裏・五月 薔薇には為れぬとお前は言うが
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01
紫煙をくゆらせながら、めまぐるしく人が行き交う通路をガラス越しに眺める。くたびれたスーツを着た男たちの群れが改札に吸い込まれ、入れ替わりに別の群れが溢れてくるのを三度ほど見たあと、短くなった煙草を灰皿に捨て、駅の喫煙スペースを出た。
茜色に染まる街をぶらぶらと歩く。夕方の駅前通りは人が多い。先程改札から吐き出されたスーツ男たちに、買い物をする主婦や談笑する学生たちも混ざる。この国はどうにも、スーツだの制服だの同じような服を着ている人間が多い。私服の人間さえ、どこか変わり映えしないように感じる。そんな中でただでさえ自分は目立つのだろう。時折チラチラと視線を感じる。まあ、もう慣れてしまったが。
通りを向こう側に渡ろうとすると、ちょうど信号が赤になってしまった。
手持ち無沙汰になり何となしに見上げると、高層ビルが目についた。ただただよく出来たものだと感心する。大抵の人間は生まれた土地から遠く、或いは長く離れると、いずれ故郷が恋しくなるのだろうが、自分は違う。召喚から三ヶ月経つ今も、生前とは違い過ぎる景色に寂寞 の念などは浮かばない。育った国を懐かしいと思う事はあれど、そこに悲観はなく、魂を焦がすほど帰りたいとも思わないのだ。
物心つく前に生まれた地からアルスターに連れて来られ、戦いのためにあちこち旅をして生きた。城こそ持っていたが、それは習わしの様なもので、執着はない。自分はそもそも一つ所に根を下ろすように出来ていないのかも知れない。だが、そんな造りの魂だからこそ、そこがルーツから遠く離れた場所であっても、それなりに溶け込み、それなりに楽しめるのだろう。
信号が青になり、止まっていた人々が一斉に動き出し、それに足並みを揃えて自分も歩き出す。ビルの壁についた時計が、六時半を指し示していた。
依久乃の家に向かうにはまだ少し早い。まだ帰ってきてない可能性の方が高いが、とりあえず行ってみて、いなければいないでコペンハーゲンに酒でも買いに行けばいいだろう。
そう考えていたら、横断歩道の向こう側に見慣れた横顔を見つけた。周囲の人間と似たような格好をしていて一瞬見逃しそうになったが、あれは間違いなく依久乃だ。
しかし、彼女の様子はいつもと少し違った。ぎゅっと眉間に皺を寄せ、普段からどこか張り詰めている雰囲気をさらに張り詰めさせている。
オレは足を早め、依久乃の方に駆け寄る。
「よう、依久乃! 今帰りか?」
「うわっ!」
依久乃は心底驚いた声を出した。そしてオレに気付くと、何かまずいものでも見たような顔で周囲をきょろきょろと見回した。
いきなり動いた男と大きな声を上げた女に周囲の視線が緩く集まる。それに気づいた依久乃は、視線を振り切るように慌てて歩き出した。オレも周囲に軽く一瞥して、すぐさま後を追う。
しばらく歩き、周囲の関心が解けた頃を見計らって、依久乃が口を開いた。
「……驚かさないでよ」
「普通に声掛けただけじゃねえか」
「でもいきなりはびっくりするって」
「だが他にやりようなかっただろ」
言い返す言葉が見つからないのか、依久乃は再び眉根を寄せ、むすっとしたまま黙ってしまった。
「……そういや、さっきもそんな難しい顔してたが、どした? どっか痛いトコでもあんのか?」
先程の張りつめた表情が気になって聞くと、全く自覚がないのか「何が?」と聞き返されてしまった。
「いや、声掛けた時、えらい顰め面してたからよ」
「え、そう?」
「してたしてた。こうぎゅーって」
顔真似をしてやると、驚いた顔で眉間をおさえるしぐさをした。自分が今までどんな表情をしていたか、気付いていなかったらしい。
「別にどこも痛くないよ。ただの疲れでしょ。それよりランサーはどうしたの」
「どうしたも何も、お前んトコに行くつもりだったんだよ。今帰りなら、このままついてっていいか?」
「……別に、いいけど。ただ、少し離れて歩いて欲しい」
依久乃は周囲をきょろきょろと見回す。先程も思ったが、まるで小動物みたいで少し面白い。
「なんでだよ」
「まだ仕事場の近くだから」
曰く、異性と一緒にいるところを知り合いに見られると後々面倒らしい。特にオレは目立つから尚更だそうだ。正直そこまで気にする事かとも思ったが、こういう時の依久乃は存外に頑固なので、言われた通り少し離れて後ろを歩いた。
歩幅を合わせながらゆっくり歩いていると、ある店の前で依久乃が立ち止まった。
そこは中世風の装飾が施された如何にもな店構えのアンティークショップだった。開け放たれた入口には革張りの椅子が置いてあり、“OPEN”と書かれた木の看板が立てかけられている。
飴色の木枠で縁取られた大きなガラス張りのショーウィンドウには、豪奢な電気スタンド、壁掛け時計、猫の置物や食器セットなどが脈絡なくディスプレイされていて、それらは時間に取り残されたまま、かつての思い出に浸るようにひっそりと佇んでいる。
依久乃はそれらには目もくれず、ディスプレイの隅にある小さな箱の中をじっと見つめていた。
「どうした? 何見てんだ?」
「いや、ちょっと……目に付いて」
視線の先には、小さな赤い薔薇のブローチ。赤い石を削り出して作られた花を、金属で作られた茎と葉が支えており、素人目にもわかるほど精巧な細工に目を見張る。さらに、花びらの輪郭や葉の部分にはところどころ透明な石が埋め込まれ、照明の光を受けてきらきらと輝いていた。
「ほう、こりゃすげえ」
「デザインもいいし、作りも丁寧で……でもね、これは多分本物じゃない。値段と状態からして、ベースは貴金属だけど、石はおそらく人工だと思う」
「そうなのか? なのに目に付いたのか」
「うん、不思議だよね。これ自体は安価でありふれたものだし、神秘性も魔術的価値もはないはずなんだけど、なんか……気になって」
言われて、改めてブローチをよく見る。確かに、多少魔力のようなものを感じた。そのものの旧 さも相まってか、神秘を帯びる一本手前と言ったところだろうか。しかし同時に、どこか暖かな雰囲気も感じる。
「そうだなぁ。もしかしたら以前の持ち主が大事にしてたのかも知れん。強い想念っつうモンは、その物の価値や在り方を変えるからな。それが愛であれ、呪いであれ」
「想いが、価値や在り方を変える……そういう事も、あるんだ」
依久乃はどこか独り言のように呟く。自分の中になかった概念を知り、その言葉を噛み締めたいけれど、何故だか口に入れるのは躊躇われる、そんな表情だった。視線は相変わらずブローチに向けられている。
「お前、やっぱこういうの好きなんだな」
「え、いや……好きとかじゃなくて、これは職業病みたいなもので」
ブローチから視線を外し、慌てて否定する。
「でも楽しそうに見てたじゃねえか。欲しくなったりしねえのか?」
「そんな風に思った事ないよ。ていうか、私なんかがそんな事思っちゃいけない」
「あ? なんでだよ」
何気ない疑問のつもりだったが、依久乃は「それは……」と言葉を詰まらせてしまった。そしてしばらく視線を彷徨わせたあと、絞り出すように言葉を吐き出した。
「ええと……私には、相応しく、ないから……」
途切れ途切れに紡がれたそれは、当たり前すぎる事を聞かれたが故に、改めて言葉にするのに時間がかかっていると言った風だった。
人は身に着けるもので自覚的な自己価値が変わるという感覚は確かにある。そこから転じて、身に付けるものに相応しい人間であるべき、という考え方もまあ、理解は出来る。それが高級な宝飾品なら尚の事、それなりの品格を求められるのだろう。依久乃の言葉は一見ただの謙遜とも取れる。だが、オレにはそれだけではないようにも思えた。
基本、必要がなければ他人の哲学には口を出さない主義だが、依久乃のその言葉は何故か飲み込み難かった。オレの感覚と違いすぎるからか、それとも違う理由なのかはわからない。
しかしオレが意味を問い返すより先に、依久乃が歩き出す。そして振り返らずにこう言った。
「それにこういうのは私なんかより、セイバーみたいな高貴な人とか、凛みたいな綺麗な子が身に着けるべきなの」
表情こそ見えなかったが、それは笑みを含んだ穏やかな声だ。しかし、その背中は声音とは裏腹にどこか寂しげにも見える。
理由はわからないが、オレはその言葉に無性に苛立った。かと言って原因がわからないソレを依久乃ぶつける気にもなれず、彼女が背負った湿っぽい空気を自分の苛立ちごと吹き飛ばすように、努めて明るい声で言葉を放った。
「あー、まあセイバーはともかくとして、遠坂の嬢ちゃんはそんなしおらしい感じじゃねえけどなぁ。
魔術のためにガバッと買って、パーッと豪快に使っちまうだろ?」
オレの発言に、依久乃は少しよろめいてから立ち止まり、ゆるゆると振り返った。潤んだ瞳にちょうど夕日が差し込んでいる。さっきの石みたいで綺麗だ、とオレは思う。
「ランサーってば……今それ言っちゃう?」
困ったように眉根を寄せた笑顔は、苦笑いにも、笑うのを必死に我慢しているようにも見える。
「だってホントの事だろ?」
「……そう、だね」
依久乃は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐさまふっと笑った。まだ少し寂しげだが、張り詰めていたものは少し緩んだらしい。
「やっとまともにこっち見たな」
漸く視線が合ったので、そのままじっと見つめてやると、依久乃は唇を引き結び、向こうを向いてしまった。夕日でわかりにくいが、耳まで赤いようにも見える。
それでも顔が見たかったので、再び歩き始めた依久乃に近づき、並んで歩いてみた。離れろと言われるかと思ったが、特に咎められなかったのでそのまま隣で歩き続けた。
しばらくの沈黙のあと、依久乃がぽつぽつと口を開いた。
「あのさ……一応、さっきのは見た目や雰囲気の話をしてたんだけど……」
「わかってるよ」
「うん……あと凛は、買うときは一気に買うけど、使う時は案外渋るかも……いや、でも、追い込まれると、ランサーの言う通りになるね。ふふっ」
依久乃は遠坂凛の思い切りの良さを思い浮かべているのか、笑いを堪えながら話している。
「だろ? 潔いっつーか肝が据わってるっつーか、いっそ男前だよなぁ」
「ふっ、あははっ……すごいね、ランサー。この短期間で、凛のことよくわかってる」
「まあな?」
得意げな顔をすると、依久乃はとうとう耐えられなくなり今度こそ笑いだした。ダメだ、こんな事で笑っちゃいけないのに、などとこぼしながらも、それはしばらく止むことはなかった。
これまでも料理を褒めたりすると微笑むことはあったが、こんな風に楽しげに、無邪気に笑う姿を見るのは初めてだった。
「悪い意味で笑ってる訳じゃねえんだからいいだろ? むしろ褒めてんだぜ、オレは」
「そうだね。でも、私が笑ったってバレたら殺されそう」
「確かにあの嬢ちゃんならやりかねんな」
「えぇー、そこは否定しとこうよ」
「安心しな。黙っといてやるよ。二人だけの秘密だな」
「何それ。ランサーとの秘密とかやだよ」
嫌がる言葉に反して、その表情はとても楽しそうだ。冗談交じりではあるが、共通の秘密を持つ事は互いの間に不思議な連帯感をもたらす。これがオレにはとても心地よく、失いがたいものに感じられた。
「……ところで、もうずっと隣歩いてるけどいいのか?」
「はっ、いつの間に……!」
隣を歩いている事に本気で気付いていなかったらしく、またソワソワと周囲を見回し始めた。しかしあの店の前から既に数分、駅前通りはとっくに抜けて住宅街に入っており、周囲の人間はまばらだ。
「別に見られたって構やしねえだろ。やましい事なんて何もねえんだからよ」
「で、でも!」
「大丈夫だ。なんか言われたら責任取ってやるよ」
「責任って……?」
「オレのせいにしていいって意味だよ。適当に絡まれたとかナンパされたとか言っとけ。それとも、他に何か違う責任の取り方があんのか?」
「なっ……べ、別に何もないよ……!」
軽くからかうと、顔を真っ赤にしてたじろいだ。硬い雰囲気がひとたび緩めば、面白いほど打てば響く。からかい甲斐がある女は、嫌いじゃない。
── 私には、相応しくないから。
ふと、先程の言葉が頭を過り、胸の奥に感じた違和感が蘇った。だが今その意味を問うては、この心地よい空気に水を差す事になる。先程と比べてすっかり緊張が解けた依久乃の横顔を見ていると、それを再び曇らせる事は憚られ、オレはその疑問を、すっきりしない気持ちごと飲み込んだ。
こんなものは、美味い飯を食べればきっと、すぐにどこかへ消えてしまうだろう。
(続)
紫煙をくゆらせながら、めまぐるしく人が行き交う通路をガラス越しに眺める。くたびれたスーツを着た男たちの群れが改札に吸い込まれ、入れ替わりに別の群れが溢れてくるのを三度ほど見たあと、短くなった煙草を灰皿に捨て、駅の喫煙スペースを出た。
茜色に染まる街をぶらぶらと歩く。夕方の駅前通りは人が多い。先程改札から吐き出されたスーツ男たちに、買い物をする主婦や談笑する学生たちも混ざる。この国はどうにも、スーツだの制服だの同じような服を着ている人間が多い。私服の人間さえ、どこか変わり映えしないように感じる。そんな中でただでさえ自分は目立つのだろう。時折チラチラと視線を感じる。まあ、もう慣れてしまったが。
通りを向こう側に渡ろうとすると、ちょうど信号が赤になってしまった。
手持ち無沙汰になり何となしに見上げると、高層ビルが目についた。ただただよく出来たものだと感心する。大抵の人間は生まれた土地から遠く、或いは長く離れると、いずれ故郷が恋しくなるのだろうが、自分は違う。召喚から三ヶ月経つ今も、生前とは違い過ぎる景色に
物心つく前に生まれた地からアルスターに連れて来られ、戦いのためにあちこち旅をして生きた。城こそ持っていたが、それは習わしの様なもので、執着はない。自分はそもそも一つ所に根を下ろすように出来ていないのかも知れない。だが、そんな造りの魂だからこそ、そこがルーツから遠く離れた場所であっても、それなりに溶け込み、それなりに楽しめるのだろう。
信号が青になり、止まっていた人々が一斉に動き出し、それに足並みを揃えて自分も歩き出す。ビルの壁についた時計が、六時半を指し示していた。
依久乃の家に向かうにはまだ少し早い。まだ帰ってきてない可能性の方が高いが、とりあえず行ってみて、いなければいないでコペンハーゲンに酒でも買いに行けばいいだろう。
そう考えていたら、横断歩道の向こう側に見慣れた横顔を見つけた。周囲の人間と似たような格好をしていて一瞬見逃しそうになったが、あれは間違いなく依久乃だ。
しかし、彼女の様子はいつもと少し違った。ぎゅっと眉間に皺を寄せ、普段からどこか張り詰めている雰囲気をさらに張り詰めさせている。
オレは足を早め、依久乃の方に駆け寄る。
「よう、依久乃! 今帰りか?」
「うわっ!」
依久乃は心底驚いた声を出した。そしてオレに気付くと、何かまずいものでも見たような顔で周囲をきょろきょろと見回した。
いきなり動いた男と大きな声を上げた女に周囲の視線が緩く集まる。それに気づいた依久乃は、視線を振り切るように慌てて歩き出した。オレも周囲に軽く一瞥して、すぐさま後を追う。
しばらく歩き、周囲の関心が解けた頃を見計らって、依久乃が口を開いた。
「……驚かさないでよ」
「普通に声掛けただけじゃねえか」
「でもいきなりはびっくりするって」
「だが他にやりようなかっただろ」
言い返す言葉が見つからないのか、依久乃は再び眉根を寄せ、むすっとしたまま黙ってしまった。
「……そういや、さっきもそんな難しい顔してたが、どした? どっか痛いトコでもあんのか?」
先程の張りつめた表情が気になって聞くと、全く自覚がないのか「何が?」と聞き返されてしまった。
「いや、声掛けた時、えらい顰め面してたからよ」
「え、そう?」
「してたしてた。こうぎゅーって」
顔真似をしてやると、驚いた顔で眉間をおさえるしぐさをした。自分が今までどんな表情をしていたか、気付いていなかったらしい。
「別にどこも痛くないよ。ただの疲れでしょ。それよりランサーはどうしたの」
「どうしたも何も、お前んトコに行くつもりだったんだよ。今帰りなら、このままついてっていいか?」
「……別に、いいけど。ただ、少し離れて歩いて欲しい」
依久乃は周囲をきょろきょろと見回す。先程も思ったが、まるで小動物みたいで少し面白い。
「なんでだよ」
「まだ仕事場の近くだから」
曰く、異性と一緒にいるところを知り合いに見られると後々面倒らしい。特にオレは目立つから尚更だそうだ。正直そこまで気にする事かとも思ったが、こういう時の依久乃は存外に頑固なので、言われた通り少し離れて後ろを歩いた。
歩幅を合わせながらゆっくり歩いていると、ある店の前で依久乃が立ち止まった。
そこは中世風の装飾が施された如何にもな店構えのアンティークショップだった。開け放たれた入口には革張りの椅子が置いてあり、“OPEN”と書かれた木の看板が立てかけられている。
飴色の木枠で縁取られた大きなガラス張りのショーウィンドウには、豪奢な電気スタンド、壁掛け時計、猫の置物や食器セットなどが脈絡なくディスプレイされていて、それらは時間に取り残されたまま、かつての思い出に浸るようにひっそりと佇んでいる。
依久乃はそれらには目もくれず、ディスプレイの隅にある小さな箱の中をじっと見つめていた。
「どうした? 何見てんだ?」
「いや、ちょっと……目に付いて」
視線の先には、小さな赤い薔薇のブローチ。赤い石を削り出して作られた花を、金属で作られた茎と葉が支えており、素人目にもわかるほど精巧な細工に目を見張る。さらに、花びらの輪郭や葉の部分にはところどころ透明な石が埋め込まれ、照明の光を受けてきらきらと輝いていた。
「ほう、こりゃすげえ」
「デザインもいいし、作りも丁寧で……でもね、これは多分本物じゃない。値段と状態からして、ベースは貴金属だけど、石はおそらく人工だと思う」
「そうなのか? なのに目に付いたのか」
「うん、不思議だよね。これ自体は安価でありふれたものだし、神秘性も魔術的価値もはないはずなんだけど、なんか……気になって」
言われて、改めてブローチをよく見る。確かに、多少魔力のようなものを感じた。そのものの
「そうだなぁ。もしかしたら以前の持ち主が大事にしてたのかも知れん。強い想念っつうモンは、その物の価値や在り方を変えるからな。それが愛であれ、呪いであれ」
「想いが、価値や在り方を変える……そういう事も、あるんだ」
依久乃はどこか独り言のように呟く。自分の中になかった概念を知り、その言葉を噛み締めたいけれど、何故だか口に入れるのは躊躇われる、そんな表情だった。視線は相変わらずブローチに向けられている。
「お前、やっぱこういうの好きなんだな」
「え、いや……好きとかじゃなくて、これは職業病みたいなもので」
ブローチから視線を外し、慌てて否定する。
「でも楽しそうに見てたじゃねえか。欲しくなったりしねえのか?」
「そんな風に思った事ないよ。ていうか、私なんかがそんな事思っちゃいけない」
「あ? なんでだよ」
何気ない疑問のつもりだったが、依久乃は「それは……」と言葉を詰まらせてしまった。そしてしばらく視線を彷徨わせたあと、絞り出すように言葉を吐き出した。
「ええと……私には、相応しく、ないから……」
途切れ途切れに紡がれたそれは、当たり前すぎる事を聞かれたが故に、改めて言葉にするのに時間がかかっていると言った風だった。
人は身に着けるもので自覚的な自己価値が変わるという感覚は確かにある。そこから転じて、身に付けるものに相応しい人間であるべき、という考え方もまあ、理解は出来る。それが高級な宝飾品なら尚の事、それなりの品格を求められるのだろう。依久乃の言葉は一見ただの謙遜とも取れる。だが、オレにはそれだけではないようにも思えた。
基本、必要がなければ他人の哲学には口を出さない主義だが、依久乃のその言葉は何故か飲み込み難かった。オレの感覚と違いすぎるからか、それとも違う理由なのかはわからない。
しかしオレが意味を問い返すより先に、依久乃が歩き出す。そして振り返らずにこう言った。
「それにこういうのは私なんかより、セイバーみたいな高貴な人とか、凛みたいな綺麗な子が身に着けるべきなの」
表情こそ見えなかったが、それは笑みを含んだ穏やかな声だ。しかし、その背中は声音とは裏腹にどこか寂しげにも見える。
理由はわからないが、オレはその言葉に無性に苛立った。かと言って原因がわからないソレを依久乃ぶつける気にもなれず、彼女が背負った湿っぽい空気を自分の苛立ちごと吹き飛ばすように、努めて明るい声で言葉を放った。
「あー、まあセイバーはともかくとして、遠坂の嬢ちゃんはそんなしおらしい感じじゃねえけどなぁ。
魔術のためにガバッと買って、パーッと豪快に使っちまうだろ?」
オレの発言に、依久乃は少しよろめいてから立ち止まり、ゆるゆると振り返った。潤んだ瞳にちょうど夕日が差し込んでいる。さっきの石みたいで綺麗だ、とオレは思う。
「ランサーってば……今それ言っちゃう?」
困ったように眉根を寄せた笑顔は、苦笑いにも、笑うのを必死に我慢しているようにも見える。
「だってホントの事だろ?」
「……そう、だね」
依久乃は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐさまふっと笑った。まだ少し寂しげだが、張り詰めていたものは少し緩んだらしい。
「やっとまともにこっち見たな」
漸く視線が合ったので、そのままじっと見つめてやると、依久乃は唇を引き結び、向こうを向いてしまった。夕日でわかりにくいが、耳まで赤いようにも見える。
それでも顔が見たかったので、再び歩き始めた依久乃に近づき、並んで歩いてみた。離れろと言われるかと思ったが、特に咎められなかったのでそのまま隣で歩き続けた。
しばらくの沈黙のあと、依久乃がぽつぽつと口を開いた。
「あのさ……一応、さっきのは見た目や雰囲気の話をしてたんだけど……」
「わかってるよ」
「うん……あと凛は、買うときは一気に買うけど、使う時は案外渋るかも……いや、でも、追い込まれると、ランサーの言う通りになるね。ふふっ」
依久乃は遠坂凛の思い切りの良さを思い浮かべているのか、笑いを堪えながら話している。
「だろ? 潔いっつーか肝が据わってるっつーか、いっそ男前だよなぁ」
「ふっ、あははっ……すごいね、ランサー。この短期間で、凛のことよくわかってる」
「まあな?」
得意げな顔をすると、依久乃はとうとう耐えられなくなり今度こそ笑いだした。ダメだ、こんな事で笑っちゃいけないのに、などとこぼしながらも、それはしばらく止むことはなかった。
これまでも料理を褒めたりすると微笑むことはあったが、こんな風に楽しげに、無邪気に笑う姿を見るのは初めてだった。
「悪い意味で笑ってる訳じゃねえんだからいいだろ? むしろ褒めてんだぜ、オレは」
「そうだね。でも、私が笑ったってバレたら殺されそう」
「確かにあの嬢ちゃんならやりかねんな」
「えぇー、そこは否定しとこうよ」
「安心しな。黙っといてやるよ。二人だけの秘密だな」
「何それ。ランサーとの秘密とかやだよ」
嫌がる言葉に反して、その表情はとても楽しそうだ。冗談交じりではあるが、共通の秘密を持つ事は互いの間に不思議な連帯感をもたらす。これがオレにはとても心地よく、失いがたいものに感じられた。
「……ところで、もうずっと隣歩いてるけどいいのか?」
「はっ、いつの間に……!」
隣を歩いている事に本気で気付いていなかったらしく、またソワソワと周囲を見回し始めた。しかしあの店の前から既に数分、駅前通りはとっくに抜けて住宅街に入っており、周囲の人間はまばらだ。
「別に見られたって構やしねえだろ。やましい事なんて何もねえんだからよ」
「で、でも!」
「大丈夫だ。なんか言われたら責任取ってやるよ」
「責任って……?」
「オレのせいにしていいって意味だよ。適当に絡まれたとかナンパされたとか言っとけ。それとも、他に何か違う責任の取り方があんのか?」
「なっ……べ、別に何もないよ……!」
軽くからかうと、顔を真っ赤にしてたじろいだ。硬い雰囲気がひとたび緩めば、面白いほど打てば響く。からかい甲斐がある女は、嫌いじゃない。
── 私には、相応しくないから。
ふと、先程の言葉が頭を過り、胸の奥に感じた違和感が蘇った。だが今その意味を問うては、この心地よい空気に水を差す事になる。先程と比べてすっかり緊張が解けた依久乃の横顔を見ていると、それを再び曇らせる事は憚られ、オレはその疑問を、すっきりしない気持ちごと飲み込んだ。
こんなものは、美味い飯を食べればきっと、すぐにどこかへ消えてしまうだろう。
(続)