野暮天と相合傘
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傘を持ってこなかった事を後悔したのは、午後の授業特有の凄まじい眠気に耐えながら窓の外を眺めた時だった。
朝の時点で既に微妙な空模様ではあったが、遅刻ギリギリの時間だったので、傘を持って行けと言う同居人の忠告を無視して家を出てきたのだった。
(言う事、聞いとけばよかったな……)
鉛色の空から降り注いだ水滴が容赦なく窓ガラスを濡らす様子に、ただでさえだるい授業がさらに憂鬱になる。ため息をつき、思わず机に突っ伏した。
そのまま眠ってしまっていたらしく、周囲の喧騒で目が覚めた。時計を見ると、終業時刻はとっくに過ぎている。先の授業はゆるい先生だから、居眠りを見逃してくれたのだろう。
窓の外では、雨が相変わらず降り続いていた。夢だと思いたくて、もう一度眠ろうとしたが、教室では私と同じく傘を忘れたらしい生徒たちが騒いでいて、寝付けそうにない。渋々、もう一度窓の外を確認する。雨の勢いは強すぎず弱すぎず。しかし、止みそうな気配はちっともない。さっさと歩いて帰った方が結果的に早いんじゃないだろうか。雨に濡れる覚悟を決めた私は、そそくさと荷物をまとめ、足早に教室を出て、廊下で走り込みをしている運動部の生徒を後目に階段を下りた。
「あれ誰? 誰かの親?」
「親にしては若くない?」
「でも白髪だし……ってか背、高……」
蛍光灯がついていてもどこか薄暗い生徒玄関には、軽く人だかりができていた。その中心で、見知らぬ女生徒が数名騒いでいる。耳に入った会話から想像できる人物に心当たりがありすぎて物凄く嫌な予感がしたので、人混みをかき分けて人々の視線の先を確認すると、案の定、入り口のドアの横に見慣れた男が立っていた。
正直このまま他人のフリをして帰りたい気持ちだったが、不審者扱いされると後々困りそうだったので、早々に靴を履き替え、身内であることを証明するために駆け寄って声をかけた。
「……アーチャー」
「今日は五限までのはずだろう。遅かったな」
時間割把握してるとか母親かっての、という言葉を飲み込む。男の正体に加え、私たちの関係性を探らんとしているのか、周囲のざわめきがさっきより大きくなった。視線が背中に貼り付くようだ。振り返って睨みつけると、ざわめきが静まり、一部の生徒は視線を逸らしたが、それでも人だかりは散らなかったので、アーチャーの腕を引いて、死角になるよう柱の影に入った。
「なんで来たの」
「なんでも何も。君が困っているだろうと思ってな」
彼の手には、傘が二本。片方は水滴を滴らせているが、もう片方は乾いている。傘を持って迎えに来てくれたらしい。
「忠告を無視するからこうなるんだ。さあ、帰るぞ」
乾いた方の傘を差し出すアーチャーのしたり顔に苛立ちを覚えた私は、差し出された傘を受け取らずに、代わりに濡れた方の傘を奪って開いた。
「何をしている? 君の傘はこっちだろう」
「アーチャーのばか」
「何故だ!?」
袖をぐっと引き寄せ、よろめいてこちらに近づいたアーチャーに耳打ちをした。
「恋人同士なんだし、一本でいいじゃん」
アーチャーはすかさず身を引いて、目を見開いたあと、口元を押さえて何かを考えるような表情をした。大きな手のひらで隠れて分からないが、心做しか頬が赤い気がする。
予想以上の反応だ。もしかしてこれは、照れているのだろうか。あのいつも慇懃で気障で、私の事を子供扱いするアーチャーが、私に、照れているのだろうか。試しに腕を絡めて身体を密着させると、さらに動揺した様子で周囲を見回した。
「ここは学校だぞ……! こんな所を見られたらまずいだろう」
……なんだそっちか、とやや落胆した。衆目はどうでもいい。そもそも外聞など気にするのなら、最初からアーチャーに告白なんてしない。
「別にいいよ。後ろめたい事なんてないし」
開いた傘を頭上に掲げる。少しだけ水滴がかかって頬が濡れた。
まあ、忠告を聞かなかったのは、悪かったと思う。それなのにわざわざ迎えに来てくれたのだから、感謝すべきだとも。けれど、それ見た事か、みたいな態度が癪に障るのだ。だから、ちょっと大胆な行動で困らせてみたかっただけ。狼狽えるアーチャーを見て溜飲が下がったので、腕を解いた。
柱の影から出ると、こちらを気にしていた野次馬たちはまだそこにいた。外聞を気にしないとはいえ、不躾な視線はあまり気持ちのいいものではない。いい加減飽きて散ってくれと思う。しかし、まあ、仕方ないかなとも。見慣れない成人男性とイチャつく女子生徒という構図は、学校という狭い世界しか知り得ない生徒たちにとっては好奇の対象だ。私でも、逆の立場なら気になってしまうだろう。変な噂とか、立つだろうか。アーチャーの驚く顔が見られたから、そんな事はもう、どうでもいいのだけど。
「ほら肩が濡れちゃうから、もっとくっついて」
「そういうのは、本来私が言うべきセリフではないかね……」
「恋人を迎えに来るのに傘二本持ってくる甲斐性なしは、私がリードしてあげないと」
「……ああ、そうだな。すまなかった。確かに、私が野暮だった」
そう言ったアーチャーは腕を私の肩に回し、頤を上げて口付けた。一瞬の出来事に思考が止まり、雨音がえらく遠く感じる。さっきまで寝ていたからか、動作が鈍い頭はワンテンポ遅れて状況を理解して、すかさず顔を逸らした。
「ちょ、まだ、学校の中……!」
「恋人同士だからな。キスくらい、するだろう?」
そう言ってもう一度肩を抱き寄せ、口付けてきた。引き剥がそうと腕に力をこめるも、ビクともしない。それどころか、恥ずかしさでいっぱいのはずなのに、唇の感触に絆され、次第に力が抜けていく。まさかこのまま舌を入れられるんじゃ、と思った瞬間に唇が離れ、アーチャーは気障な笑みをこちらに向けた。
「これで甲斐性なしとは言わせまい」
「……な、な」
「先に煽ったのは君だぞ。何、安心したまえ。傘に隠れて周囲からは見えまいよ」
「…………ばか」
「君はもっと語彙力を鍛えるべきだな」
「う、うるさい」
傘の中で反響するアーチャーの声が、何故だかいつもより綺麗に聞こえるから、余計に照れくささが込み上げてきて、罵倒に全然力が入らなかった。
野暮天だとか、朴念仁だとか、世話焼きオカンとか、思うところは色々あるけど、急に男らしいところを見せてくるのは本当にずるい。そうされる度に私は何も出来なくなって、アーチャーが好きなんだと思い知らされる。優位に立とうとしても、一瞬でひっくり返される力関係さえも、不思議と心地よくて。なんでこの人を好きになったのか自分でもわからないし、なんで私みたいな子供が受け入れられたのかはもっとわからないけれど。それでも、隣を歩く距離感は恋人のそれで、触れ合った部分から伝わる体温が心地よく、それだけで私の心は否応なく満たされるのだった。
後日、アーチャーとの関係について同級生たちから質問責めに遭った。あんな事をしたので当然と言えば当然なのだが、言い訳を考えるのがかなりめんどくさかったので、私は二度と傘を忘れまいと心に誓った。
朝の時点で既に微妙な空模様ではあったが、遅刻ギリギリの時間だったので、傘を持って行けと言う同居人の忠告を無視して家を出てきたのだった。
(言う事、聞いとけばよかったな……)
鉛色の空から降り注いだ水滴が容赦なく窓ガラスを濡らす様子に、ただでさえだるい授業がさらに憂鬱になる。ため息をつき、思わず机に突っ伏した。
そのまま眠ってしまっていたらしく、周囲の喧騒で目が覚めた。時計を見ると、終業時刻はとっくに過ぎている。先の授業はゆるい先生だから、居眠りを見逃してくれたのだろう。
窓の外では、雨が相変わらず降り続いていた。夢だと思いたくて、もう一度眠ろうとしたが、教室では私と同じく傘を忘れたらしい生徒たちが騒いでいて、寝付けそうにない。渋々、もう一度窓の外を確認する。雨の勢いは強すぎず弱すぎず。しかし、止みそうな気配はちっともない。さっさと歩いて帰った方が結果的に早いんじゃないだろうか。雨に濡れる覚悟を決めた私は、そそくさと荷物をまとめ、足早に教室を出て、廊下で走り込みをしている運動部の生徒を後目に階段を下りた。
「あれ誰? 誰かの親?」
「親にしては若くない?」
「でも白髪だし……ってか背、高……」
蛍光灯がついていてもどこか薄暗い生徒玄関には、軽く人だかりができていた。その中心で、見知らぬ女生徒が数名騒いでいる。耳に入った会話から想像できる人物に心当たりがありすぎて物凄く嫌な予感がしたので、人混みをかき分けて人々の視線の先を確認すると、案の定、入り口のドアの横に見慣れた男が立っていた。
正直このまま他人のフリをして帰りたい気持ちだったが、不審者扱いされると後々困りそうだったので、早々に靴を履き替え、身内であることを証明するために駆け寄って声をかけた。
「……アーチャー」
「今日は五限までのはずだろう。遅かったな」
時間割把握してるとか母親かっての、という言葉を飲み込む。男の正体に加え、私たちの関係性を探らんとしているのか、周囲のざわめきがさっきより大きくなった。視線が背中に貼り付くようだ。振り返って睨みつけると、ざわめきが静まり、一部の生徒は視線を逸らしたが、それでも人だかりは散らなかったので、アーチャーの腕を引いて、死角になるよう柱の影に入った。
「なんで来たの」
「なんでも何も。君が困っているだろうと思ってな」
彼の手には、傘が二本。片方は水滴を滴らせているが、もう片方は乾いている。傘を持って迎えに来てくれたらしい。
「忠告を無視するからこうなるんだ。さあ、帰るぞ」
乾いた方の傘を差し出すアーチャーのしたり顔に苛立ちを覚えた私は、差し出された傘を受け取らずに、代わりに濡れた方の傘を奪って開いた。
「何をしている? 君の傘はこっちだろう」
「アーチャーのばか」
「何故だ!?」
袖をぐっと引き寄せ、よろめいてこちらに近づいたアーチャーに耳打ちをした。
「恋人同士なんだし、一本でいいじゃん」
アーチャーはすかさず身を引いて、目を見開いたあと、口元を押さえて何かを考えるような表情をした。大きな手のひらで隠れて分からないが、心做しか頬が赤い気がする。
予想以上の反応だ。もしかしてこれは、照れているのだろうか。あのいつも慇懃で気障で、私の事を子供扱いするアーチャーが、私に、照れているのだろうか。試しに腕を絡めて身体を密着させると、さらに動揺した様子で周囲を見回した。
「ここは学校だぞ……! こんな所を見られたらまずいだろう」
……なんだそっちか、とやや落胆した。衆目はどうでもいい。そもそも外聞など気にするのなら、最初からアーチャーに告白なんてしない。
「別にいいよ。後ろめたい事なんてないし」
開いた傘を頭上に掲げる。少しだけ水滴がかかって頬が濡れた。
まあ、忠告を聞かなかったのは、悪かったと思う。それなのにわざわざ迎えに来てくれたのだから、感謝すべきだとも。けれど、それ見た事か、みたいな態度が癪に障るのだ。だから、ちょっと大胆な行動で困らせてみたかっただけ。狼狽えるアーチャーを見て溜飲が下がったので、腕を解いた。
柱の影から出ると、こちらを気にしていた野次馬たちはまだそこにいた。外聞を気にしないとはいえ、不躾な視線はあまり気持ちのいいものではない。いい加減飽きて散ってくれと思う。しかし、まあ、仕方ないかなとも。見慣れない成人男性とイチャつく女子生徒という構図は、学校という狭い世界しか知り得ない生徒たちにとっては好奇の対象だ。私でも、逆の立場なら気になってしまうだろう。変な噂とか、立つだろうか。アーチャーの驚く顔が見られたから、そんな事はもう、どうでもいいのだけど。
「ほら肩が濡れちゃうから、もっとくっついて」
「そういうのは、本来私が言うべきセリフではないかね……」
「恋人を迎えに来るのに傘二本持ってくる甲斐性なしは、私がリードしてあげないと」
「……ああ、そうだな。すまなかった。確かに、私が野暮だった」
そう言ったアーチャーは腕を私の肩に回し、頤を上げて口付けた。一瞬の出来事に思考が止まり、雨音がえらく遠く感じる。さっきまで寝ていたからか、動作が鈍い頭はワンテンポ遅れて状況を理解して、すかさず顔を逸らした。
「ちょ、まだ、学校の中……!」
「恋人同士だからな。キスくらい、するだろう?」
そう言ってもう一度肩を抱き寄せ、口付けてきた。引き剥がそうと腕に力をこめるも、ビクともしない。それどころか、恥ずかしさでいっぱいのはずなのに、唇の感触に絆され、次第に力が抜けていく。まさかこのまま舌を入れられるんじゃ、と思った瞬間に唇が離れ、アーチャーは気障な笑みをこちらに向けた。
「これで甲斐性なしとは言わせまい」
「……な、な」
「先に煽ったのは君だぞ。何、安心したまえ。傘に隠れて周囲からは見えまいよ」
「…………ばか」
「君はもっと語彙力を鍛えるべきだな」
「う、うるさい」
傘の中で反響するアーチャーの声が、何故だかいつもより綺麗に聞こえるから、余計に照れくささが込み上げてきて、罵倒に全然力が入らなかった。
野暮天だとか、朴念仁だとか、世話焼きオカンとか、思うところは色々あるけど、急に男らしいところを見せてくるのは本当にずるい。そうされる度に私は何も出来なくなって、アーチャーが好きなんだと思い知らされる。優位に立とうとしても、一瞬でひっくり返される力関係さえも、不思議と心地よくて。なんでこの人を好きになったのか自分でもわからないし、なんで私みたいな子供が受け入れられたのかはもっとわからないけれど。それでも、隣を歩く距離感は恋人のそれで、触れ合った部分から伝わる体温が心地よく、それだけで私の心は否応なく満たされるのだった。
後日、アーチャーとの関係について同級生たちから質問責めに遭った。あんな事をしたので当然と言えば当然なのだが、言い訳を考えるのがかなりめんどくさかったので、私は二度と傘を忘れまいと心に誓った。
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