裏・六月 雨に咲く花

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03

「まさか本当に“茶の美味い店”に連れて来られるとは思わなかったな」

 向かいの席の男は心底意外だといった風な表情で、ティーカップをソーサーに置いた。

「失礼な。どこに連れてくと思ったんだよ」
「貴様の事だ。喧嘩をするにうってつけの、人気のない山奥とばかり」

 出来る事ならそうしてやりたい。が、生憎今日は気分じゃない。全く自分でもらしくないと思うが、ここ最近は何に対しても無気力なのだ。十中八九、魔力をケチられているせいだろう。

「うるせえよ。美味ェと思うなら黙って飲んどけ」

 互いのカップには、並々と注がれた紅茶。向かいの席の男、もといアーチャーが頼んだのはアールグレイ。湯気と共に品の良いベルガモットの香りが立ち上っている。アールグレイは香り付けした紅茶で、茶葉の種類にこれと言って決まりはないが、「うちの店のアールグレイはベースの茶葉もこだわりのものを使っている」と以前店長が言っていた。何かと味にうるさいコイツが文句のひとつも言わずに飲んでいる以上、品質は確かなのだろう。こちらが頼んだのはリーフタイプのアッサム。少々値は張るが、ウィスキーにも似た香ばしい香りとしっかりしたコクがあり、紅茶のクセに酒のような飲み味が気に入っている。

 それにしても、普段は店員として立つ店に、客として座るというのはなかなか妙な気分だ。連れ合いがアーチャーだと言うのも、それに拍車をかける。

 今日は久方ぶりの休日。いつぶりだろう、と記憶を振り返ってみたところ、最後に休みを取ったのは一ヶ月前だった。求められるままシフトを入れていたら、働き詰めになってしまったのだ。そんな中、ようやく取れた念願の休日……という訳ではなく、たまたまどこからもシフトの誘いが入らなかったから予定に穴が空いたというだけなのだが。

 降って湧いた休日を、さてどう過ごそうかと思案するも、もはや見慣れた鉛色の空と肌をねぶる湿気に気力を削がれてしまい、魔力の節約も兼ねて午前中は二度寝を決め込んだ。午後になって起きてはみたものの、晴れるどころかむしろ雨が降り出しそうな匂いが強まっていた。もういっそ一日眠って疲れを癒そうかと思った矢先、気がかりをひとつ思い出し、渋々外に出る事にしたのだった。

 なんとなく足を向けた新都のショッピングモール「ヴェルデ」の本屋で、アーチャーと出くわした。貴重な休みに、よりにもよってこのいけ好かない男と鉢合わせるなど、毎度の事ながら腐れ縁の強さと自身の幸運値の低さを呪った。そして、半ばやけくそ気味にアーチャーを誘ったのだった。

「それにしても、一体どういう風の吹き回しだ。私を茶に誘うなど」
「別に大した理由はねえよ。暇つぶしの相手が欲しかっただけだ。久しぶりの休みだってのに相変わらずの天気だろ。釣りもできやしねえ」
「……存外に娯楽に飢えているのだな」
「哀れむような目で見るなっての。労働だって立派な娯楽だろ」

 オレの発言に、アーチャーはさらに哀れみを強めた。
 言っておくが、労働を楽しんでいるのは本当だ。生前より発展した現代の文化はどれも刺激的で、職種によっては新たな技術を身につける事ができる。気に食わない事は山程あるが、仕事の後の酒は美味い。最初の頃は勝手がわからずいくつかの店ではクビになったが、体力も腕っぷしもある若い男の働き口など山ほどあり、仕事を選びさえしなければ路頭に迷う事はなかった。

「この店だって、結構楽しいんだぜ? この間はパフェ作り覚えたからな」
「ほう、それは素晴らしい。ぜひ一度見せてもらいたいモノだな」
「いや、テメェにだけは見せたくねえ」
「む、何故かね」
「絶対イチャモンつけるだろ」
「まぁ、それは否定できない。しかしだな……」

 ティーカップに注いだ二杯目の紅茶にミルクを加えてかき混ぜながら、アーチャーは続ける。

「アレはイチャモンではなく、料理を嗜む者として改善点を指摘しているだけであって……むしろ善意のつもりなのだが」
「仮に善意だったとしても、言われた方が不快に思っちまったら元も子もねえだろうが」
「まさか、他人の気持ちなど全く考えていなさそうな貴様にそれを言われるとはな」
「あぁ? オレだって考えてるっての、それなりに。これでも空気が読める男なんだぜ?」

 アーチャーは「そういう事にしておこう」といつもの皮肉っぽい笑みで返し、ミルクティーに口をつけた。全く信じていないな、コイツ。まあ別に信じてもらわなくても構わないが。相変わらず癪に障るヤツだ。せっかくの紅茶が不味くなっちまう。そう思いながら自分もティーカップに口を付けたが、流石紅茶専門店、どんなにいけ好かない相手が目の前にいても、それなりに美味い。

「料理に興味を持ったのは、パフェ作りがきっかけか?」
「いや、別に? なんだってそんな事聞くんだよ」
「料理本コーナーを覗いていただろう」

 そういえば、オレが声をかけた時、アーチャーは、”おいしい節約レシピ”と表紙に書かれた雑誌を熱心に読み込んでいた。

「あー……それは、だな」
「……雨宮依久乃を探していた、か?」

 抜かった。嘘でも興味があると答えておけばよかった。コイツに突っ込まれるのは面倒だから避けたかったってのに。

「チッ……そうだよ。嬢ちゃんに言われたから、顔でも見てやろうと思ってな」

 下手に言い訳をしても苦しくなるだけと、正直に告げる。そもそも様子を見て来いと言われたのだから、探していない方がむしろ不自然だろう。実際、貴重な休みの日にわざわざ新都まで出てきたのは、あの日から、ずっと引っかかっていたからで。

「やはりな……。それで、実際のところどうなんだ」
「何がだよ」
「彼女とは、本当に何もないのか? 今なら男だけだ。凛には言わないから正直に話してみろ」

 あまりにも不躾な問いだ。コイツの事だから、そういう態度で油断させておいて、内容次第では嬢ちゃんに報告するつもりだろう。心底軽蔑する、という視線を送ってやる。

「何だその顔は」
「あのな……何を勘違いしてるか知らんがな、テメェが考えてるような事は一切ねえよ」

 仮にあったとしてもテメェには話さねえけどな。という思いを込め、特大の溜め息を吐く。ふいに、テーブルに引っ掛けてある傘の持ち手が視界に入った。瞬間、胸の辺りに言い知れぬモヤモヤが湧き上がり、労働で疲れた身体が更に重だるくなる。

「──むしろ、距離を置いてるくらいだっての」

 傘の持ち手に軽く触れながらこぼした言葉に、「何?」とアーチャーは懐疑的な視線を向ける。

「やはり何かトラブルが──」
「本当に何もねぇよ。……それどころか、気も合うし、楽しくやってた」
「ならば、何故」
「だからこそ、だ」

 未練になりそうだからと距離を置いた。関係がこれ以上深くならないように。それがアイツの為だと思ったし、自分の取るべき行動だと信じて疑わなかった。

「オレたちはいつ消えるともわからねえ身だろ。魔術師なら、所詮使い魔だと割り切れるだろうが、アイツは中途半端に魔術世界に絡め取られただけの一般人だ。付き合いが深くなればなるほど、別離の痛みもデカくなる。だから、早いうちに手を打とうと思ってな」

 本来ここにいる事があり得ない存在だからこそ、消える時には潔く、風のように。そう在れればいいと、思っているだけの事。

「……要するに、サーヴァントが今を生きてる人間に肩入れするってのは、あんまり褒められたモンじゃねえ、って話だ」

 一連の発言を黙って聞いていたアーチャーは、とても意外そうな表情をしていた。普段軽薄な振る舞いをしているオレが真面目な事を言い出したからだろうか。根拠はないが、それだけではないような気もする。

 しばらく何かを思い巡らせた後、アーチャーは「……賢明だな」とだけ口にした。

 湿っぽい空気と共に、すっかり冷めてしまった紅茶を一気に飲み干す。少し時間が経ってしまったからか、渋みともえぐみとも取れない味が舌の上に纏わり付くように残った。

「ただまぁ、嬢ちゃんに頼まれたんなら、仕方ねえかなって。怒らせると後が怖ェからな」
「……一度距離を置いたのに、か」
「別に顔を出すくらい、いいだろ。軽く様子を見たらすぐ帰るつもりだ」

 冗談めかすように軽い口調で言いながら、ティーポットに残っていた紅茶をカップに全て注いだ。まだ温かく、湯気と共に深みのある香りが立ち上る。当然ながら、水色すいしょくも先程より暗い。

「やめておけ。これ以上距離を縮めても、ただの影には傷しか残せない。また、女を泣かせるのか」

 紅茶の香りに緩んだ身体が、一瞬で凍りつく。手に取ったミルクピッチャーを、込み上げる怒りで思わず握り潰しそうになったが、店の備品だという事を思い出し、踏み留まる。

「……テメェにオレの何がわかる」

 殺気を込めて、無粋な発言をした男を睨みつける。
 男は動じず、こちらの目をしっかりと見据えながら語った。

「英雄クー・フーリンは、その短い生涯に何人もの女性と浮き名を流したと聞く。しかし、それらはどれも一時的なものだった。挙句、最期は奸計に嵌り、先に命を落とす事で最愛の妻さえも悲しませた」
「ハッ、知ったような口を。確かにオレは、愛した女たちには碌に義理を果たせなかった。だがしかし、それを貴様なんぞにとやかく言われる筋合いはない」

 まして、かつての女たちとアイツを同列に語るなど、筋違いもいい所だ。ひと目見た瞬間雷に打たれたような衝撃も、いても立ってもいられなくなる程の熱に浮かされたような衝動も、アイツには湧き起こらないのだから。

「……大体な、アイツに対してはそういうんじゃねえって、何度も言ってるだろ」

 ──そんな訳ねえだろ。アイツとはただの飲み友達だ。それ以上でもそれ以下でもねえよ

 ため息混じりに吐き捨てた台詞に、いつか遠坂凛に返した言葉が重なる。
 あの時も今も、嘘は吐いていない。それは確かだ。
 しかし、アイツを思うと湧き上がる仄かな温かさと寂寥、そして少しの自己嫌悪──この感情にどんな名前を付けるべきか、未だ正しい答えが見つからないのも事実だった。

「“何度も”は言われていないが」
「……そうだな。テメェに言うのは初めてだったわ。悪ィ」

 遠坂凛、バイト先の同僚、そして衛宮士郎。これまで何人かから似たような問いをされ、その度に同じような返しをしていたから、何度も言っているような気になっていた。ばつが悪くなり、二杯目の紅茶をミルクも砂糖も入れずにそのまま飲み干す。熱かったし渋かったが、ムシャクシャした気分を晴らすには、いっそ丁度良い喉越しだった。苛立ちの矛先は、アーチャーだけではない。答えが出ない感情をいつまでも持て余す自分にも、いい加減嫌気が差している。

「ランチタイム終了でーす」

 その時、重苦しい空気を切り裂くように、聞き慣れた女性店員の声が響き渡った。
 この店のランチタイム終了時刻は、他店より少し遅めの夕方四時。そして四時と言えば、この辛気臭い会話を終わらせるのにちょうどいいタイミングだ。

「ところでアーチャー、こんなトコで油売ってていいのか?」
「何?」
「トヨエツのタイムセール、始まったぞ」
「……はっ、もう四時か! というか待て、何故貴様がそれを」
「オレを誰だと思ってやがる。王者の槍のウェイター様兼、マウント深山商店街の魚屋、花屋その他諸々のお兄さんだぜ?」

 オレ自身はタイムセールとやらに興味はないが、毎日あちこちで働いていれば、色々な事情が耳に入ってくるのだ。

 アーチャーは時計を確認すると、慌てて帰り支度をし始めた。まだ言いたい事があるようだったが、オレに釘を刺すという独断でのお節介よりも、晩飯の支度に対する責任の方が大きいらしい。

「チッ……ひとまず今日のところは貴様の言葉を信じてやる。だが、凛を困らせるような事があれば容赦はしない」

 紅茶の代金をテーブルに起きながら、まるで負け惜しみのような捨て台詞を吐いて、アーチャーは入り口へ向かった。急いでいる割に、店から出る時には「実に美味しい紅茶だった。また飲みに来るよ」と気障ったらしい笑顔で店員に声をかけて行く辺り、なかなかいい性格をしてやがる。だが弓兵よ、残念だったな。その女は枯れ専だぞ。

「……ったく、うるせぇよ。どいつもこいつも、他人ヒトの事情に首突っ込みやがって。テメェの心配してろっての」

 レースカーテンに覆われた小さな窓から外を見遣ると、道行く人々が皆傘を差しているのが見てとれた。この店に入る前、今にも泣き出しそうだった空は、とうとう限界を迎えたらしい。ため息まじりに天を仰ぐと、アンティーク調のペンダントライトが目に入った。磨り硝子のシェード越しに淡く降り注ぐオレンジ色の光は、この雨の中にあってはまるで暖かな太陽のようだ。しかしどれだけそれを見つめても、この胸の裡に燻る正体不明のモヤモヤが晴れる事はなかった。



 鉛色の街に、傘の花が咲き乱れる。駅からは帰路を急ぐ人々が溢れ、次々と傘を開いては、大通りの流れに混ざっていく。オレもその流れの中の一人として、一際目立つ赤い花を咲かせて歩く。

 あの後、もう一杯同じ紅茶を頼んで飲み直した。
 いつもお節介な同僚は、何かを察したのかあまり話しかけて来なかった。終始喧嘩腰だったから、あらぬ誤解をされている可能性も否めないが。いずれにせよ、人と話す気分でなかったのでありがたかった。

 手には買い物袋。中身は、言うまでもなく酒とつまみ。習慣というものは恐ろしい。「アイツの家に行くなら」と何も考えずにコペンハーゲンに足が向き、何も考えずに商品をカゴに入れて会計をしていた。

 店を出てから我に返り、やっちまった、と思った。これでは「顔を出すだけ」にはならない。渡すだけ渡したら帰るという選択肢も浮かんだが、明らかに二人で飲む前提の量を渡して、その言い訳は無理がある。

(あーあ。なァにが、「軽く様子を見たらすぐ帰る」だよ……)

 結局のところオレは、アイツにまた会いたかったのだ。以前のように、楽しく食って飲んで、他愛もない話をしたかった。心配だったから。遠坂の嬢ちゃんに言われて気になったから。……どんな理由を重ねても、後付けにしかならない。

 視界の端、赤い傘の露先から、絶え間なく雫が滴り落ちていく。

 思えばこの一ヶ月、殆どこの傘と共にあった。

 はじめは、本気で断ち切ろうと思った。断ち切れると思っていた。実際、最初の一週間ほどは、偶然に会う事もなく、特に気に留める事がないまま毎日が過ぎていった。
 しかし、梅雨に入ってから、おかしくなった。

 傘を手にする度、脳裏を過る表情と、胸に去来する感情があった。

 アイツに特別な意図がないのはわかっている。
 赤い傘しか残っていなかったのも、アイツがそれを選んだ事も、ただの偶然だ。

 だが、これでは。
 断ち切るなんて、到底できやしない。

 どこにでもあるような傘ならよかった。
 誰かに取り違えられても気付かない、いくらでも替えが効くような傘ならばよかった。
 何てものを渡してくれやがったんだ、と思う事さえあった。

 しかし、本当は、傘の色など些末な問題だった。

 「アイツを悲ませたくないから」なんて、とんだ欺瞞だ。
 そもそもどうでもいい相手なら、わざわざ断ち切る必要もなかったのだ。

 オレはただ、弱さから蓋をした。
 自分の心に巣食う正体のわからないモノが、未練に変わらないように。

 距離を置いたのは、ただ、自分のためだった──。

『やめておけ。これ以上距離を縮めても、ただの影には傷しか残せない。また、女を泣かせるのか』

 アーチャーの言葉にカッとなったのは、図星だったからだ。

 己が人生に未練はない、それは確かだ。だが、悔いはある。そして、深く埋めた悲しみも。オレとて、別れが辛くない訳ではない。あの言葉は、現状維持を求める臆病な自分の投影でもあった。

 サーヴァントの身体というのはよく出来ている。マスターから魔力供給されている限り、食事も睡眠も必要ない。その癖、いざとってみれば、料理の味や微睡みの心地良さはしっかりと感じられるのだ。鋭敏な五感は戦闘用の副産物だろう。そのおかげで戦いのない日々でもそこそこ楽しくやれているのはありがたい。しかしこのよく出来た身体のせいで、それらの行為が「ただの魔力供給」以上の意味を持ってしまうのは、少々厄介に思う。

 まるで自分が今ここに生きているのだと、勘違いしてしまいそうになる。

 たとえ仮初めの身体であっても、高い解像度を持った体験に時間が積み重なれば、それは記憶となり、あらゆる感情を呼び起こす鍵となる。

 生前の習慣か、あるいは因果か。
 「生の実感など必要ない」と嘯きながら、気が付くとその悦楽を求めている。
 時にそれを失うまいとして、臆病さや不安が顔を出す。……実に、人間らしい反応だ。

 虚ろではあるが穏やかな日々の中に、確かに積もる喜びがあった。それは、戦士であったオレに、失い難いと思わせるだけのモノとなっていたのだろう。

 ああ、しかし──思い返せば、まったく、らしくない行動だった。

 この感情にどんな名前を付けるべきか、その答えをオレは知らない。

 だが、それがどうした。
 オレは依久乃に会いたい、放っておけない。それだけは確かだ。

 そして、自覚してしまったからには、そのように動くしかない。

 消えてしまった過去や未だ見ぬ未来よりも、確かな「今ここ」に生きる。過去の焼き直しであるこの身がそんな事を思うのは可笑しいかも知れないが、生前からしてそういうモノだったのだ。焼き直しであるのなら尚更、同じように生きる事しか出来ない。

 本心を無視すれば、それこそ未練が残る。この瞬間がいつかただの記録に成り下がったとしても、自身が信条に悖る行為をしたという事実は消えないのだ。

 自分のモノにしたいだの、抱きたいだの言うつもりはない。この虚ろな日々の中に、アイツの存在があってほしい。今は、ただ、それだけだ。

 そんな事を考えながら歩いているうちに、依久乃の住むマンションの前に辿り着いた。店を出て、駅前の時計で確認した時刻は六時半過ぎ、駅からここまでは歩いて十分ほど。自分の感覚が正しければ、そろそろアイツが帰って来る頃だ。

 見慣れた建物を見上げれば、随分と懐かしい気分になった。故郷さえ懐かしむ事のなかったオレが、たかだか一ヶ月ぶりの他人の家にこんな感情を抱くなんて、思いもしなかった。

 コンクリート造の外壁は雨に濡れて色が濃くなっているせいか、普段よりも堅牢さが増して見える。しかしエントランスは相変わらずオレという来訪者に対して無防備だ。ガラス扉は開け放たれていて、天井にはやはり動いているのかいないのかわからない旧式の監視カメラ。その矛盾した様子は、頑なに心を閉ざしながらもどこか隙があるアイツの姿に重なるように思えた。

 埃を被った監視カメラに見送られ、古びたエレベーターで三階へ。これまで何度も通った通路を歩く。濡れた床にはいくつか住人のものと思しき足跡があったが、一番奥の部屋へ続いているものはなかった。

 念のため呼び鈴を鳴らしたが、返答はない。やはりまだ少し早かったらしい。扉のそばの壁に背中を預け、シャツの胸ポケットから煙草を取り出して火をつける。一気に煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出すと、予想以上に身体が重くなった。そこでようやく、自分が存外に緊張していた事に気付かされる。

(ああ、結局、戻ってきちまったな)

 できれば街中で偶然に会いたかった。初めてマトモに話したあの春の日のように。愚かにも、そんな展開を期待して街を歩き回った。部屋の前まで来てしまえば、戻れないような気がしていたから。

 しかし冷静に考えると、分の悪い賭けだった。そもそも休みが被るとは限らない。仮に休みだったとしても、出不精のアイツが街をフラついてる可能性はかなり低い。

 要するに、オレは怖気づいていただけだったのだ。

 煙が肺を満たすにつれ、薄れていたモノがじわりじわりと染み出すように胸の奥に広がっていく。久しぶりに会える事への期待と、どこか懐かしさにも似た温かい感覚。そして、ほんの少しのもどかしさ。距離を置いた事でどこかに消えたように思われたそれは、ただ、意識の底に沈めていただけだった。そして皮肉にも、それは以前よりも強く感じられるのだった。

 目を閉じると、思っていたよりもずっと鮮明に瞼の裏に浮かぶ。
 傘を差し出した時の心配そうな顔。
 緊張を帯びたすまし顔が、からかった時に崩れるギャップ。
 料理をほめた時の、はにかんだ笑顔。

 ……そして、美しいモノを前にして目を輝かせながら、手を伸ばす事を、頑なに拒む姿。

 確かに揺れ動くものはある。それでも、これはただの庇護欲だと言い切れる。ただ、放って置けないだけ。どうにかして、アイツを笑顔にしてやりたい。そんな言葉が浮かぶ。だがそれは、なんと幼稚な執着だろうか。

(畜生、情けねえな)

 縺れた思考と自身への苛立ちを白煙に混ぜて吐き出す。煙はあっという間に雨に溶けて消えたが、ツンと鼻をつく焼けた草のにおいだけがいつまでも未練がましく辺りに漂っていた。

 ふと手元を見ると、灰が落ちて煙草が短くなっていた。そろそろ消そうかと思った時、少し遠くでエレベーターの到着を知らせるベルが鳴った。続いて、濡れたゴムがコンクリートにあたる甲高くも鈍い音が等間隔で響く。ゆっくりと顔を上げると、こちらに向かって歩く女の姿が見えた。

 女は長い廊下を一歩一歩、慣れた足取りで進んでくる。煙草のにおいに気が付き、顰め面を更に歪めるが、俯きがちなため、まだその発生源には気付かない。

 互いをはっきり認識できる程度には距離が縮んだ辺りで、一ヶ月ぶりの訪問の理由を考えようと、思考が回りだす。嬢ちゃんが気にしていたから、顔を見に来た。お前が元気なら、嬢ちゃんにそう報告しようと思って。益体のない思考が湧いては消えるうちに、女は立ち止まり、ゆっくりと視線を上げた。ようやくオレに気付いたらしい。

「よう」

 反射的に、まだ火がついたままの煙草を持った右手を軽く上げて、挨拶する。
 オレの姿を認めた依久乃は、まず目を見開き、固まって、息を呑んだ。次いで、何か言いたげに口を少し開いたあと、再び口を引き結んでから、なんでもないような顔を作って、小さなため息を吐いて、

「……敷地内、禁煙」

 この状況で、一番当たり障りのないであろう言葉をこぼした。

「おっと、悪ィ」

 できるだけ軽く答えながらも、依久乃の唇の端が微かに震えていたのをオレは見逃さなかった。
 呆れるような溜め息の代わりに本当に吐き出したかった心の形を正しく推し量る事はオレには出来ないが、色々な言葉を飲み込んだのだという事はわかる。

 だからこそ、それに気づかないふりをする。
 相手が線を引いたのだから、それには踏み込まない、暗黙の了解。

 ただ、以前と違うのは、サーヴァントであるオレが、今を生きるお前のそばにいたいという感情を認めている事。この数ヶ月間に育った穏やかなモノを、ただ守りたいと思っている事。

 煙草を足で踏み消すと、依久乃がすかさず拾い上げ、手持ちのティッシュに包んだ。そのまま顔を上げたので、目が合う。眼鏡越しにオレをまっすぐ見つめる黒い瞳の奥が微かに揺れる。

「……久しぶり、ランサー」

 もはや呼ばれる事にすっかり慣れた肩書きだが、依久乃の声に乗って耳に届くそれは、他とは違う心地よさがあった。

「傘、使ってくれてたんだ」
「ん? ああ、まあな。だってお前、濡れてたら入れてくれねえだろ?」

 使う度に、お前の顔を思い出していた──とは、言わないでおく。

「ほら、酒買ってきたぜ」
「はいはい。あり合わせのものでいい?」
「かまわんさ。お前の作る料理は、どれも美味いからな」

 再会の喜びと料理への期待に、自然と笑顔が溢れる。
 それを受けてか、「褒めても料理の味が良くなる訳じゃないからね」などと冗談を言う依久乃の横顔が、確かに綻んでいるのが見て取れた。

 雷に撃たれたような衝撃はない。熱に浮かされたような衝動もない。それでも、いつも張り詰めていて、時には息をする事さえ難しそうにしているこの雨宮依久乃という女が、ひとときでも心を緩ませ穏やかな表情を見せる様は、まるで染み入るように、しかし確実に、オレの心を満たすのだった。

(続)
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