裏・六月 雨に咲く花
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
01
バイトで飲み代を稼いで、ナンパして。空いた日には釣りをして。気が向いたら、サーヴァント連中や坊主にちょっかいをかけて。たったひとつ、依久乃に会わなくなった事を除いては、何も変わらない日々。
──そう、本当に、何も変わらない。
パズルのピースが一つくらい欠けたところで、そこに何が描かれているかはわかる。絵柄を完成させる事に執着しないのなら、“たったひとつ”は、さほど重要ではないのだ。
*
「今日は、魚屋か」
「おうよ」
「アンタ、本当どこにでもいるよな。毎日商店街のどこかには必ずいるんじゃないか」
「いや、新都でもバイトしてるぜ?」
「知ってる。そんなイメージだって話だよ」
昼過ぎ、坊主が魚を買いに来た。はじめの頃はオレと商店街で鉢合わせるとたじろぐような素振りを見せたが、今ではもうすっかり慣れたのか、動じる様子はない。一言二言交わしたら、しゃがみこんでガラスケースの中身を眺めだした。
「何にする?」
「うーん、そうだなぁ。オススメは?」
「今日は、アジだな」
「アジかぁ……」
今日はちょうど、いいアジが入荷してきた。旬らしく、入荷数も多かったので値段もいつもより安い。坊主はアジの入った発泡スチロールの前に移動して、少し考え込む。
「今日は人数少ないし、奮発して多めに買って、アジフライとか……」
「そりゃ美味いのか?」
メニューを考えるつぶやきにオレが反応すると、坊主は「しまった」という顔をした。
「このパターン、まさか」
「おう、勘がいいな。こないだのヤツとは違うんだろ? なら食わせてくれ」
アジといえば、この間オレが釣ったもので作った料理を馳走になった。その時は何種類か出てきて、魚ひとつでいくつも調理法がある事に感心したが、まだあるというなら味わってみたい。
「もちろん、自分の分の金は払うぜ。手土産もつける」
「はぁ……わかったよ」
「いくつ包む?」
「四尾くれ。アンタの分もなら、六尾だな」
「おう」
言われたとおり袋に詰めて手渡すと、坊主は半ば呆れた様子で四尾分の金を支払い、品物を受け取った。終始、渋々といった様子だったが、結局断らない辺り人がいいと思う。
バイトが上がりの足で坊主の家に直行する。閉店までのシフトだったので、今は七時過ぎだが、まだ辺りは明るい。もう、すっかり日が長くなった。
坊主の家へ向かう途中、スーパーで酒を仕入れる。この間は持って行かなかったから、今回は抜かりなく。ついでに、酒を飲まない奴らへの手土産も適当に選んでおいた。
坂を上ってしばらく歩けば坊主の家だ。玄関横の呼び鈴を何度か押すが、すぐに反応がないので扉を開けると、ちょうど廊下の向こうからセイバーが顔を出した。以前は怪訝そうな表情で警戒していたが、今日はオレの姿を一瞥して「ああ、ランサーですか。こんばんは」と一声かけたあと、特に案内もせず奥に引っ込んでしまった。
靴を脱いで上がり込み、居間までの廊下をすたすたと歩く。この家は、一人で暮らすには手に余る大きさなのに、いつ来ても片付いているのには他人事ながら感心する。親から引き継いだらしいが、自分一人で住まうなら、引き払ってもっと小さな家に引っ越してもよかっただろうに。余程思い入れがあるのかもしれないが、坊主はどこか、苦労を背負い込む傾向があるように思える。それも自ら好き好んで。どこぞの弓兵もだが、物好きな奴らだ。綺麗に磨かれた床を眺めながらそんな事を思う。
「よう」
居間の障子戸を開けて声をかけると、先に戻ってちゃぶ台に座っていたセイバーがこちらを振り返り、軽く会釈した。大河の姉ちゃんや間桐の嬢ちゃん、ライダーの姿はない。台所でも、作業しているのは坊主一人だ。
「なんだ。今日はお前さんだけか」
「ええ。大河は仕事でしばらく来られないそうです。桜はライダーと一緒に自宅に」
「そうか、そりゃ残念。いつも大所帯だから、色々買ってきたんだが。まあいいか、腐るモンでもねえし」
台所まで足を進め、冷蔵庫の前で立ち止まる。坊主はオレに気付いたようだが、特に気にする様子もなく、作業を続けていた。
「よう坊主、邪魔するぜ。冷凍庫はどの段だ?」
「冷凍庫? 酒なら、一番下に入れてくれれば……」
「いや、そりゃ冷蔵庫だろ。今日は別のものもあるんだよ。酒だけだとお前さんへの礼にならんと思ってな」
そう言うと坊主は手を止め、オレがそんな事を気にするのは意外だとでも言いたげな表情でこちらを向いた。洗った手をエプロンで拭いている坊主に、ほれ、と言って袋の口を広げて見せる。
「おお、アイスじゃないか」
「多めに買って来たから、適当に分けてくれ」
「最近暑いからありがたいよ。これならみんなも喜ぶ」
冷凍庫はこっちだ、と下から二段目の引き出しを開けた坊主は、袋からアイスを取り出して手際よく入れていく。心做しか動きが早い気がするが、アイスが嬉しいからか、それともただ単に溶けるから急いでいるだけなのか、感情に乏しい表情からは読み取れない。全てのアイスを冷凍庫にしまい終えると、冷蔵庫の一番下の段を開けて袋を入れるように促す。オレはちょうど空いているスペースに袋を上手く収めた。かちゃり、と缶とビンが軽くぶつかる音がする。すかさず冷蔵庫を閉めて作業に戻る坊主に、「んじゃ、何かあったら呼んでくれ」と声をかけ、返事を待たずに居間の方へ戻った。
*
「おまたせ。この間、なめろうの時にもフライは作ったけど、前と違って今回のはシンプルな味付けだから、また違った感じで楽しんでもらえると思う」
調理が終わって、料理が食卓に並べられた。メインの皿には、三枚に下ろされ、きつね色の衣を纏ったアジ。付け合せにはキャベツの千切りとミニトマト、二種類のソース。香ばしい香りが食欲をそそる。
「ほー、こりゃ美味そうだ」
「熱いから、火傷しないようにな」
「はい。いただきます、シロウ」
セイバーはふぅふぅと息を吹きかけてから、早速フライに齧り付いた。さくり、と小気味良い音が響く。ゆっくりと咀嚼し、次第に頬が緩んでいく。誰が見ても「美味しい」とわかる素直な反応は、こちらの美味しさまで増幅してくれるようだ。いや、坊主の料理は実際に美味いから、セイバーでなくともそのような反応になるのだろうが。いずれにせよ、食事の時に美味そうに食べる人間がそばにいるのはいい。
「衣がサクサクで、身がふわふわで……とても美味しいです」
「それはよかった。ソースも二種類用意したから、お好みでどうぞ」
見ているばかりではなく、自分もひと口目を頬張る。軽い食感の衣の中に、ホクホクとしたアジの身。噛み締めた瞬間に口の中に広がる油と旨味。青魚特有の匂いと、タルタルソースの酸味がアクセントになり、次のひと口がすぐ欲しくなる。そうして食べているうちに、皿はあっという間に空になってしまった。
「ところでシロウ。『なめろう』とは何でしょう?」
食べ終えたあと、少し落ち着いたところで、思い出したようにセイバーが尋ねた。そういえばあの時セイバーは出かけていたので、なめろうは食べていない。坊主はセイバーに事の経緯を説明した。
「なるほど。生のまま、叩いて……そのような食べ方もあるのですね。今日の物もとても美味しかったですが、そちらもいつかいただいてみたいです」
「ああ、いいよ。アジはちょうど今が旬だから、また近いうちに」
「じゃ、今度釣れたらまた持って来てやるよ」
「本当か? そりゃ助かる」
まあ、釣れたらな、と付け加えて立ち上がり、全員分の皿をまとめにかかる。飯を馳走になったら皿を洗うのが、気付けばすっかり習慣になっていた。
「ああ、オレがやるのに」
坊主はすかさず止めようとしたが、気にせず盆に乗せていく。坊主は諦めて盆を持ち上げる方にまわり、そのまま二人で洗い場に向かった。
カウンターで隔てられた台所は、家の広さの割に狭いのも相まって、居間とは切り離された空間のようだ。今日は人数も少ないから余計にそう感じる。せっかくなので、ここは男同士でしか出来ない話をと、セイバーには聞こえないようにこっそり坊主に話しかけた。
「なあ坊主。実際のところ、どいつが本命なんだ?」
坊主の手が一瞬止まる。濯いでいた皿を落としそうになったのを、すんでのところで踏みとどまったようだ。そして、心底気乗りしない、という表情でこちらを見てくる。
「何の話だよ」
「かまととぶるなよ。年頃の男と女がひとつ屋根の下と来りゃ、なぁ?」
初心 な様子が面白く、からかうように肘で軽く小突く。坊主はうんざりしたようにため息をつき、手に持っていた茶碗をサッと濯いで、目を合わせずに手渡してきた。
「別に俺は、誰もそういう目で見てないぞ。……いや、そりゃ可愛いなとか、綺麗だなとかは、思わない事もない……けど」
「抱きたい、とは思わねえってか」
そう言うと、坊主は大きく吹き出した。幸い今度は坊主の手の中に食器はない。持っていたら、今度こそ落としかねない動揺っぷりだった。
「あのなぁ……! 皆が皆、アンタみたいな世界観で生きてる訳じゃないんだぞ」
「何だ。さてはお前、タマなしか?」
「……なあランサー、最低、って言われたことないか?」
「いや、ねえぜ?」
「……あ、そう」
ただの世間話の何が最低なのかサッパリわからないが、坊主は一段と肩を落として、呆れたような空気で次の皿を濯ぎにかかった。
「誰にも言わねえからよ、聞かせてみろよ」
「しつこいな。本当にそういうのはないってば」
濯がれた皿を半ば奪うようにして手に取り、さらに畳み掛けると、間髪入れずに否定された。照れも何もなく真顔で返してくるところを見ると、嘘はないらしい。もしくは、オレとはそういう話は出来ないと言う事か。
「はー、つまんねえ答えだこと」
面白い話が引き出せず反射的に言葉を返すと、それが癇に触ったのか、坊主はムッとした表情で、今度は押し付けるように皿を渡してきた。
「……だいたい、そうやって人をからかうけど、アンタはどうなんだ」
「あ? 何がだ」
「何が、って……。だから、いないのか。誰か、気になる相手とか」
まさか同じ問いを返されると思わず、少々面食らう。まあ、坊主は実際にオレの惚れた腫れたに興味がある訳ではなく、十中八九質問に答えたくないから、鸚鵡 返ししたのだろうが。しかし生前ならいざ知らず、今のオレにそれを聞くのは下策だ。
「……あのなぁ坊主。オレぁサーヴァントだぞ? いつ消えるかわからねえ身で、気になる相手も何もねえよ」
ため息混じりに答え、押し付けられた皿もさっさと拭いて、次をよこせと促した。
「でも、その割にはよく……その、ナンパしてるじゃないか」
躱したつもりが意外に食い下がりやがる。こう見えて他人の事情に興味津々だったりするのか、コイツ。
「そりゃぁアレだ。遊びっつーか、一夜限りの何とやら、っつーか。まぁ要は別腹だ、別腹」
「うわぁ……。重ねて聞くけど、本当に最低って言われた事ないか?」
「ねぇな」
即答すると、坊主は何とも言えない複雑な表情になった。その表情のまま、濯ぎ終わった最後の一枚を手渡す。一足先に手の空いた坊主は、濡れた手をタオルで拭きながら、はた、と何かを思いついた様子で尋ねてきた。
「……ちなみに、上手く行った事あるのか?」
「あー……それがなぁ、まだ一度もねえんだわ」
痛いところを突いてくるなと思ったが、見栄を張っても仕方がないので正直に答える。
実際、一度も成功していないのだ。普通に断られる事もあれば、いいところまで行っても何故か途中で邪魔が入ったりと、狙い通り朝を迎えられた試しがない。声をかけることが楽しみの一つでもあるので、成否にこだわりはないが、ここまで来ると何かしらの嫌がらせ……もとい、因果のようなものを感じざるを得ない。
「生前はうんざりするほど女が寄って来たってのによ。何の因果かねえ、全く」
「そうなのか……。でもなんか、ほっとしたよ」
「おい、そりゃどういう意味だ」
「悲しむ女の人が一人でも減るなら何より、って事だ」
その時、坊主の言葉が妙に胸に引っかかった。言い方に特別な意図や含みは感じられない。気の置けない仲での、ただの冗談、悪態。そういったニュアンスだ。そんなものにいちいち目くじらを立てるほど、器の小さな男ではない。ただ、ちくりと刺さる棘のようなものがあった。坊主の言葉に刺されたというよりは、元々刺さっていた棘に気付いたと言うべきか。それこそ、喉に引っかかってなかなか飲み込めない、魚の骨のような──。
「どうした? 突然黙り込んで……」
「……いや、別に。何でもねえよ」
理由のわからない不透明な感情を振り払い、手に持っている皿をさっさと拭き上げる。これを洗いカゴに並べれば、洗い物は終わりだ。
「さぁて、終わった終わった。酒、酒っと」
皿を拭いていた布を片付けて、思いきり伸びをして、冷蔵庫から酒の入った袋を取り出した。洗いカゴに立てかけられたグラスをひとつ手に取ったところで、今日はもう一人の酒飲みがいない事を思い出す。
「そういや、今日は大河の姉ちゃんいねえんだよなぁ」
「ああ、テスト前だからなぁ。しばらくは来ないよ」
「何なら、お前さんも行っとくか? 一人より二人の方が、酒も美味え」
「だから、俺は未成年だってば」
「いいじゃねえか、ちょっとくらい」
「ダメだっつーの!」
もちろん冗談のつもりだが、案の定坊主は本気でムキになって返してくる。ああ、からかうと反応がいいヤツはやっぱり面白い。
そう。こうしてひとときのやりとりを楽しむだけなら、特定の誰かに肩入れする必要はないのだ。
(続)
バイトで飲み代を稼いで、ナンパして。空いた日には釣りをして。気が向いたら、サーヴァント連中や坊主にちょっかいをかけて。たったひとつ、依久乃に会わなくなった事を除いては、何も変わらない日々。
──そう、本当に、何も変わらない。
パズルのピースが一つくらい欠けたところで、そこに何が描かれているかはわかる。絵柄を完成させる事に執着しないのなら、“たったひとつ”は、さほど重要ではないのだ。
*
「今日は、魚屋か」
「おうよ」
「アンタ、本当どこにでもいるよな。毎日商店街のどこかには必ずいるんじゃないか」
「いや、新都でもバイトしてるぜ?」
「知ってる。そんなイメージだって話だよ」
昼過ぎ、坊主が魚を買いに来た。はじめの頃はオレと商店街で鉢合わせるとたじろぐような素振りを見せたが、今ではもうすっかり慣れたのか、動じる様子はない。一言二言交わしたら、しゃがみこんでガラスケースの中身を眺めだした。
「何にする?」
「うーん、そうだなぁ。オススメは?」
「今日は、アジだな」
「アジかぁ……」
今日はちょうど、いいアジが入荷してきた。旬らしく、入荷数も多かったので値段もいつもより安い。坊主はアジの入った発泡スチロールの前に移動して、少し考え込む。
「今日は人数少ないし、奮発して多めに買って、アジフライとか……」
「そりゃ美味いのか?」
メニューを考えるつぶやきにオレが反応すると、坊主は「しまった」という顔をした。
「このパターン、まさか」
「おう、勘がいいな。こないだのヤツとは違うんだろ? なら食わせてくれ」
アジといえば、この間オレが釣ったもので作った料理を馳走になった。その時は何種類か出てきて、魚ひとつでいくつも調理法がある事に感心したが、まだあるというなら味わってみたい。
「もちろん、自分の分の金は払うぜ。手土産もつける」
「はぁ……わかったよ」
「いくつ包む?」
「四尾くれ。アンタの分もなら、六尾だな」
「おう」
言われたとおり袋に詰めて手渡すと、坊主は半ば呆れた様子で四尾分の金を支払い、品物を受け取った。終始、渋々といった様子だったが、結局断らない辺り人がいいと思う。
バイトが上がりの足で坊主の家に直行する。閉店までのシフトだったので、今は七時過ぎだが、まだ辺りは明るい。もう、すっかり日が長くなった。
坊主の家へ向かう途中、スーパーで酒を仕入れる。この間は持って行かなかったから、今回は抜かりなく。ついでに、酒を飲まない奴らへの手土産も適当に選んでおいた。
坂を上ってしばらく歩けば坊主の家だ。玄関横の呼び鈴を何度か押すが、すぐに反応がないので扉を開けると、ちょうど廊下の向こうからセイバーが顔を出した。以前は怪訝そうな表情で警戒していたが、今日はオレの姿を一瞥して「ああ、ランサーですか。こんばんは」と一声かけたあと、特に案内もせず奥に引っ込んでしまった。
靴を脱いで上がり込み、居間までの廊下をすたすたと歩く。この家は、一人で暮らすには手に余る大きさなのに、いつ来ても片付いているのには他人事ながら感心する。親から引き継いだらしいが、自分一人で住まうなら、引き払ってもっと小さな家に引っ越してもよかっただろうに。余程思い入れがあるのかもしれないが、坊主はどこか、苦労を背負い込む傾向があるように思える。それも自ら好き好んで。どこぞの弓兵もだが、物好きな奴らだ。綺麗に磨かれた床を眺めながらそんな事を思う。
「よう」
居間の障子戸を開けて声をかけると、先に戻ってちゃぶ台に座っていたセイバーがこちらを振り返り、軽く会釈した。大河の姉ちゃんや間桐の嬢ちゃん、ライダーの姿はない。台所でも、作業しているのは坊主一人だ。
「なんだ。今日はお前さんだけか」
「ええ。大河は仕事でしばらく来られないそうです。桜はライダーと一緒に自宅に」
「そうか、そりゃ残念。いつも大所帯だから、色々買ってきたんだが。まあいいか、腐るモンでもねえし」
台所まで足を進め、冷蔵庫の前で立ち止まる。坊主はオレに気付いたようだが、特に気にする様子もなく、作業を続けていた。
「よう坊主、邪魔するぜ。冷凍庫はどの段だ?」
「冷凍庫? 酒なら、一番下に入れてくれれば……」
「いや、そりゃ冷蔵庫だろ。今日は別のものもあるんだよ。酒だけだとお前さんへの礼にならんと思ってな」
そう言うと坊主は手を止め、オレがそんな事を気にするのは意外だとでも言いたげな表情でこちらを向いた。洗った手をエプロンで拭いている坊主に、ほれ、と言って袋の口を広げて見せる。
「おお、アイスじゃないか」
「多めに買って来たから、適当に分けてくれ」
「最近暑いからありがたいよ。これならみんなも喜ぶ」
冷凍庫はこっちだ、と下から二段目の引き出しを開けた坊主は、袋からアイスを取り出して手際よく入れていく。心做しか動きが早い気がするが、アイスが嬉しいからか、それともただ単に溶けるから急いでいるだけなのか、感情に乏しい表情からは読み取れない。全てのアイスを冷凍庫にしまい終えると、冷蔵庫の一番下の段を開けて袋を入れるように促す。オレはちょうど空いているスペースに袋を上手く収めた。かちゃり、と缶とビンが軽くぶつかる音がする。すかさず冷蔵庫を閉めて作業に戻る坊主に、「んじゃ、何かあったら呼んでくれ」と声をかけ、返事を待たずに居間の方へ戻った。
*
「おまたせ。この間、なめろうの時にもフライは作ったけど、前と違って今回のはシンプルな味付けだから、また違った感じで楽しんでもらえると思う」
調理が終わって、料理が食卓に並べられた。メインの皿には、三枚に下ろされ、きつね色の衣を纏ったアジ。付け合せにはキャベツの千切りとミニトマト、二種類のソース。香ばしい香りが食欲をそそる。
「ほー、こりゃ美味そうだ」
「熱いから、火傷しないようにな」
「はい。いただきます、シロウ」
セイバーはふぅふぅと息を吹きかけてから、早速フライに齧り付いた。さくり、と小気味良い音が響く。ゆっくりと咀嚼し、次第に頬が緩んでいく。誰が見ても「美味しい」とわかる素直な反応は、こちらの美味しさまで増幅してくれるようだ。いや、坊主の料理は実際に美味いから、セイバーでなくともそのような反応になるのだろうが。いずれにせよ、食事の時に美味そうに食べる人間がそばにいるのはいい。
「衣がサクサクで、身がふわふわで……とても美味しいです」
「それはよかった。ソースも二種類用意したから、お好みでどうぞ」
見ているばかりではなく、自分もひと口目を頬張る。軽い食感の衣の中に、ホクホクとしたアジの身。噛み締めた瞬間に口の中に広がる油と旨味。青魚特有の匂いと、タルタルソースの酸味がアクセントになり、次のひと口がすぐ欲しくなる。そうして食べているうちに、皿はあっという間に空になってしまった。
「ところでシロウ。『なめろう』とは何でしょう?」
食べ終えたあと、少し落ち着いたところで、思い出したようにセイバーが尋ねた。そういえばあの時セイバーは出かけていたので、なめろうは食べていない。坊主はセイバーに事の経緯を説明した。
「なるほど。生のまま、叩いて……そのような食べ方もあるのですね。今日の物もとても美味しかったですが、そちらもいつかいただいてみたいです」
「ああ、いいよ。アジはちょうど今が旬だから、また近いうちに」
「じゃ、今度釣れたらまた持って来てやるよ」
「本当か? そりゃ助かる」
まあ、釣れたらな、と付け加えて立ち上がり、全員分の皿をまとめにかかる。飯を馳走になったら皿を洗うのが、気付けばすっかり習慣になっていた。
「ああ、オレがやるのに」
坊主はすかさず止めようとしたが、気にせず盆に乗せていく。坊主は諦めて盆を持ち上げる方にまわり、そのまま二人で洗い場に向かった。
カウンターで隔てられた台所は、家の広さの割に狭いのも相まって、居間とは切り離された空間のようだ。今日は人数も少ないから余計にそう感じる。せっかくなので、ここは男同士でしか出来ない話をと、セイバーには聞こえないようにこっそり坊主に話しかけた。
「なあ坊主。実際のところ、どいつが本命なんだ?」
坊主の手が一瞬止まる。濯いでいた皿を落としそうになったのを、すんでのところで踏みとどまったようだ。そして、心底気乗りしない、という表情でこちらを見てくる。
「何の話だよ」
「かまととぶるなよ。年頃の男と女がひとつ屋根の下と来りゃ、なぁ?」
「別に俺は、誰もそういう目で見てないぞ。……いや、そりゃ可愛いなとか、綺麗だなとかは、思わない事もない……けど」
「抱きたい、とは思わねえってか」
そう言うと、坊主は大きく吹き出した。幸い今度は坊主の手の中に食器はない。持っていたら、今度こそ落としかねない動揺っぷりだった。
「あのなぁ……! 皆が皆、アンタみたいな世界観で生きてる訳じゃないんだぞ」
「何だ。さてはお前、タマなしか?」
「……なあランサー、最低、って言われたことないか?」
「いや、ねえぜ?」
「……あ、そう」
ただの世間話の何が最低なのかサッパリわからないが、坊主は一段と肩を落として、呆れたような空気で次の皿を濯ぎにかかった。
「誰にも言わねえからよ、聞かせてみろよ」
「しつこいな。本当にそういうのはないってば」
濯がれた皿を半ば奪うようにして手に取り、さらに畳み掛けると、間髪入れずに否定された。照れも何もなく真顔で返してくるところを見ると、嘘はないらしい。もしくは、オレとはそういう話は出来ないと言う事か。
「はー、つまんねえ答えだこと」
面白い話が引き出せず反射的に言葉を返すと、それが癇に触ったのか、坊主はムッとした表情で、今度は押し付けるように皿を渡してきた。
「……だいたい、そうやって人をからかうけど、アンタはどうなんだ」
「あ? 何がだ」
「何が、って……。だから、いないのか。誰か、気になる相手とか」
まさか同じ問いを返されると思わず、少々面食らう。まあ、坊主は実際にオレの惚れた腫れたに興味がある訳ではなく、十中八九質問に答えたくないから、
「……あのなぁ坊主。オレぁサーヴァントだぞ? いつ消えるかわからねえ身で、気になる相手も何もねえよ」
ため息混じりに答え、押し付けられた皿もさっさと拭いて、次をよこせと促した。
「でも、その割にはよく……その、ナンパしてるじゃないか」
躱したつもりが意外に食い下がりやがる。こう見えて他人の事情に興味津々だったりするのか、コイツ。
「そりゃぁアレだ。遊びっつーか、一夜限りの何とやら、っつーか。まぁ要は別腹だ、別腹」
「うわぁ……。重ねて聞くけど、本当に最低って言われた事ないか?」
「ねぇな」
即答すると、坊主は何とも言えない複雑な表情になった。その表情のまま、濯ぎ終わった最後の一枚を手渡す。一足先に手の空いた坊主は、濡れた手をタオルで拭きながら、はた、と何かを思いついた様子で尋ねてきた。
「……ちなみに、上手く行った事あるのか?」
「あー……それがなぁ、まだ一度もねえんだわ」
痛いところを突いてくるなと思ったが、見栄を張っても仕方がないので正直に答える。
実際、一度も成功していないのだ。普通に断られる事もあれば、いいところまで行っても何故か途中で邪魔が入ったりと、狙い通り朝を迎えられた試しがない。声をかけることが楽しみの一つでもあるので、成否にこだわりはないが、ここまで来ると何かしらの嫌がらせ……もとい、因果のようなものを感じざるを得ない。
「生前はうんざりするほど女が寄って来たってのによ。何の因果かねえ、全く」
「そうなのか……。でもなんか、ほっとしたよ」
「おい、そりゃどういう意味だ」
「悲しむ女の人が一人でも減るなら何より、って事だ」
その時、坊主の言葉が妙に胸に引っかかった。言い方に特別な意図や含みは感じられない。気の置けない仲での、ただの冗談、悪態。そういったニュアンスだ。そんなものにいちいち目くじらを立てるほど、器の小さな男ではない。ただ、ちくりと刺さる棘のようなものがあった。坊主の言葉に刺されたというよりは、元々刺さっていた棘に気付いたと言うべきか。それこそ、喉に引っかかってなかなか飲み込めない、魚の骨のような──。
「どうした? 突然黙り込んで……」
「……いや、別に。何でもねえよ」
理由のわからない不透明な感情を振り払い、手に持っている皿をさっさと拭き上げる。これを洗いカゴに並べれば、洗い物は終わりだ。
「さぁて、終わった終わった。酒、酒っと」
皿を拭いていた布を片付けて、思いきり伸びをして、冷蔵庫から酒の入った袋を取り出した。洗いカゴに立てかけられたグラスをひとつ手に取ったところで、今日はもう一人の酒飲みがいない事を思い出す。
「そういや、今日は大河の姉ちゃんいねえんだよなぁ」
「ああ、テスト前だからなぁ。しばらくは来ないよ」
「何なら、お前さんも行っとくか? 一人より二人の方が、酒も美味え」
「だから、俺は未成年だってば」
「いいじゃねえか、ちょっとくらい」
「ダメだっつーの!」
もちろん冗談のつもりだが、案の定坊主は本気でムキになって返してくる。ああ、からかうと反応がいいヤツはやっぱり面白い。
そう。こうしてひとときのやりとりを楽しむだけなら、特定の誰かに肩入れする必要はないのだ。
(続)