夜闇に飲まれる事なく、ただ自分はここにいるのだと主張している。その鮮烈な色彩は、オレの臆病さを焼き払い、奥底に燻るささやかな熱を静かに焚き付けていた。
振り返ってみれば、今日という穴は、再びアイツに会うために誂えられたかのような一日だった。
最初こそぎこちなかったが、飯を食い、酒を飲み交わせば、一ヶ月の空白などなかったかのように楽しく過ごせた。相変わらず無理をしがちなところはあるが、それほど落ち込んでいないようにも見えて、安心したのだが──。
心配した、そう言われた時、己の行動を一瞬だけ後悔した。
悪かった、と謝りはしたが、もしかしたら、もう遅かったのかもしれない。
アイツは体質のせいだと言い張るが、やはりあの視線に含まれる「色」は、そうとしか思えない。
どこかで、それを喜ぶ自分もいた。明らかに、調子に乗っていたと思う。
だから愚かにも「お前が一番だ」なんて、含みのある台詞を投げかけてしまった。
案の定、じっと見つめるだけで、依久乃は顔を真っ赤にして照れてしまった。
澄んだ水面に石を投じれば波紋が起きるように、素直に反応する。それがあまりにもいじらしくて、ついからかってしまう。
笑顔にしてやりたいと言いながら、その心を揺らす事を楽しむ矛盾。
かすかな罪悪感に、ほんの少しだけ心が痛み、覚悟が揺らぐ。
やはりこれ以上深入りしてはいけない。次に嬢ちゃんに会ったら、「元気だった」と報告して、しばらくここに来るのは控えよう。
そう思ってしまった。
それなのに、アイツと来たら。
明日は早番だからと早々に帰ろうとするオレに、「次は何が食べたいか」などと聞いてきやがった。
決して欲しい物に手を伸ばす事をしようとしなかったアイツが、オレに「また会いたい」という意思を示してきたのだ。以前なら平気そうな顔をして、さっさと送り出してきたくせに。
一ヶ月の空白は、別れ際にその差を見せつけてきた。
依久乃自身も、自分の言動に戸惑っている様子だった。どこか不安げな様子でこちらの返答を伺いながら、しかしそれを必死に隠そうともしている。
それを見て、オレは悟った。
ああ、これはコイツなりの勇気なのだ、と。
次の約束を取り付けるだけの、何気ない友人同士の会話。しかし、これまでずっと他人との関係性に線を引いてきた依久乃にとっては、大きな変化だ。生まれて初めて、他人に踏み込もうとしているのだから。
気が変わった。会う頻度を下げるのはやめだ。
そもそも傷付けたくないのなら、むしろ守ってやればいいだけの事。
オレはただ、「欲しい物を欲しがる」という人間として当たり前の自我が芽生え始めたこの女を、見守ってやりたいと、思ってしまったのだ。
別れ際、あまりに切ない表情をするものだから、つい頭を撫でてしまった。不安を拭うように「無理すんなよ」とだけ声をかけて、振り切るように部屋を出た。
エレベーターを降り、エントランスへ。濡れたコンクリートの床が、無機質な蛍光灯の光を反射している。夕方と変わらない勢いで雨が降り続いているのが、ガラス扉越しにも見て取れた。決して強くはないが、止む気配も感じられない。先ほど依久乃の部屋で観たテレビの天気予報によると、朝までこの調子らしい。
この数週間幾度となく繰り返した動作で傘を開きながら外へ出る。以前は雨に濡れる事など気にもしなかったのに、今ではすっかり習慣になってしまった。
『へえ。なんか、すっかり馴染んでるね』
帰り際、自然に傘を手に取るオレに依久乃が放った何気ない一言が思い出される。
ああ、その通りだ。ずいぶんと、人間らしくなってしまった。
──本来ここにいる事があり得ない存在だからこそ、消える時には潔く、風のように。
そう在れればいいと、思っていたのだが。
ここまで現界が長くなるとは、予想外だった。
そして、それが難しくなるほどに、育つ何かがあった事も。
もう、こうなったら流れに任せるほかない。どのような展開であれ、アイツを見守る。そう心に決めた。
使い慣れた傘を差しかざし、未だ眠らぬ街を軽やかな足取りで抜けていく。雑踏に咲いた赤い花は、雨に濡れた濃紺の夜闇に飲まれる事なく、ただ自分はここにいるのだと主張している。その鮮烈な色彩は、オレの臆病さを焼き払い、奥底に燻るささやかな熱を静かに焚き付けていた。
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