裏・六月 雨に咲く花
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02
「うわっ。ランサーさん、ずぶ濡れじゃないですか」
喫茶店の裏口の扉を開けると、事務所にいたバイト仲間の少女に目を丸くされた。
「傘持って来なかったんですか?」
「いやァ、いけると思ったんだがな」
閨を出た時点では微妙な空模様だったので、傘を置いてきたのだ。仮に降っても走れば何とかなるだろうという楽観もあった。まあ、結果はご覧の有様なのだが。途中、ぽつぽつと降り出したかと思えば急に勢いが強くなり、早足に向かい風も相俟って、見事な濡れ鼠の出来上がりである。
「いける訳ないじゃないですか。今日は日中強い雨が降るって天気予報で言ってましたよ? それにもう梅雨入りしましたし、傘は持ってないと」
心底呆れた様子で同僚は言う。流石に濡れたまま中に入る訳には行かないので、裏口についている申し訳程度の軒下で、頭を振ったり服を絞ったりとできる限り水分を落としてみたが、あまり効果はない。どうしたものかと思っていたら、同僚に備品のタオルを手渡された。
「ほら、風邪引きますよ」
あんがとさん、と礼を述べて受け取ろうと顔を上げると、同僚が存外に心配そうな表情をしていた。そういえば以前にも、こんな土砂降りの日に、似たようなお節介を焼いてきた奴がいた事を思い出す。
「どうしたんですか?」
「いや、なんでもねえ」
視界に重なる過去を振り払い、手渡されたものを受け取った。
タオルは大きさの割に吸水力があり、おかげで身体はあらかた乾いたが、髪だけはどうしても乾かず、結局、制服に着替える前に霊体化してリセットした。更衣室が一人用で助かった。脱いだ服は、とりあえずそのままハンガーにかけておいた。
その日は一日中雨。こんな日は長居する客が圧倒的に多く、回転が悪い。暇なので窓の外ばかり眺めていたが、結局、シフトが終わるまで雨が止む事はなかった。
店を閉め、更衣室に入る。ハンガーにかけておいた服をおもむろに触ると、今からこれを着ると思うと憂鬱になる程度には、じっとりと湿っていた。しかしどうせ帰り道にまた濡れてしまうだろう。少しの辛抱だと腹を括り、生乾きの服を身に纏った。
更衣室から出ると、事務所には作業机に向かって閉店処理をしている店長だけがいた。邪魔しても悪いと思い、おつかれさん、とだけ声をかけて返事を待たずに帰ろうとしたら、呼び止められた。
「ランサーくん。置き傘、何本かあるから持っていくかい?」
オレが傘を持たずに来た事は、今日シフトに入っていた全員に知れ渡っている。もちろん言いふらしたのは例の同僚である。
「いや、気遣いはありがてえが、今日はこのまま帰るさ」
「風邪引いちゃうよ?」
「心配いらねえよ。見た目通り頑丈だからな。それに、傘なら家にある」
そう、傘なら家にある。以前、貰った傘が。
ただなんとなく、気が進まなくて使っていないだけ。
「じゃあ、明日からはそれ差しておいで。しばらく雨は続くだろうから」
「……ああ」
「じゃ、お疲れ様。身体、冷やさないようにね」
「おう、おつかれさん」
手を振りながら軽く返事をし、今度こそ店を出る。バイト中も降り続いていた雨はまったく止む気配を見せず、シフト前にはかろうじて雨を凌げた小さな軒は、もはや意味をなしていなかった。
ふう、と軽く一呼吸してから駆け出すと、素早く走る身体に生温い雨が勢いよく当たり、あっという間に濡れてしまった。しかしおかげで服がまとわりつく不快感はわからなくなり、たくさんの水滴が全身を撫でていくのは爽快感すらあった。
閨に着く頃には、再び濡れ鼠になっていた。テントに入る前にTシャツを脱いでぎゅっと絞り、そのまま中に放り込む。その後自分も中に入って霊体化で身体を乾かしたあと、ぐっしょりと湿った服を前に、さてどうしたものかと思案した。雨が止む気配はない。かと言って、テント内に干す場所がある訳でもない。となると、ルーンを使って乾かすのが一番手っ取り早い。まあ、多少面倒ではあるが。
ルーンでどうにか服は乾いたが、やはり魔術はまだるっこしくて疲れる。この天気では気分転換に夜釣りもできない。とは言え嘆いても雨は止まないので、ままならなさを溜め息として吐き出し、乾かした服をその辺に放り投げると、下着一枚のまま横になった。あくびをしながらテントの中を見回すと、隅に横たえてある傘が目に入る。アイツが寄越した、オレの槍と同じ色の傘。売れ残りだったとの事だが、それでも、似合う色を選んだという律儀さはいじらしい。傘を手渡す時の不安げな表情が脳裏をよぎる。思わず頬が緩み、ほんの少しだけ、寂寥を覚えた。
テントを打つ雨音が次第に穏やかなものになってきた。特にやる事もないのでしばらく身を委ねていると、一定のリズムにうつらうつらとしてくる。サーヴァントには本来必要ないものだが、浮遊感を伴うこの感覚は悪くない──などとぼんやり考えていると、いつの間にか意識は途切れていた。
*
目を覚ますと、テントの中は既に薄明るかった。水滴が布を打つ音で、未だ雨が降り続いているという事がわかる。下着のまま眠ってしまっていたらしく、身体のあちこちが痛かった。伸びをして、テントの入口からちらりと外を確認する。雨雲のせいで曖昧だが、日はそれなりに高く昇っているように見えた。
昨日に続き、今日も午後から喫茶店のバイトだ。新都までの道のりを傘を差して歩くと思うと気が重くなるが、昨日の今日でまた濡れて行けば、流石に店長にドヤされ、同僚の少女にもまた呆れられてしまうだろう。ため息を吐き振り返ると、彩度の落ちたテントの中で、まるで使えと言わんばかりに赤い傘だけが際立って見えた。
「ああ、ったく……わかったよ」
気のせいだとわかっていながらも、それに応えるように独りごちる。昨晩放っておいた服を拾い上げて身にまとい、傘を手にとる。時間が曖昧な上、隣町まで歩かなければならないとなると、早めに出るに越した事はない。そのまま外に出て傘を開き、ゆっくりと歩き出した。
橋の手前にある海浜公園を通ると、道沿いにたくさんの紫陽花が植えられていた。人の手によるものだとわかっていても、色とりどりの花が数多く並ぶ姿は圧巻で、思わず感嘆の息を漏らす。走り抜けてばかりでは気付かなかった風景に、ゆっくり歩くのも悪くはないと感じた。足元が濡れる不快感だけはどうしようもないが、何事にも楽しみようはあるものだ。
橋を渡って暫く歩くと、ようやく新都駅前に辿り着いた。何分かかったかはわからないが、それなりに歩いたように思う。
空は寒々しい灰色をしており、絶えず降り注ぐ雨粒に街並みもどこか霞みがかって見える。道行く人々は皆、足元が気になるのか、うつむき加減で傘に顔が隠れ、視線を上げて歩いている人間など自分くらいの物だった。
「今日は、ちゃんと差してきたんですね」
店の軒先で傘に付いた水滴を払っていると、後から出勤してきた同僚が傘を見てそう言った。昨日、ずぶ濡れのオレを見て目を丸くした少女だ。
「おう。まあな」
「赤ですか。男モノにしては派手ですけど、ランサーさんには似合いますね」
当然、赤はオレの槍の色だからな──などと言いかけて、思い留まる。相手はオレをサーヴァントだと知らないのだ。だが、むしろそれを知らない相手にも褒められるというのは喜ばしい事ではないか。それは、確かに自分に似合っているという事でもあるのだから。
「そうか? 世辞でも嬉しいぜ。ありがとよ」
礼を言うと同時に水滴を払い終えた傘を傘立てに挿し、褒めてくれた同僚に狭い軒下を譲るようにして中に入った。
着替え終えたあと、ホールへの出入口にある鏡の前で軽く襟を正していると、後から着替え終わった同僚が隣に来て身だしなみを整え始めた。しばらく鏡の前で並んでいると、同僚が話しかけてきた。
「ランサーさん」
「なんだ」
「あの傘って、もしかしてプレゼントですか?」
「あー……まあ、貰いモンではあるが」
誤魔化すのも面倒だったので正直に答えると、相手は嬉しそうに目を輝かせた。
「やっぱり! もしかして彼女さんから、とかですか?」
「別にそういうンじゃねえよ」
「えー、違うんですか? てっきりそうなのかと」
「違ぇよ。大体、なんでそう思うんだよ」
うんざりした態度を表に出しながらも問うと、同僚は得意げに答えた。
「だってあんな派手な色、よほど似合うと思わなきゃ贈りませんよ、普通」
そういうもんかねぇ、と適当にはぐらかしながらホールに出ようとすると、同僚はさらに言葉を続けた。
「恋人じゃないとしても、ランサーさんの事を気にかけてる人なんじゃないですか?」
言われて、思わず足を止める。
「……だから、そういうンじゃねえよ。たまたまだ、たまたま」
本当にたまたま、売れ残っていた中からこれを選んだだけだ。似合う、と言ったのも、アイツはサーヴァントとしてのオレの姿を知っていて選んだだけで、そこに特別な想い入れなど、ありはしない。
「ええ~、そうかなぁ……」
同僚は予想以上にしつこい。色恋沙汰への好奇心というのはどうしてこう、人を厄介にさせるのか。このままでは詮索が終わらない気配がしたので、振り返り様に顔を近づけ、瞳をじっと見つめながらこう言った。
「そんなにオレの事が気になるなら、今度二人きりで飲みにでも行こうや、なぁ?」
急に近づいた距離に驚いたのか、肩が軽く跳ね、ニヤついていた口角が一瞬で下がる。別に本気で誘っている訳ではない。相手の好奇心のベクトルを逸らせればそれで良し、誘いを受けてくれればそれはそれで有難い──と、思っていたのだが。
「お断りします」
同僚は、先程までの親しげな態度が嘘のように、至極冷静な表情でピシャリとそう言い放った。さっきまでとの落差に思わず「何でだよ」と突っ込む。
「ランサーさん、守備範囲 外なので」
「は?」
「私、もっと年上の男性が好きなんですよ」
あんまりにも得意げに言うものだから、一気に脱力して肩を落とした。
「そりゃ、今日イチどうでもいい情報だな」
「ひどい!」
大きな声を上げて憤慨する様が面白く、思わず笑っていると、先にシフトに入っていた店長がホールから顔を出した。
「何してるの君たち。用意できたなら早くシフト入ってね」
店長の姿を見るや否や、同僚は顔を真っ赤にして、「すみません!」とめいっぱい頭を下げ、逃げるようにホールに出ていった。その赤面ぶりからは、怒られた恥ずかしさ以外のものも感じられた。
(もっと年上の男性、ねぇ……)
なんとなく彼女の意中の相手を察し一人納得していると、店長が意味深な笑顔で肩を叩き、「そういうの、今日日 流行らないよ。ご飯なら今度みんなで一緒に行こうね」と耳打ちして、オレの返事を待たずホールに戻って行った。
……どうやら店長にあらぬ誤解を受けてしまったらしい。複雑な気分だったが、あの態度を見ても、その想いに全く気付いてなさそうな店長の表情を見ると、同僚を責める気にはなれなかった。
*
それからも毎日のように雨が降るので、毎日のように傘を使った。アイツは売れ残りと言っていたが、存外に使い勝手は悪くない。大きさも丁度よく、鮮やかな赤は雨に沈みがちな気分を支えてくれる。
しかし、この傘を持っていて一度だけ最悪の気分になった事がある。どこぞの弓兵とバイト帰りに新都駅前で鉢合わせた時だ。
「随分と得物が短くなったのではないか?」
その日は夕方には雨が上がり、傘は閉じて手に持っていた。それを槍に準えて皮肉ったつもりなのだろうが、そう言う弓兵自身も買い物袋で両手が塞がっている。
「そう言うテメェのは随分とデカい鈍 になっちまったな」
そう言い返してやったら、隣にいた遠坂の嬢ちゃんに「アンタたちは顔を合わせる度に嫌味しか言えないの?」と、大きくため息を吐かれ呆れられてしまった。
「最近は釣りも出来ねえんで、溜まってんだよ」
「あっそ。別に喧嘩したかったらすればいいけど、迷惑かからない所でやってよね。建物とか壊されると、ホント色々と後が面倒なんだから」
後処理をするのは嬢ちゃんではなく教会の人間なのだが、奴に借りを作るのが嫌なのだろう。先程は本気で挑発してこのまま戦闘に持ち込む事も考えたが、嬢ちゃんの言葉に奴の顔がチラつき、一瞬で戦意が萎えた。厄介事を持ち込んだのがオレだと知れれば、オレの自由も危ぶまれる。
「ああ……アイツに借りを作るのはオレも御免だな。じゃ、オレはこれで」
「待ちなさい、ランサー」
早々に立ち去ろうとすると、嬢ちゃんに呼び止められてしまった。
「ところで最近、依久乃は元気してる?」
「あ? なんでオレに聞くんだよ」
「だってアンタ、前にあの子とよく飲んでるって言ってたじゃない」
まるで当然とでも言うかのような表情で尋ねられたので、こちらもなんて事ない顔で返す。
「……いや、最近は会ってねえよ」
「あらそうなの? どうして?」
「別に大した理由はねえよ。嬢ちゃんこそ、わざわざオレに聞かずとも、用があるなら直接聞けばいいじゃねえか。友達なんだろ?」
「それは、そうだけど……色々あるのよ、色々」
嬢ちゃんは少し目を泳がせながらはぐらかした。
「……ふうん、色々ねえ」
半ば独り言のように呟く。そこに皮肉や詮索の意図はない。他者の事情には関心はないし踏み込まない。本人が線を引いているのなら尚更だ。
少しの沈黙のあと、答えあぐねている主を見兼ねてか、黙っていた弓兵が口を挟んできた。
「ランサー、貴様。まさか彼女に手を──」
「お前、その耳は飾りか? 最近は会ってねえって言っただろ」
馬鹿げた憶測に苛立ち、食い気味に言葉を返す。
「さて、どうだかな。色好きな貴様の事だ。もう既に過ちを犯して拒絶されていてもおかしくはないだろうと思ってな」
「あぁ? テメェ殺されてえのか?」
「やれるものならやってみたまえ。しかし、そこで怒りを顕にするという事は、やましい事がある証拠なのではないかね?」
「んだと……」
常日頃からいけ好かない野郎だが、今日は特に癪に障る。腹の底から突き上げる戦闘衝動に、手元の傘を槍のように構えようとしたその時、嬢ちゃんが割って入ってきた。
「あーもうホントにアンタたちってば! いい加減にしなさい! とにかくランサー、もしまた会うことがあったら、あの子によろしくね」
「だからなんでオレが……」
「わかった?」
「……ああ」
有無を言わさない視線にただならぬものを感じ、つい頷いてしまった。
二人と別れたあとも、しばらく気分は最悪だった。弓兵の言葉に逆撫でされた神経が、ささくれだったまま戻らない。
確かに、普段のオレの行動を振り返れば周囲からそう思われても不思議はないのかもしれない。オレだって、不思議なくらいだ。女と二人きりで、酒を飲んだり飯を食ったり。それで数ヶ月、未だに何もないだなんて。だが、アイツに対しての感情はそういうものじゃない。だからこそ、あの男の無粋な言葉が余計に癪に障ったのだ。
この気持ちは、自分でも理解し難い。かと言って誰に見抜かれたいとも思わないが、以前に飲み込んだはずのモヤモヤとしたモノが久しぶりに顔を出してきた。雲行きの怪しい心とは裏腹に、雨上がりの雲間から覗く夕日がやたらと眩しかった。
*
古めかしくも趣のある洋館が立ち並ぶ坂道に、主従の影が伸びる。雨上がりの湿気を含んだ少し強い風が家々の木々を揺らし、ざわざわという葉擦れの音が辺りに響いていた。
少し前を行く主に、アーチャーは声をかける。
「凛。彼女は大切な友人ではなかったのかね」
アーチャーは基本的に忠義者だ。しかし、従順という訳ではない。主の方針に対して自身が容喙すべきと判断したなら、遠慮なくそうする。主も人間であるが故に間違える時はあるからだ。ましてや若く未熟な主なら尚の事。
「いきなり何よ。まあ、大切と言えば大切だけど」
質問の意図がわからない、といった風に、主である少女──凛は首を傾げた。アーチャーは言い方を変えて、問い直す。
「何故、ランサーを放っておくのだ」
その名前を聞いてピンと来たのか、凛は目を見開いて「ああ、その事ね」と呟き、少しだけ思いを巡らせてから答えた。
「時には荒療治も必要なのよ。でも大丈夫。貴方が心配する事はないわ」
大事な事を言っていないような、或いは大事な事しか言っていないような。いまいち的を得ない答えに納得しがたかったが、彼女の性分を省みて、今はこれ以上問うても仕方がないと悟り、アーチャーは「……了解した」とだけ答えた。
とはいえ、本心では納得していない。大切な友人に何かあれば、凛自身も傷付くのだという事を、当の本人が気付いていない事がもどかしい。何かあってからでは遅いのだ。アーチャーは、無意識に買い物袋を持つ手を強く握り締めていた。
(続)
「うわっ。ランサーさん、ずぶ濡れじゃないですか」
喫茶店の裏口の扉を開けると、事務所にいたバイト仲間の少女に目を丸くされた。
「傘持って来なかったんですか?」
「いやァ、いけると思ったんだがな」
閨を出た時点では微妙な空模様だったので、傘を置いてきたのだ。仮に降っても走れば何とかなるだろうという楽観もあった。まあ、結果はご覧の有様なのだが。途中、ぽつぽつと降り出したかと思えば急に勢いが強くなり、早足に向かい風も相俟って、見事な濡れ鼠の出来上がりである。
「いける訳ないじゃないですか。今日は日中強い雨が降るって天気予報で言ってましたよ? それにもう梅雨入りしましたし、傘は持ってないと」
心底呆れた様子で同僚は言う。流石に濡れたまま中に入る訳には行かないので、裏口についている申し訳程度の軒下で、頭を振ったり服を絞ったりとできる限り水分を落としてみたが、あまり効果はない。どうしたものかと思っていたら、同僚に備品のタオルを手渡された。
「ほら、風邪引きますよ」
あんがとさん、と礼を述べて受け取ろうと顔を上げると、同僚が存外に心配そうな表情をしていた。そういえば以前にも、こんな土砂降りの日に、似たようなお節介を焼いてきた奴がいた事を思い出す。
「どうしたんですか?」
「いや、なんでもねえ」
視界に重なる過去を振り払い、手渡されたものを受け取った。
タオルは大きさの割に吸水力があり、おかげで身体はあらかた乾いたが、髪だけはどうしても乾かず、結局、制服に着替える前に霊体化してリセットした。更衣室が一人用で助かった。脱いだ服は、とりあえずそのままハンガーにかけておいた。
その日は一日中雨。こんな日は長居する客が圧倒的に多く、回転が悪い。暇なので窓の外ばかり眺めていたが、結局、シフトが終わるまで雨が止む事はなかった。
店を閉め、更衣室に入る。ハンガーにかけておいた服をおもむろに触ると、今からこれを着ると思うと憂鬱になる程度には、じっとりと湿っていた。しかしどうせ帰り道にまた濡れてしまうだろう。少しの辛抱だと腹を括り、生乾きの服を身に纏った。
更衣室から出ると、事務所には作業机に向かって閉店処理をしている店長だけがいた。邪魔しても悪いと思い、おつかれさん、とだけ声をかけて返事を待たずに帰ろうとしたら、呼び止められた。
「ランサーくん。置き傘、何本かあるから持っていくかい?」
オレが傘を持たずに来た事は、今日シフトに入っていた全員に知れ渡っている。もちろん言いふらしたのは例の同僚である。
「いや、気遣いはありがてえが、今日はこのまま帰るさ」
「風邪引いちゃうよ?」
「心配いらねえよ。見た目通り頑丈だからな。それに、傘なら家にある」
そう、傘なら家にある。以前、貰った傘が。
ただなんとなく、気が進まなくて使っていないだけ。
「じゃあ、明日からはそれ差しておいで。しばらく雨は続くだろうから」
「……ああ」
「じゃ、お疲れ様。身体、冷やさないようにね」
「おう、おつかれさん」
手を振りながら軽く返事をし、今度こそ店を出る。バイト中も降り続いていた雨はまったく止む気配を見せず、シフト前にはかろうじて雨を凌げた小さな軒は、もはや意味をなしていなかった。
ふう、と軽く一呼吸してから駆け出すと、素早く走る身体に生温い雨が勢いよく当たり、あっという間に濡れてしまった。しかしおかげで服がまとわりつく不快感はわからなくなり、たくさんの水滴が全身を撫でていくのは爽快感すらあった。
閨に着く頃には、再び濡れ鼠になっていた。テントに入る前にTシャツを脱いでぎゅっと絞り、そのまま中に放り込む。その後自分も中に入って霊体化で身体を乾かしたあと、ぐっしょりと湿った服を前に、さてどうしたものかと思案した。雨が止む気配はない。かと言って、テント内に干す場所がある訳でもない。となると、ルーンを使って乾かすのが一番手っ取り早い。まあ、多少面倒ではあるが。
ルーンでどうにか服は乾いたが、やはり魔術はまだるっこしくて疲れる。この天気では気分転換に夜釣りもできない。とは言え嘆いても雨は止まないので、ままならなさを溜め息として吐き出し、乾かした服をその辺に放り投げると、下着一枚のまま横になった。あくびをしながらテントの中を見回すと、隅に横たえてある傘が目に入る。アイツが寄越した、オレの槍と同じ色の傘。売れ残りだったとの事だが、それでも、似合う色を選んだという律儀さはいじらしい。傘を手渡す時の不安げな表情が脳裏をよぎる。思わず頬が緩み、ほんの少しだけ、寂寥を覚えた。
テントを打つ雨音が次第に穏やかなものになってきた。特にやる事もないのでしばらく身を委ねていると、一定のリズムにうつらうつらとしてくる。サーヴァントには本来必要ないものだが、浮遊感を伴うこの感覚は悪くない──などとぼんやり考えていると、いつの間にか意識は途切れていた。
*
目を覚ますと、テントの中は既に薄明るかった。水滴が布を打つ音で、未だ雨が降り続いているという事がわかる。下着のまま眠ってしまっていたらしく、身体のあちこちが痛かった。伸びをして、テントの入口からちらりと外を確認する。雨雲のせいで曖昧だが、日はそれなりに高く昇っているように見えた。
昨日に続き、今日も午後から喫茶店のバイトだ。新都までの道のりを傘を差して歩くと思うと気が重くなるが、昨日の今日でまた濡れて行けば、流石に店長にドヤされ、同僚の少女にもまた呆れられてしまうだろう。ため息を吐き振り返ると、彩度の落ちたテントの中で、まるで使えと言わんばかりに赤い傘だけが際立って見えた。
「ああ、ったく……わかったよ」
気のせいだとわかっていながらも、それに応えるように独りごちる。昨晩放っておいた服を拾い上げて身にまとい、傘を手にとる。時間が曖昧な上、隣町まで歩かなければならないとなると、早めに出るに越した事はない。そのまま外に出て傘を開き、ゆっくりと歩き出した。
橋の手前にある海浜公園を通ると、道沿いにたくさんの紫陽花が植えられていた。人の手によるものだとわかっていても、色とりどりの花が数多く並ぶ姿は圧巻で、思わず感嘆の息を漏らす。走り抜けてばかりでは気付かなかった風景に、ゆっくり歩くのも悪くはないと感じた。足元が濡れる不快感だけはどうしようもないが、何事にも楽しみようはあるものだ。
橋を渡って暫く歩くと、ようやく新都駅前に辿り着いた。何分かかったかはわからないが、それなりに歩いたように思う。
空は寒々しい灰色をしており、絶えず降り注ぐ雨粒に街並みもどこか霞みがかって見える。道行く人々は皆、足元が気になるのか、うつむき加減で傘に顔が隠れ、視線を上げて歩いている人間など自分くらいの物だった。
「今日は、ちゃんと差してきたんですね」
店の軒先で傘に付いた水滴を払っていると、後から出勤してきた同僚が傘を見てそう言った。昨日、ずぶ濡れのオレを見て目を丸くした少女だ。
「おう。まあな」
「赤ですか。男モノにしては派手ですけど、ランサーさんには似合いますね」
当然、赤はオレの槍の色だからな──などと言いかけて、思い留まる。相手はオレをサーヴァントだと知らないのだ。だが、むしろそれを知らない相手にも褒められるというのは喜ばしい事ではないか。それは、確かに自分に似合っているという事でもあるのだから。
「そうか? 世辞でも嬉しいぜ。ありがとよ」
礼を言うと同時に水滴を払い終えた傘を傘立てに挿し、褒めてくれた同僚に狭い軒下を譲るようにして中に入った。
着替え終えたあと、ホールへの出入口にある鏡の前で軽く襟を正していると、後から着替え終わった同僚が隣に来て身だしなみを整え始めた。しばらく鏡の前で並んでいると、同僚が話しかけてきた。
「ランサーさん」
「なんだ」
「あの傘って、もしかしてプレゼントですか?」
「あー……まあ、貰いモンではあるが」
誤魔化すのも面倒だったので正直に答えると、相手は嬉しそうに目を輝かせた。
「やっぱり! もしかして彼女さんから、とかですか?」
「別にそういうンじゃねえよ」
「えー、違うんですか? てっきりそうなのかと」
「違ぇよ。大体、なんでそう思うんだよ」
うんざりした態度を表に出しながらも問うと、同僚は得意げに答えた。
「だってあんな派手な色、よほど似合うと思わなきゃ贈りませんよ、普通」
そういうもんかねぇ、と適当にはぐらかしながらホールに出ようとすると、同僚はさらに言葉を続けた。
「恋人じゃないとしても、ランサーさんの事を気にかけてる人なんじゃないですか?」
言われて、思わず足を止める。
「……だから、そういうンじゃねえよ。たまたまだ、たまたま」
本当にたまたま、売れ残っていた中からこれを選んだだけだ。似合う、と言ったのも、アイツはサーヴァントとしてのオレの姿を知っていて選んだだけで、そこに特別な想い入れなど、ありはしない。
「ええ~、そうかなぁ……」
同僚は予想以上にしつこい。色恋沙汰への好奇心というのはどうしてこう、人を厄介にさせるのか。このままでは詮索が終わらない気配がしたので、振り返り様に顔を近づけ、瞳をじっと見つめながらこう言った。
「そんなにオレの事が気になるなら、今度二人きりで飲みにでも行こうや、なぁ?」
急に近づいた距離に驚いたのか、肩が軽く跳ね、ニヤついていた口角が一瞬で下がる。別に本気で誘っている訳ではない。相手の好奇心のベクトルを逸らせればそれで良し、誘いを受けてくれればそれはそれで有難い──と、思っていたのだが。
「お断りします」
同僚は、先程までの親しげな態度が嘘のように、至極冷静な表情でピシャリとそう言い放った。さっきまでとの落差に思わず「何でだよ」と突っ込む。
「ランサーさん、
「は?」
「私、もっと年上の男性が好きなんですよ」
あんまりにも得意げに言うものだから、一気に脱力して肩を落とした。
「そりゃ、今日イチどうでもいい情報だな」
「ひどい!」
大きな声を上げて憤慨する様が面白く、思わず笑っていると、先にシフトに入っていた店長がホールから顔を出した。
「何してるの君たち。用意できたなら早くシフト入ってね」
店長の姿を見るや否や、同僚は顔を真っ赤にして、「すみません!」とめいっぱい頭を下げ、逃げるようにホールに出ていった。その赤面ぶりからは、怒られた恥ずかしさ以外のものも感じられた。
(もっと年上の男性、ねぇ……)
なんとなく彼女の意中の相手を察し一人納得していると、店長が意味深な笑顔で肩を叩き、「そういうの、
……どうやら店長にあらぬ誤解を受けてしまったらしい。複雑な気分だったが、あの態度を見ても、その想いに全く気付いてなさそうな店長の表情を見ると、同僚を責める気にはなれなかった。
*
それからも毎日のように雨が降るので、毎日のように傘を使った。アイツは売れ残りと言っていたが、存外に使い勝手は悪くない。大きさも丁度よく、鮮やかな赤は雨に沈みがちな気分を支えてくれる。
しかし、この傘を持っていて一度だけ最悪の気分になった事がある。どこぞの弓兵とバイト帰りに新都駅前で鉢合わせた時だ。
「随分と得物が短くなったのではないか?」
その日は夕方には雨が上がり、傘は閉じて手に持っていた。それを槍に準えて皮肉ったつもりなのだろうが、そう言う弓兵自身も買い物袋で両手が塞がっている。
「そう言うテメェのは随分とデカい
そう言い返してやったら、隣にいた遠坂の嬢ちゃんに「アンタたちは顔を合わせる度に嫌味しか言えないの?」と、大きくため息を吐かれ呆れられてしまった。
「最近は釣りも出来ねえんで、溜まってんだよ」
「あっそ。別に喧嘩したかったらすればいいけど、迷惑かからない所でやってよね。建物とか壊されると、ホント色々と後が面倒なんだから」
後処理をするのは嬢ちゃんではなく教会の人間なのだが、奴に借りを作るのが嫌なのだろう。先程は本気で挑発してこのまま戦闘に持ち込む事も考えたが、嬢ちゃんの言葉に奴の顔がチラつき、一瞬で戦意が萎えた。厄介事を持ち込んだのがオレだと知れれば、オレの自由も危ぶまれる。
「ああ……アイツに借りを作るのはオレも御免だな。じゃ、オレはこれで」
「待ちなさい、ランサー」
早々に立ち去ろうとすると、嬢ちゃんに呼び止められてしまった。
「ところで最近、依久乃は元気してる?」
「あ? なんでオレに聞くんだよ」
「だってアンタ、前にあの子とよく飲んでるって言ってたじゃない」
まるで当然とでも言うかのような表情で尋ねられたので、こちらもなんて事ない顔で返す。
「……いや、最近は会ってねえよ」
「あらそうなの? どうして?」
「別に大した理由はねえよ。嬢ちゃんこそ、わざわざオレに聞かずとも、用があるなら直接聞けばいいじゃねえか。友達なんだろ?」
「それは、そうだけど……色々あるのよ、色々」
嬢ちゃんは少し目を泳がせながらはぐらかした。
「……ふうん、色々ねえ」
半ば独り言のように呟く。そこに皮肉や詮索の意図はない。他者の事情には関心はないし踏み込まない。本人が線を引いているのなら尚更だ。
少しの沈黙のあと、答えあぐねている主を見兼ねてか、黙っていた弓兵が口を挟んできた。
「ランサー、貴様。まさか彼女に手を──」
「お前、その耳は飾りか? 最近は会ってねえって言っただろ」
馬鹿げた憶測に苛立ち、食い気味に言葉を返す。
「さて、どうだかな。色好きな貴様の事だ。もう既に過ちを犯して拒絶されていてもおかしくはないだろうと思ってな」
「あぁ? テメェ殺されてえのか?」
「やれるものならやってみたまえ。しかし、そこで怒りを顕にするという事は、やましい事がある証拠なのではないかね?」
「んだと……」
常日頃からいけ好かない野郎だが、今日は特に癪に障る。腹の底から突き上げる戦闘衝動に、手元の傘を槍のように構えようとしたその時、嬢ちゃんが割って入ってきた。
「あーもうホントにアンタたちってば! いい加減にしなさい! とにかくランサー、もしまた会うことがあったら、あの子によろしくね」
「だからなんでオレが……」
「わかった?」
「……ああ」
有無を言わさない視線にただならぬものを感じ、つい頷いてしまった。
二人と別れたあとも、しばらく気分は最悪だった。弓兵の言葉に逆撫でされた神経が、ささくれだったまま戻らない。
確かに、普段のオレの行動を振り返れば周囲からそう思われても不思議はないのかもしれない。オレだって、不思議なくらいだ。女と二人きりで、酒を飲んだり飯を食ったり。それで数ヶ月、未だに何もないだなんて。だが、アイツに対しての感情はそういうものじゃない。だからこそ、あの男の無粋な言葉が余計に癪に障ったのだ。
この気持ちは、自分でも理解し難い。かと言って誰に見抜かれたいとも思わないが、以前に飲み込んだはずのモヤモヤとしたモノが久しぶりに顔を出してきた。雲行きの怪しい心とは裏腹に、雨上がりの雲間から覗く夕日がやたらと眩しかった。
*
古めかしくも趣のある洋館が立ち並ぶ坂道に、主従の影が伸びる。雨上がりの湿気を含んだ少し強い風が家々の木々を揺らし、ざわざわという葉擦れの音が辺りに響いていた。
少し前を行く主に、アーチャーは声をかける。
「凛。彼女は大切な友人ではなかったのかね」
アーチャーは基本的に忠義者だ。しかし、従順という訳ではない。主の方針に対して自身が容喙すべきと判断したなら、遠慮なくそうする。主も人間であるが故に間違える時はあるからだ。ましてや若く未熟な主なら尚の事。
「いきなり何よ。まあ、大切と言えば大切だけど」
質問の意図がわからない、といった風に、主である少女──凛は首を傾げた。アーチャーは言い方を変えて、問い直す。
「何故、ランサーを放っておくのだ」
その名前を聞いてピンと来たのか、凛は目を見開いて「ああ、その事ね」と呟き、少しだけ思いを巡らせてから答えた。
「時には荒療治も必要なのよ。でも大丈夫。貴方が心配する事はないわ」
大事な事を言っていないような、或いは大事な事しか言っていないような。いまいち的を得ない答えに納得しがたかったが、彼女の性分を省みて、今はこれ以上問うても仕方がないと悟り、アーチャーは「……了解した」とだけ答えた。
とはいえ、本心では納得していない。大切な友人に何かあれば、凛自身も傷付くのだという事を、当の本人が気付いていない事がもどかしい。何かあってからでは遅いのだ。アーチャーは、無意識に買い物袋を持つ手を強く握り締めていた。
(続)