六月 揺れる心は匣の中
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
02
「おい、依久乃」
ランサーの声でふと我に返る。先程までテレビを観ていたはずなのに、いつの間にか私の目はランサーを捉えていた。
「あ、ごめん。……また見ちゃってた?」
「結構長い事な。疲れてんのか」
「うん、そうかも」
ランサーは特に気にした様子はなく、私もあまり動じずに、視線を外す。ふと手元を見ると、ツマミとして用意したカナッペを持ったままだった。落とさなくてよかったと安堵しつつ、口に入れた。画面の向こうでは先程までと違う番組が流れているが、どうやらまだ始まったばかりだった。ぼんやりしていたのは、だいたい十分くらいか。
この目は疲れていると制御が難しくなり、無意識に強い神秘に目を奪われる。日常的にそんな神秘には出会わないので、普段の生活では意識する事はないのだが、ランサーといると頻繁に起きるので、やはりサーヴァントの神秘は相当なものなのだろう。他人をじっと見つめてしまう、だなんて、客観的に見るととても小っ恥ずかしい現象ではあるのだが、私はまたか、という感じだし、ランサーももう慣れてしまったようで、特に気にした様子はない。いちいちからわれたりしないのはありがたかったけれど、見つめられる側が慣れてしまうほどにはその頻度が高いと思うと、少し複雑な気持ちだった。
視界をリセットして頭を切り替えるために、使い終わった食器をまとめてキッチンに運ぶ。そのまま洗い始めると、ランサーもこちらにやってきた。離れるためにキッチンに来たのに、近付いて来られたら意味がない。肩が触れそうな距離に、僅かに心拍数が上がる。
「平気だよ、そんなに数もないし」
緊張を気取られないようできるだけ明るい声で断りながら、濯いだ食器をカゴに積んでいく。しかし、ランサーは部屋に戻る様子はなく、そのままカゴに積まれた食器を拭き始めた。
「さっき疲れてるって言ってたじゃねえか。無理すんな」
「いや、ほんと大丈夫だから、座ってて」
「二人でやった方が早えだろ」
「そりゃそうだけど……」
「いいじゃねえか。久しぶりに会えたんだ。面倒事はさっさと終わらせてようぜ」
口では攻防を繰り広げながらも、互いに手を動かしていた。私は食器を濯いでカゴに入れ、その食器をランサーが手際よく拭いていく。皿を拭く布は、言わなくてもどれか分かっている。一ヶ月前までは結構な頻度でうちに来ていたので当然と言えば当然なのだが、ちゃんと覚えてるんだ、と少し感心した。そうこうしているうちに、洗い物は片付いてしまった。
最後の一枚を拭いているランサーに、私はずっと気になっていた疑問をぶつけた。
「ねえ、久しぶりって言うけどさ。この一ヶ月どうしてたの」
ランサーは皿を拭く手を一瞬止めた。そして少し考えたあと、「いや、まあ、なんつーか……」と曖昧に笑った。その歯切れの悪さに、尋ねた事を後悔した。ランサーは基本、こちらに踏み込んで来ない。であればランサーも踏み込まれるのは嫌うだろう。単なる疑問だが、私が知るべき事でもなかった。
「……言いたくなかったら別にいいよ」
「いや、そういう訳じゃねえよ。……まあ、なんだ。最近始めたバイト先の店長が面倒見のいい人で、よく飯に誘ってくれてな」
少しだけ気まずそうな表情でランサーは言った。その表情の意図は私にはわからない。別に気兼ねするような事でもないだろう。冷蔵庫から追加の缶ビールを二本取り出しながら、ふうん、と相槌を打った。
「……あとは気まぐれに坊主んちに行ったりとか、たまーにナンパした姉ちゃんについてったりとか、色々あって、気付いたらひと月経ってたわ」
「何それ! 心配して損した!」
私は冷蔵庫の扉を勢いよく閉めた。本気で怒った訳ではないが、その茶化すような言い方に少しだけイラッとした。ランサーは、はは、悪い悪い、と軽く謝り、私の手からビールをひとつ取り上げ、ソファにどっかと腰掛けた。本当に悪いと思っているのか疑問に思いながら、床に置いたクッションの上に座る。
「それがなぁ、聞いてくれよ。ナンパが悉 く失敗するんだよ。なんやかんや邪魔が入ったり、身元の知れない外国人とは無理、とか言って断られたりよ。呪われてんのかと思ったぜ」
先程までの歯切れの悪さが嘘のように愚痴り出し、一通り吐き出したあと、入れ替わりにビールを流し込んだ。ここは哀れに思うべき所なのかも知れないが、当の本人が全くショックを受けているように見えないため、「それは呪いなんかじゃなく、人として当然の反応だから」とバッサリ切り捨てた。ランサーは一瞬目を見開いたあと、こちらをからかうような笑みを浮かべて言った。
「ひでぇなァ。じゃあ家に入れてくれるお前は人間じゃねえの?」
「いや、私は身元知ってるし」
「ハハッ、そりゃそうだな!」
ランサーは大きく口を開けて笑い、皿に残った最後のカナッペを口に放り込んだ。数度咀嚼して、すかさずビールをぐいっと煽る。ごくりと喉を鳴らし、あーうめえ、と心底からの声を吐き出した。まるで悩みなどひとつもなさそうなその姿に、私も釣られて小さく笑う。
「……元気そうでよかった。何かあったかと思って、ちょっと心配してたから」
息を吐き、ビールを一口飲んだ。炭酸の泡が舌と喉を一気に滑り落ち、麦とアルコールの匂いが余韻となって残る。心配したのは本当だ。寂しいだなんて思ってしまった事は、口が裂けても言わないけれど。
視線をテレビの方に向けたまま、ランサーは「そうか。そりゃ悪かった」と少し困ったように笑った。その横顔がどこか物憂げに見えて、なんとなく言葉に詰まる。ランサーはそれ以上何も言わず、しばらく沈黙が続いた。堪らずテレビに視線をやると、世界の遺跡を探検するリポーターが、カメラを意識した大仰なリアクションで驚きを表現していた。映像の中の景色は雄大で、行ってみたいな、という気にさせられる。
しばらく画面を眺めていると、ふいにランサーが口を開いた。
「しかしアレだな。やっぱ依久乃んトコが一番だ」
先程までとは一転して、酷く優しい声音だった。何事かと視線をやると、膝に頬杖をつき、流し目でこちらを見つめていた。細められた目の奥で赤い瞳が柔らかく揺れる。その様に妙な色気を感じて、心拍数が上がり、頬が紅潮するのを感じた。
「な、なにが……!?」
「あ? 何って、飯だよ、飯」
細められた目を一気に見開き、先程の艶かしい表情が嘘のようにカラッとした雰囲気で言う。私はハッと我に返り、やられた、と思った。私の反応に気を良くしたのか、ランサーはニヤニヤと「他に何だと思ったんだ?」などと聞いてくる。
「いや、別に何も!?」
「ほう? でもお前、顔真っ赤だぜ」
「これは目が勝手に反応してるだけだし。だいたい、他に何かありそうな言い方したのはそっちじゃない!」
「えぇ、そうかァ?」
絶対わざとだ。ニヤニヤと口端を上げて、私の反応が面白くて仕方ないという表情をしている。こういう風にからかわれるのは、何度やられても慣れない。特にさっきのは少し、声とか、表情とか、すごく、良くないと思う。いや、そんな空気を出されたところで本気だなんてこれっぽっちも思ったりはしないけど、この厄介な目は私の気持ちなんかそっちのけで勝手に反応してしまうから。それどころか、強すぎる刺激には感情も揺さぶられるから、それが自分の気持ちだと錯覚しそうになる。だから、本当に、勘弁して欲しい。
「まあ、飯が一番ってのは本当だぜ? 料理が上手いってのもあるんだろうが、何よりオレの好みに合う」
坊主の味も捨てがたいんだがなぁ、としみじみ独りごちるように言う。からかわれるのは嫌だけど、料理を褒められるのは素直に嬉しい。自然と頬が緩み、緊張が解れる。心拍数が平常に戻り、悪態を吐く余裕が生まれた。
「その割に一ヶ月忘れてたじゃない。説得力ないよ」
「そりゃ悪かったって。これからはまたちょくちょく来るからよ」
「まあ、好きにすれば? ランサーと話すのは、暇つぶし程度にはなるし」
「お、奇遇だな。オレも依久乃といると、楽しいぜ」
屈託のない笑顔。私といると楽しい、そこにきっと嘘はないのだろう。でもそれはきっとあくまで、気を遣わない友達としてだ。だからこの会話に深い意味なんてない。その笑顔に私の心臓がまた跳ねたとしても、それは私の目のせいであって。私自身はランサーにこれ以上望んではいない。
だってランサーは、神話の英雄だ。彼にとって、私はきっと有象無象の一人に過ぎない。だからこそ、向こうもこうしてフランクに会話している訳だし。それに、本気にならない距離感の方が心地よい事もある。
しばらくして、ランサーがそろそろ帰ると言い出した。時計を見るとまだ十時を回ったところだった。明日は早番なのだそうだ。この時間はまだエントランスが開いているので、玄関で見送る事にした。靴を履いている背中に声をかける。
「じゃ、気をつけて。傘、忘れないでね」
「わかってる。差してかねえと、バイト先でもどやされるからな」
「へえ。なんか、すっかり馴染んでるね」
こちらを振り返ったランサーは「おかげさまでな」と苦笑いをした。言葉とは裏腹に、不本意ながら、と言いたげな顔だった。戦いのために召喚された彼にとっては今の状況は予想外だろうし、複雑な心境なのだろう。それでも文句ひとつ言わず適応出来ているのは、流石だと思う。
立てかけてあった傘を手に取り、またなと手をひらひらさせるランサーの姿に、ふと、もう二度と会えなくなるような気がして、少しだけ胸が痛んで。
気付いた時には、ねえ、なんて声をかけていた。
「ん? なんだ?」
「……次、来る時さ。何か食べたいものある?」
「どうした急に」
「いや、いつも来るの突然だし、食材もありあわせになりがちだからさ。たまにはリクエスト、聞いとこうかなって思って」
口を動かしながら、頭では、自分は何を言ってるんだろう、と思っていた。仕事だってあるし、次いつ来るかわからないんだから、余計な事を背負い込む余裕なんて、ないのに。
「リクエストと来たか。んー……そうだなァ。初めて会った時に作ってくれた、アレはどうだ。サバに野菜乗っけたヤツ」
「南蛮漬け? いいけど、同じのでいいの?」
「おう、美味かったからまた食いてぇなと。頼めるか? 魚は、買ってくるからよ」
「ランサーが、それでいいなら」
「じゃそれで。そうだな、次いつ来るかも決めとくか」
「え、いいの?」
「ああ、かまわんぞ。早速だが明後日はどうだ?」
「明後日は……うーん、帰るの遅くなりそうだから、今週の金曜日なら」
「じゃ、金曜で。よろしくな」
自分の言動に戸惑う気持ちを他所に、トントン拍子に次に会う日まで決まってしまった。
「そんじゃ、またな」
「うん、また。金曜に」
今度こそ送り出すため、右手を軽く上げる。瞬間、大きな手が伸びてきて、頭を軽く撫でられた。ランサーは、あんま無理すんなよ、と小さく呟いたあと、私の返答を待たずに踵を返した。ドアが開いた一瞬、コンクリートに反響する雨音が大きくなり、すぐにまた遠のいた。しばらくの間、足音が微かに聞こえていたが、それも次第に消えていった。
私は、しばらく玄関に立ち尽くしていた。無理するな、と言ったランサーがどんな表情をしていたか、つい先程の事なのによく覚えていない。ただ、その手の大きさと感触だけは焼け付くように残っている。触れるか触れないかの優しい手つき。私の身体を気遣ってのものだとわかる。何故か少しだけ、鼻の奥がツンと痛むような感覚があった。
鍵、閉めなきゃ。どうにか冷静な思考を手繰り寄せる。つまみを捻りチェーンをかけると、指先に触れる金属が、やけに冷たく感じた。
次に会う約束、しちゃった。手を鍵から離し、だらりと脱力させ、そのまま額をドアに押し付けた。こちらも冷たいが、むしろ心地よかった。触れられた事で生まれた熱が、吸い取られていく。
金曜日には、ランサーがまたやってくる。そう思うと、あたたかくて甘い、それでいて少し痛いような、なんとも言えない感情が込み上げてきた。
一ヶ月ぶりだから、忘れかけていた。やっぱり、ランサーといると、少し、おかしくなる。気が緩むというか、心が揺らぐというか。さっきだって、あんな──相手に期待するような行動、普段の私ならしないのに。
これ以上を望まないと言いながら、次に会う約束をする矛盾。か細いつながりに縋るようで、自分がひどくみっともない人間のように感じた。こんなの、私らしくない。
でも、これは目を通して受け取った彼の強すぎる神秘に、心を揺らされているだけだ。強い神秘は人を魅了する。宝石だってたまに、そういう物がある。サーヴァントともなれば、その揺らぎはかなりのものになるだろう。
けれど大丈夫。私はこれまでずっと、己の役割を果たすために、あらゆる感情を心の中の匣に閉じ込めて、しっかり鍵をかけてきたのだ。見たものの美しさが、心を揺らさないように、宝石に手を伸ばさないで済むように。
美しいものは、相応しい人のところにあるべきだと思う。
私はあくまで、ただの鑑定士。どんなに綺麗な宝石も、決して私のものにはならないし、ましてやそれを手にしたいなどと望まない。たとえ、それが手の届くところにあったとしても。それがどんなに私の心を揺らしたとしても。私自身は、数多の宝石に見合うだけの価値を持ち合わせない。
鍵を今一度しっかり閉め直した心の匣を、今度は誰も見ない部屋の奥に隠す。探そうとする人がいなければ、きっと見つかる事もないだろう。
「おい、依久乃」
ランサーの声でふと我に返る。先程までテレビを観ていたはずなのに、いつの間にか私の目はランサーを捉えていた。
「あ、ごめん。……また見ちゃってた?」
「結構長い事な。疲れてんのか」
「うん、そうかも」
ランサーは特に気にした様子はなく、私もあまり動じずに、視線を外す。ふと手元を見ると、ツマミとして用意したカナッペを持ったままだった。落とさなくてよかったと安堵しつつ、口に入れた。画面の向こうでは先程までと違う番組が流れているが、どうやらまだ始まったばかりだった。ぼんやりしていたのは、だいたい十分くらいか。
この目は疲れていると制御が難しくなり、無意識に強い神秘に目を奪われる。日常的にそんな神秘には出会わないので、普段の生活では意識する事はないのだが、ランサーといると頻繁に起きるので、やはりサーヴァントの神秘は相当なものなのだろう。他人をじっと見つめてしまう、だなんて、客観的に見るととても小っ恥ずかしい現象ではあるのだが、私はまたか、という感じだし、ランサーももう慣れてしまったようで、特に気にした様子はない。いちいちからわれたりしないのはありがたかったけれど、見つめられる側が慣れてしまうほどにはその頻度が高いと思うと、少し複雑な気持ちだった。
視界をリセットして頭を切り替えるために、使い終わった食器をまとめてキッチンに運ぶ。そのまま洗い始めると、ランサーもこちらにやってきた。離れるためにキッチンに来たのに、近付いて来られたら意味がない。肩が触れそうな距離に、僅かに心拍数が上がる。
「平気だよ、そんなに数もないし」
緊張を気取られないようできるだけ明るい声で断りながら、濯いだ食器をカゴに積んでいく。しかし、ランサーは部屋に戻る様子はなく、そのままカゴに積まれた食器を拭き始めた。
「さっき疲れてるって言ってたじゃねえか。無理すんな」
「いや、ほんと大丈夫だから、座ってて」
「二人でやった方が早えだろ」
「そりゃそうだけど……」
「いいじゃねえか。久しぶりに会えたんだ。面倒事はさっさと終わらせてようぜ」
口では攻防を繰り広げながらも、互いに手を動かしていた。私は食器を濯いでカゴに入れ、その食器をランサーが手際よく拭いていく。皿を拭く布は、言わなくてもどれか分かっている。一ヶ月前までは結構な頻度でうちに来ていたので当然と言えば当然なのだが、ちゃんと覚えてるんだ、と少し感心した。そうこうしているうちに、洗い物は片付いてしまった。
最後の一枚を拭いているランサーに、私はずっと気になっていた疑問をぶつけた。
「ねえ、久しぶりって言うけどさ。この一ヶ月どうしてたの」
ランサーは皿を拭く手を一瞬止めた。そして少し考えたあと、「いや、まあ、なんつーか……」と曖昧に笑った。その歯切れの悪さに、尋ねた事を後悔した。ランサーは基本、こちらに踏み込んで来ない。であればランサーも踏み込まれるのは嫌うだろう。単なる疑問だが、私が知るべき事でもなかった。
「……言いたくなかったら別にいいよ」
「いや、そういう訳じゃねえよ。……まあ、なんだ。最近始めたバイト先の店長が面倒見のいい人で、よく飯に誘ってくれてな」
少しだけ気まずそうな表情でランサーは言った。その表情の意図は私にはわからない。別に気兼ねするような事でもないだろう。冷蔵庫から追加の缶ビールを二本取り出しながら、ふうん、と相槌を打った。
「……あとは気まぐれに坊主んちに行ったりとか、たまーにナンパした姉ちゃんについてったりとか、色々あって、気付いたらひと月経ってたわ」
「何それ! 心配して損した!」
私は冷蔵庫の扉を勢いよく閉めた。本気で怒った訳ではないが、その茶化すような言い方に少しだけイラッとした。ランサーは、はは、悪い悪い、と軽く謝り、私の手からビールをひとつ取り上げ、ソファにどっかと腰掛けた。本当に悪いと思っているのか疑問に思いながら、床に置いたクッションの上に座る。
「それがなぁ、聞いてくれよ。ナンパが
先程までの歯切れの悪さが嘘のように愚痴り出し、一通り吐き出したあと、入れ替わりにビールを流し込んだ。ここは哀れに思うべき所なのかも知れないが、当の本人が全くショックを受けているように見えないため、「それは呪いなんかじゃなく、人として当然の反応だから」とバッサリ切り捨てた。ランサーは一瞬目を見開いたあと、こちらをからかうような笑みを浮かべて言った。
「ひでぇなァ。じゃあ家に入れてくれるお前は人間じゃねえの?」
「いや、私は身元知ってるし」
「ハハッ、そりゃそうだな!」
ランサーは大きく口を開けて笑い、皿に残った最後のカナッペを口に放り込んだ。数度咀嚼して、すかさずビールをぐいっと煽る。ごくりと喉を鳴らし、あーうめえ、と心底からの声を吐き出した。まるで悩みなどひとつもなさそうなその姿に、私も釣られて小さく笑う。
「……元気そうでよかった。何かあったかと思って、ちょっと心配してたから」
息を吐き、ビールを一口飲んだ。炭酸の泡が舌と喉を一気に滑り落ち、麦とアルコールの匂いが余韻となって残る。心配したのは本当だ。寂しいだなんて思ってしまった事は、口が裂けても言わないけれど。
視線をテレビの方に向けたまま、ランサーは「そうか。そりゃ悪かった」と少し困ったように笑った。その横顔がどこか物憂げに見えて、なんとなく言葉に詰まる。ランサーはそれ以上何も言わず、しばらく沈黙が続いた。堪らずテレビに視線をやると、世界の遺跡を探検するリポーターが、カメラを意識した大仰なリアクションで驚きを表現していた。映像の中の景色は雄大で、行ってみたいな、という気にさせられる。
しばらく画面を眺めていると、ふいにランサーが口を開いた。
「しかしアレだな。やっぱ依久乃んトコが一番だ」
先程までとは一転して、酷く優しい声音だった。何事かと視線をやると、膝に頬杖をつき、流し目でこちらを見つめていた。細められた目の奥で赤い瞳が柔らかく揺れる。その様に妙な色気を感じて、心拍数が上がり、頬が紅潮するのを感じた。
「な、なにが……!?」
「あ? 何って、飯だよ、飯」
細められた目を一気に見開き、先程の艶かしい表情が嘘のようにカラッとした雰囲気で言う。私はハッと我に返り、やられた、と思った。私の反応に気を良くしたのか、ランサーはニヤニヤと「他に何だと思ったんだ?」などと聞いてくる。
「いや、別に何も!?」
「ほう? でもお前、顔真っ赤だぜ」
「これは目が勝手に反応してるだけだし。だいたい、他に何かありそうな言い方したのはそっちじゃない!」
「えぇ、そうかァ?」
絶対わざとだ。ニヤニヤと口端を上げて、私の反応が面白くて仕方ないという表情をしている。こういう風にからかわれるのは、何度やられても慣れない。特にさっきのは少し、声とか、表情とか、すごく、良くないと思う。いや、そんな空気を出されたところで本気だなんてこれっぽっちも思ったりはしないけど、この厄介な目は私の気持ちなんかそっちのけで勝手に反応してしまうから。それどころか、強すぎる刺激には感情も揺さぶられるから、それが自分の気持ちだと錯覚しそうになる。だから、本当に、勘弁して欲しい。
「まあ、飯が一番ってのは本当だぜ? 料理が上手いってのもあるんだろうが、何よりオレの好みに合う」
坊主の味も捨てがたいんだがなぁ、としみじみ独りごちるように言う。からかわれるのは嫌だけど、料理を褒められるのは素直に嬉しい。自然と頬が緩み、緊張が解れる。心拍数が平常に戻り、悪態を吐く余裕が生まれた。
「その割に一ヶ月忘れてたじゃない。説得力ないよ」
「そりゃ悪かったって。これからはまたちょくちょく来るからよ」
「まあ、好きにすれば? ランサーと話すのは、暇つぶし程度にはなるし」
「お、奇遇だな。オレも依久乃といると、楽しいぜ」
屈託のない笑顔。私といると楽しい、そこにきっと嘘はないのだろう。でもそれはきっとあくまで、気を遣わない友達としてだ。だからこの会話に深い意味なんてない。その笑顔に私の心臓がまた跳ねたとしても、それは私の目のせいであって。私自身はランサーにこれ以上望んではいない。
だってランサーは、神話の英雄だ。彼にとって、私はきっと有象無象の一人に過ぎない。だからこそ、向こうもこうしてフランクに会話している訳だし。それに、本気にならない距離感の方が心地よい事もある。
しばらくして、ランサーがそろそろ帰ると言い出した。時計を見るとまだ十時を回ったところだった。明日は早番なのだそうだ。この時間はまだエントランスが開いているので、玄関で見送る事にした。靴を履いている背中に声をかける。
「じゃ、気をつけて。傘、忘れないでね」
「わかってる。差してかねえと、バイト先でもどやされるからな」
「へえ。なんか、すっかり馴染んでるね」
こちらを振り返ったランサーは「おかげさまでな」と苦笑いをした。言葉とは裏腹に、不本意ながら、と言いたげな顔だった。戦いのために召喚された彼にとっては今の状況は予想外だろうし、複雑な心境なのだろう。それでも文句ひとつ言わず適応出来ているのは、流石だと思う。
立てかけてあった傘を手に取り、またなと手をひらひらさせるランサーの姿に、ふと、もう二度と会えなくなるような気がして、少しだけ胸が痛んで。
気付いた時には、ねえ、なんて声をかけていた。
「ん? なんだ?」
「……次、来る時さ。何か食べたいものある?」
「どうした急に」
「いや、いつも来るの突然だし、食材もありあわせになりがちだからさ。たまにはリクエスト、聞いとこうかなって思って」
口を動かしながら、頭では、自分は何を言ってるんだろう、と思っていた。仕事だってあるし、次いつ来るかわからないんだから、余計な事を背負い込む余裕なんて、ないのに。
「リクエストと来たか。んー……そうだなァ。初めて会った時に作ってくれた、アレはどうだ。サバに野菜乗っけたヤツ」
「南蛮漬け? いいけど、同じのでいいの?」
「おう、美味かったからまた食いてぇなと。頼めるか? 魚は、買ってくるからよ」
「ランサーが、それでいいなら」
「じゃそれで。そうだな、次いつ来るかも決めとくか」
「え、いいの?」
「ああ、かまわんぞ。早速だが明後日はどうだ?」
「明後日は……うーん、帰るの遅くなりそうだから、今週の金曜日なら」
「じゃ、金曜で。よろしくな」
自分の言動に戸惑う気持ちを他所に、トントン拍子に次に会う日まで決まってしまった。
「そんじゃ、またな」
「うん、また。金曜に」
今度こそ送り出すため、右手を軽く上げる。瞬間、大きな手が伸びてきて、頭を軽く撫でられた。ランサーは、あんま無理すんなよ、と小さく呟いたあと、私の返答を待たずに踵を返した。ドアが開いた一瞬、コンクリートに反響する雨音が大きくなり、すぐにまた遠のいた。しばらくの間、足音が微かに聞こえていたが、それも次第に消えていった。
私は、しばらく玄関に立ち尽くしていた。無理するな、と言ったランサーがどんな表情をしていたか、つい先程の事なのによく覚えていない。ただ、その手の大きさと感触だけは焼け付くように残っている。触れるか触れないかの優しい手つき。私の身体を気遣ってのものだとわかる。何故か少しだけ、鼻の奥がツンと痛むような感覚があった。
鍵、閉めなきゃ。どうにか冷静な思考を手繰り寄せる。つまみを捻りチェーンをかけると、指先に触れる金属が、やけに冷たく感じた。
次に会う約束、しちゃった。手を鍵から離し、だらりと脱力させ、そのまま額をドアに押し付けた。こちらも冷たいが、むしろ心地よかった。触れられた事で生まれた熱が、吸い取られていく。
金曜日には、ランサーがまたやってくる。そう思うと、あたたかくて甘い、それでいて少し痛いような、なんとも言えない感情が込み上げてきた。
一ヶ月ぶりだから、忘れかけていた。やっぱり、ランサーといると、少し、おかしくなる。気が緩むというか、心が揺らぐというか。さっきだって、あんな──相手に期待するような行動、普段の私ならしないのに。
これ以上を望まないと言いながら、次に会う約束をする矛盾。か細いつながりに縋るようで、自分がひどくみっともない人間のように感じた。こんなの、私らしくない。
でも、これは目を通して受け取った彼の強すぎる神秘に、心を揺らされているだけだ。強い神秘は人を魅了する。宝石だってたまに、そういう物がある。サーヴァントともなれば、その揺らぎはかなりのものになるだろう。
けれど大丈夫。私はこれまでずっと、己の役割を果たすために、あらゆる感情を心の中の匣に閉じ込めて、しっかり鍵をかけてきたのだ。見たものの美しさが、心を揺らさないように、宝石に手を伸ばさないで済むように。
美しいものは、相応しい人のところにあるべきだと思う。
私はあくまで、ただの鑑定士。どんなに綺麗な宝石も、決して私のものにはならないし、ましてやそれを手にしたいなどと望まない。たとえ、それが手の届くところにあったとしても。それがどんなに私の心を揺らしたとしても。私自身は、数多の宝石に見合うだけの価値を持ち合わせない。
鍵を今一度しっかり閉め直した心の匣を、今度は誰も見ない部屋の奥に隠す。探そうとする人がいなければ、きっと見つかる事もないだろう。